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イタリアン・ファシズム-3(乗っ取られたように感じるサヴォイア家)

2024年04月22日 | 人物

前回、2022年10月のブログ記事に書いた、この言葉をそのまま書きました。

一方、ムッソリーニのことを調べると、頭は良いけど風見鶏的で、実態は悪にせよ善にせよ、それほど大物だったともわたしにはおもえないんです。

実はサヴォイア王家に操られていただけではないかーと言う気までしてきます。

これは、①最初は君主制を批判していたムッソリーニが途中からサヴォイア王家と組み、ヴィットリオ・エマニュエーレ3世(1947年死亡)にやがて裏切られたこと、②サヴォイア王家の紋章、さらに言えばサヴォイア・カリニャーノ紋章がイタリアナショナリズム自体とはかけ離れている、③戦後スイスに逃げたサヴォイア王家のしたたかさ、からのイメージです。

サヴォイア家 - Wikipedia

サヴォイア=カリニャーノ家 - Wikipedia

 

③番目のスイスに逃げたサヴォイア家(サヴォイア・カリニャーノ家)ですが、よく考えてみるとスイスに逃げたのは元ベルギー王女と子供たち。当時の党首のヴィットリオ・エマニュエーレ3世は戦後はエジプトに逃げ、彼の息子ののウンベルトはポルトガルに逃げ、そして彼の孫はベルギー王女だった母親とスイスへ逃げたので、この段階でサヴォイア家は実質ベルギー王室(+α)が乗っ取った形になったのではないでしょうか?

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 - Wikipedia

ウンベルト2世 - Wikipedia

この孫のヴィットリオ・エマニュエーレは

ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア - Wikipedia

抜粋:

ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア(イタリア語: Vittorio Emanuele di Savoia, 1937年2月12日 - 2024年2月3日[1][2])は、イタリア王国において最後の国王となったウンベルト2世の長男(王太子)で、サヴォイア家当主及びイタリア王位請求者。1946年の共和制移行により成立したイタリア共和国において王位を含め全ての貴族称号が承認されていないが、国内の王党派からは「ナポリ公」と呼ばれ、一部の急進王党派からは「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ4世」とも呼ばれた。

イタリア王位やナポリ公位以外にも、様々な称号や継承権を父から継いでおり、その中にはエルサレム王位の請求権も含まれていた。名誉ある血筋と継承権を持ち、欧州に数多くいる「没落貴族のコミュニティー」でも大物の一人と見なされていた。一方、亡命先のスイスやフランスなどで様々な非合法事業への関わりで逮捕・収監歴があり、私生活でも一族の反対を無視して貴賎結婚を行うなど、身辺に問題の多い人物でもあった。

1937年2月12日、王政時代のイタリアで、当時はまだイタリア王太子であった父ウンベルト2世と、その妻であるベルギー王女マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョとの長男として、ナポリの離宮で生まれる。祖父である第3代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は男児の孫を授かったことを喜び、赤子のヴィットーリオを膝に乗せている写真が残されている。祖父からはナポリ公の称号を与えられ、父が即位すると王太子の称号を譲られた。だが9歳の時、王政廃止によってサヴォイア家や他のイタリア貴族たちは亡命を強いられ、没落貴族に仲間入りせざるを得なくなった。祖父母はエジプト王国へ、王位を継いでいた父と母はポルトガルへと亡命した。

しばらくして両親は実質的な別居状態に入り、母マリーア・ジョゼに引き取られて姉や妹たちとスイスに移り、幼少期を送った。

(中略)

非合法活動
ヴィットーリオ・エマヌエーレはまた、王位請求者としてだけでなく事業家として行動を起こした。初めは銀行業や航空機会社から、そして次第に武器密輸などの非合法事業などに手を広げていった[7]。そのような中で、1970年代にはネオ・ファシストや右翼軍人、マフィアらの秘密結社であり、バチカンを巻き込んだマネーロンダリングや、南アメリカの軍事政権に違法な武器密輸や資金援助を行っていた「ロッジP2」のメンバーとなっていたことが暴露され、イタリア国内のみならず世界的な大スキャンダルになった。

銃撃事件
1978年8月18日、ヴィットーリオ・エマヌエーレはコルシカ島のカバルロで停泊していたヨットに乗り込み、乗船していた青年を誤ってライフル銃で射殺する事件を起こした。射殺された青年はディーク・ハマーという資産家の息子で、本来ヴィットーリオ・エマヌエーレが撃ったとされるヨットのオーナーの友人であったが、銃弾の流れ弾に当たって死亡した。1978年8月28日、ヴィットーリオ・エマヌエーレは事件への関与を否定していたものの、被害者の資産家からの民事訴訟を受けている[8]。

1989年10月11日にフランス警察から襲撃と武器の不法所持により逮捕されるが、被害者が麻薬を摂取していたためにその証言能力に疑問があったこと(さらに被害者が仲間同士で誤って撃ったとの証言もある)や、13年前の事件ということもあって、武器のM1ガーランド銃の不法所持のみが罪に問われた[8]。内容は6ヶ月間の禁固刑と極めて軽い内容であった[9]。

(後略)

彼は、パーレヴィ国王の友人で、結婚式はテヘランのお祭りとともに上げたりしていましたし、ベルルスコーニと同じ、ロッジP2の会員でした。

スイスのInstitute Le Rosey-1(80年代米国とイスラエルからイランに武器供与・武器商人アドナン・カショギ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スイスのInstitute Le Rosey-番外編(アドナン・カショギと手を組む「正義(?)の国々」) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロッジP2 - Wikipedia

 

もちろん、孫のヴィットリオ・エマニュエーレは戦争時は子供。彼をスイスで育てたのは母親です。

マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ - Wikipedia

抜粋:

マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ(イタリア語: Maria Jose del Belgio, 1906年8月4日 - 2001年1月27日)は、イタリア国王ウンベルト2世の王妃。1946年5月9日から35日間の王妃としての在位期間により「五月王妃(Regina di Maggio)」と呼ばれた。

来歴 生い立ち

ベルギー国王アルベール1世とその王妃エリザベートの長女としてオーステンデで生まれた。ベルギー国王レオポルド3世、フランドル伯シャルルは実兄にあたる。彼女の名は母方の祖母マリア・ヨーゼファ・フォン・ポルトゥガルに因んで名付けられ、第一次世界大戦まではザクセン=コーブルク=ゴータ公女の称号を与えられていた。

結婚 世界大戦後の1930年1月8日、24歳のマリーア・ジョゼはイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の長男である、ピエモンテ公ウンベルト・ディ・サヴォイアと結婚した。夫との間に4人の子供を儲けた。

マリーア・ピア(1934年 - ) - ユーゴスラビア王子アレクサンダルと結婚し、後に離婚。ブルボン=パルマ公子ミシェルと再婚。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ(1937年 - ) - ナポリ公。
マリーア・ガブリエッラ(1940年 - )
マリーア・ベアトリーチェ(英語版)(1943年 - )

参考:

レオポルド3世 (ベルギー王) - Wikipedia

「正義」のイメージの国ベルギー - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロバート・ロスチャイルドとレオン・アンリ・ランベールと「コンゴ」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

第二次世界大戦の目的を考える-「タブー」と封印されたことから紐解けば… - Various Topics 2 (goo.ne.jp)


ルワンダの悲劇はルワンダに終わらず - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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