故・新田次郎氏が1964年にこのタイトルの本を書きました。1961年の夏、ヨーロッパに出張中であった佐貫亦男教授が案内役となり、新田次郎氏に同行してