Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

トリノ近郊ダマヌールの共同生活紹介動画 by Bappa Shotaさん

2024年04月01日 | 世界のyoutuber

トリノ近郊ダマヌール・コミュニティ訪問動画 by Bappa Shotaさん - Various Topics 2 (goo.ne.jp)


で紹介させてもらったショータさんのダムヌール訪問動画の続きを、彼がアップしてくれていました。

欧州最大のスピリチュアル団体で共同生活してみた (youtube.com)


ダムヌールにスピリチュアル、カルト臭がなければ、2011年に紹介させてもらった記事にある「70年代に左翼仲間たちが作ったイギリスの有機農業・自給自足の共同体」と同じように思います。

イギリスのこのコミュニティは続いているのでしょうか。

古くて新しい生活の形-イギリスの共同体から - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

抜粋:

彼は70年代、当時の左翼仲間たちが人間と環境にやさしい暮らしのあり方を考え、有機農業・自給自足を目指して28ヘクタールの農地がついた古い修道院を購入して始めたこの共同体に参加した。以来30年弱、ゆっくりとメンバーの入れ替わりはありつつ、ずっとここで20前後の世帯が一緒に暮らしている。しばらく前のことだけれど、「そういう暮らしに興味があるなら遊びに来なさい」と誘われ、寝袋持参でお邪魔した。

(中略)

世の中にはさまざまな目的のさまざまなコミューン(共同体)があるけれど、ここはかなり現実路線、平たく言えば最も「怖くない」部類に入ると思う。20家族が一緒に暮らすといっても、建物の中は日本のマンションのように区切られていて、世帯ごとの玄関がある。仕事を聞くと、大学講師をしている人、近所のスーパーのレジ係をしている人、年金生活の人などなど。子どもたちは地元の学校に通っているし、閉ざされたユートピアを目指しているわけではない。ただ、食事は基本的にみんな一緒にとり、大人は週9時間以上掃除や炊事などコミュニティのために働かなければいけない。そのほかに農作業の担当もある。

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ゴミの収集の素敵な収集員さん達とスタンダードプードルZ君

2024年04月01日 | 生活・日常

今日は昨年4月から今年3月まで来てくれていた清掃車の収集員の方たちが交代して初めてのごみ収集日。


(脳出血の後遺症故、)ごみの収集時にのゴミ箱で出すと、裏にしまってあるごみ箱をいちいち夫か息子に運んでもらわなければならないのが面倒なので、自分でゴミ出しができるようになってからは、ゴミの収集車(パッカー車)が来る時間を見計らってからは雨天の時以外は玄関ポーチ(60㎝以上の高さ)の横に出して、雨の時は玄関ポーチの上からゴミを渡して収集してもらっていました。

しかし、いくらネットをかけても家に入ったとたんにカラスに狙われて袋を破かれることがあったため、この4か月くらいは、天候にかかわらゴミを家の玄関ポーチの上から収集してもらっていました。

昨年度の方たちは、もともと感じの良い人達であいさつは交わしていましたが、この4か月があったせいで、親しみを感じ、言葉を交わす間柄になっていました。

最後のお別れがは、パッカー車の運転席の方は、窓を開けて挨拶をしてくれ、収集のお二人は帽子を取って挨拶をしてくれました。

「皆さん担当が変わっても、またそのうち戻ってきてくださいね!」
「はい。(担当決めの)くじでまた当たるように頑張ります!」

 

今日は収集の時間が変わる可能性があるので、9時近くからゴミ出しです。玄関ポーチにネットをかけるも、やはりカラスがすぐやってきてしまいます。

前の方たちが去った寂しさと、未遂で終わったものの、カラスのいやらしさでうんざりする気持ちでいたところ、何か気配がし、振り向くと・・・

なんと近所から脱走したスタンダードプードルのZ君が私の後ろでお座りをしていました。慌ててZ君を飼い主に返して話をししているうちに、パッカー車の音が。

時間は今までとほぼ同じで、違うのは経路。前回までは家の前の道路まっすぐやってきたのでパッカー車を見てから家に到着するまで5分くらい猶予がありました。でも、今年度からの経路は変わったようで、直前にならないとパッカー車の到着がわからなくなってしまっていました。

それは残念であるんですが、Z君の脱走があって外にいたおかげで、今日は新しい収集員さん達に挨拶することができました。

今年度も良い人達そうです。
ゴミを取り出した後のネットを「どこに置きますか?」
玄関ポーチの上にゴミを置いておくことについて尋ねると、「はい。大丈夫ですよ」。

(玄関のポーチの上にゴミを置いてもカラスが狙いに来るので結局はゴミを出す時間に手渡しするようになるでしょうし、さらにパッカー車が来るのが直前までわからないというのがつらいですが、たぶん前任者たちと同じような方たちであれば、何とかなりそうな気がします。)

Z君が私の不安な気持ちを消し去ってくれた・・・かな。

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反ファシストとイタリア商業銀行-4(エンリコ・クッチャとコーザ・ノストラ)

2024年04月01日 | オリベッティ・反ファシスト

イタリア商業銀行の“コミット”にいたのは、のちにイタリア金融界のドンとなった、エンリコ・クッチャ。

彼は、マフィアのフランチェスコ・クッチョの血縁者です。

Francesco Cuccia - Wikipedia

まずフランチェスコ・クッチョについて、日本語版Wikipediaの「コーサ・ノストラ」より抜粋-

コーサ・ノストラ - Wikipedia

抜粋:

コーサ・ノストラ(Cosa Nostra)若しくはコーザ・ノストラは、主にイタリアとアメリカ合衆国で活動している秘密結社的犯罪集団である。イタリア語で「我らのもの」を意味し、一般的にマフィアと呼ばれている複数の組織犯罪集団の集合体。

(中略)

1924年5月、ムッソリーニがシチリアを訪問した際「ここは、すべてが悪党どもの集団で、動くたびにマフィアの悪臭がする」と秘書に述べていたとも伝えられている。さらにシチリア中央部にあるピアーナ・デイ・グレージという町を訪問した。この町の町長でありマフィアのボスでもあったフランチェスコ・"ドン・クッチョ"・クッチャは、ムッソリーニに対し「警察に護衛してもらう必要などない。私がいれば何も問題ない」と護衛を減らすよう求めた。だが、ムッソリーニは、町長の求めを無視した。町長はムッソリーニの態度に激怒し、町の住人に対しムッソリーニの演説を見に行くなと命じた。その結果、ムッソリーニの演説集会には誰も集まらなかった。

ムッソリーニは町長がマフィアであったことを知るや、マフィア撲滅のため、1925年、チェーザレ・モーリをシチリアに派遣した。モーリのマフィア狩りは苛烈を極め、ヴィト・カッショ・フェロを含む多数のマフィア構成員を刑務所に送り込み、マフィアを壊滅状態に陥れた。1929年9月にモーリは、その追及の手をファシスト政権の要人にまで伸ばすようになったため、罷免された。だが、マフィアたちはその後しばらく息を潜めることになった。

第二次世界大戦中の1943年、シチリアに連合軍が上陸すると、連合軍は刑務所にいた彼らを解放してしまった。さらに連合軍はカロジェロ・ヴィッツィーニをヴィッラルバ村の村長に任命し、ヴィト・ジェノヴェーゼをアメリカ海軍司令部付の通訳に任命するなどして、多くのマフィア構成員を町長や村長等の政府関係者に任命した。ファシスト政権崩壊後、マフィアたちは政治的にはキリスト教民主党との関係を深めていった。

 

こちらはエンリコ・クッチャ本人のイタリア語版wikipediaのGoogle翻訳です。

Enrico Cuccia - Wikipedia

エンリコ・クッチャ(Enrico Cuccia、1907年11月24日ローマ – 2000年6月23日ミラノ)はイタリアの銀行家であり、20世紀後半で最も重要な人物の一人であった。 彼は 20 世紀のイタリアの経済金融シーンを代表する人物の 1 人です。

ピエトロ・ベニアミーノとアウレア・ラグーザの間にローマで生まれる。 彼の父方の祖父であるシモーネ・クッチャは、メッツォジュソ(シチリア島)出身のアルベレシュ出身の著名な弁護士で、1882年以来4期連続で議会議員に選出され、パレルモの善良なブルジョワジーに統合された。 一方、彼の父ベニアミーノは大蔵省の役人で、シチリア島でアーモンド貿易で活躍し、当時大蔵大臣を務めたトリエステ出身のユダヤ人、グイド・ユングの有力人物の支援と友情のおかげで雇われた。

