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赤十字創設と宗教と政治-2(スイスの旗、赤十字の旗・ギュスターブ・モアニエ)

2024年04月25日 | 人物

赤十字-私たちはスイスの国旗を思い浮かべるけど、

デンマークの国旗 - Wikipedia

赤地に白い十字というのは、これはサヴォイア公国の旗でありました。

Flag of Savoie - サヴォイア公国 - Wikipedia

Coat of arms of the Duchy of Savoy (XV-XVI century) - サヴォイア公国 - Wikipedia


(赤字に中心がずれた白いずれはデンマークの国旗

デンマークの国旗 - Wikipedia

 

1860年1月にサヴォイ王からアンリ・デュナンとルイ・アッピアに「聖マウリッツオ、聖ラザロ騎士団勲章」を授与。

聖ラザロ騎士団 - Wikipedia

 

「赤十字」はスイスの旗を反転させた、と言われているようですが、実は「サヴォイアの白十字を反転」とも考えられるのでは?

 

赤十字設立の始まりから見ると、起業家だったアンリ・デュナン一人が初のノーベル平和賞を受賞するよりも、医師のルイ・アッピアのほうがノーベル平和賞にふさわしかったのではないかとも思うし、ギュスターブ・モアニエなしに赤十字が創立できなかったはずなのに、モアニエの名が出てこないのは不思議です。。

ギュスターヴ・モアニエ - Wikipedia

抜粋:

赤十字国際委員会の創設

1863年2月、モアニエ自らが議長を務め、当時のスイスで国家的英雄とみなされていた陸軍の将軍ギヨーム・アンリ・デュフールを委員長に迎えて、デュナン、軍事医学の大家と呼ばれた外科医師のルイ・アッピア、同じく外科医のテオドール・マウノワールの5人による「国際負傷軍人救護常設委員会(通称「5人委員会」)」をジュネーブで結成した[14]。

同年9月にベルリンで開催される国際福祉学会に提出する草案作成のため、モアニエからデュナンの案を提示されたジュネーブ公益福祉協会が、この草案の起草委員会として5人を任命したもので、デュナンの主張する「戦闘中の負傷者を敵味方の区別なく救護するための組織の創設」の妥当性を調査するための機関でもあった[12]。1863年2月17日、この5人委員会の最初に開かれた本会議で、これを恒久的な委員会をしてゆく方針が決定され、後の1867年に誕生する赤十字国際委員会(ICRC)の母体となった[12]。1863年2月17日は、後年の赤十字国際委員会によって「赤十字誕生の日」とみなされている[14]。

赤十字の組織創設をめざし、デュナンが自著を配布して遊説に努めた一方、モアニエは国際会議の開催を提案した[15]。1863年10月26日からの4日間、ヨーロッパの14か国から代表者36名が集う国際会議が開催され、5人委員会が用意した原案に基づく審議が行われた[15]。ここでモアニエは議長を務め、採択された「赤十字規約十カ条」に基づいて1年以内にプロシア、フランス、デンマークなど10カ国で赤十字の母体となる救護団体「負傷軍人救護協会」が組織された[15]。

1864年3月13日、デュフールが名誉総裁に退き、モアニエが赤十字国際委員会総裁に選出される[16]。


「赤十字の標章」1864-1868年
さらに翌1864年、スイス政府の主催した国際会議で16カ国の政府代表者26名が集った[15]。モアニエは、デュフール、レマン医学博士とともにスイス全権大使として外交会議に挑み、デュフールが議長をつとめ、モアニエが主導し、5人委員会の準備した条約草案が最初のジュネーブ条約「戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ関スル1864年8月22日のジュネーブ条約」が締結され、白地に赤十字を描く「赤十字の標章」が正式に承認されることとなった[15]。事実上、モアニエのペンから生まれた条約であった[1]。

1867年、アンリ・デュナンは、社長としてアルジェリアで行っていた事業の失敗から、自身が理事に就任し、自身の他の事業の転売先ともなっていたジュネーブ信託銀行の倒産を招き、莫大な負債を負って破産宣告を受けた[17]。経営破綻の主な原因はデュナンにあったことから、その信用と名声は地に墜ち、デュナンは赤十字国際委員会書記の辞任を申し出た[17]。

(中略)

1868年1月、パリにおいて「平和連盟」創始者のひとりとなる[22]。

1869年10月、『国際赤十字社紀要(Bulletin international des Societes de la Croix-Rouge)』第1号を皮切りに、年4回発行される本誌の編集主幹となる[23]。1898年10月11日にモアニエの業務量を軽減するために後任が充てられるまで、ほぼすべての編集作業をモアニエが担当した[24]。また、ジュネーヴ新聞へ定期的に送る『赤十字通信』もほぼすべてモアニエが自身で行っていた[25]。

1872年3月16日、各国中央委員会に宛てた書状で、モアニエは各国の救護社に「赤十字社」と標準名とすることを提案する。オランダ王国救護社の命名に倣った提案であった[26]


参考:

マルタ騎士団~サヴォイア王国(?)騎士団-ニューヨーク、東京、トリノを結ぶ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

仮置き:

マルタ騎士団を国と認め、セルボガ公国が認められないのはなぜ? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

2008年に創立された「ハプスブルク騎士団」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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