ファシスト人種法が施行されるまで[2]、新聞「イル・メッサッジェーロ」の協力者でもあった。 トルクァート・タッソ高校で学んだ後、ローマ大学法学部に入学。 1920 年代の終わりに、彼はメッサジェロと 3 年間協力し、プロのジャーナリストとしての登録を取得しました。 彼は 1930 年にチェーザレ ヴィヴァンテ監督のもと、「証券取引所の投機と価格表: 理論と立法」という論文を提出し、優秀な成績で卒業しました。

1930年から1931年にかけて、彼は正式な学生としてパリ​​のスダメリスに在籍しました。 1931 年 5 月に彼はイタリア銀行に試用期間として採用され、ロンドン事務所に勤務しました。 1932年7月に採用され、1934年5月から同年6月末まで産業復興研究所に出向した。 エンリコ・クッチャと経済学者アルベルト・ベネドゥーチェの娘である妻イデアは高校時代にローマで出会い、1939年6月19日に1940年頃にミラノで結婚した。

1939年に彼は高校時代に知り合ったIRI会長アルベルト・ベネドゥーチェの娘イデア・ベネデュース[3](1905年-1996年[4])と結婚し、ピエトロ・ベニアミーノ、アウレア・ノエミ(死去)という子供をもうけた。 2020年にアウェー)とシルビア・ルシア。 娘のシルビアは数学教師として働き、ピエトロ・ベニアミーノはコモ県の製薬会社の取締役会のメンバーであった[5]。

1996年に亡くなったイデアの人物について、フェリーチェ・アカメに次のように書かれています。 [...] ヴィットーリア・プロレタリアとイタリア・リベラの妹、クッチャのイデア・ヌオーヴァ・ソシリスタ・ベネデュース、91歳でミラノで死去。

彼の父親であるアルベルト・ベネドゥーチェは、生まれた当時、熱狂的な社会主義者で、ベニート・ムッソリーニの親しい友人であり、その後ムッソリーニに従うほどの友人であったが、これはおそらく彼の姓の希望へのオマージュでもあり、彼の著書でもそうである。したがって、1933 年に設立された産業復興研究所である IRI の理事長になることはよくあることです。

(中略)

 その後、ラファエレ・マッティオーリ監督のイタリア商業銀行(コミット)で働く機会を得ました。

第二次世界大戦中、彼はレジスタンスを支援するためにスイスに頻繁に行き、銀行の高官であるという事実を隠れ蓑に、そのために配達員としても働いた。 1942年のリスボン旅行中、彼は親英反対派のアドルフォ・ティノとウーゴ・ラ・マルファからの秘密メッセージをアメリカ合衆国に亡命中のカルロ・スフォルツァに届けた。それはアメリカ外交官ジョージ・ケナンを通じて送られたものである[9]。

1943 年に、彼はローマ銀行とミラノの新しいメディオバンカのクレディト イタリアーノの株主であるイタリア商業銀行のリサーチ オフィスに加わりました。 クッチャは、メディオバンカをイタリア経済再建の中期資金提供者と考え、投資銀行としての機能を支持したその創設者マッティオーリが考えた方法とは異なる方法に従ってこの機関の発展を設定した[10]。 少数の個人グループ(ピレリとフランスの銀行ラザールを含む)が銀行の資本金に入り、1985年まで秘密のままだった株主協定に署名した。

これにより、3つの公的銀行が保有する57%と6つの公的銀行が同等の議決権を有することになった。 %は個人が保有。 クッチャ氏のリーダーシップの下、メディオバンカは、ラ・フォンディリアリア、ジェネラリ、ソシエタ・アッシクラトリス・インダストリアル(SAI)、ピレリ、フィアット、モンテディソン、オリベッティ、アルノルド・モンダドーリ・エディターレ、ジェミナ、フェルッツィ・フィナンツィアリア、イタルモビリアーレ、コフィデといった複雑な株式保有の中心に位置することになる。

この立場から、彼は、モンテカティーニとエジソンの合併(1966年)[11]、リビアの銀行ラフィコのフィアット株式保有への参入など、イタリアの主要グループに関連する業務において、融資とコンサルティングの形で中心的な役割を果たしている。 (1976) 、ピレリとダンロップの間の協定。 1986年にリビア人がフィアットから撤退したことで、一部の重要な国際銀行は損害を被り、1988年にモンテディソン買収後に負債を抱えていたフェルッツィ社の再編によっても引き起こされたように、株式市場の大幅な暴落を引き起こした。

(後略)

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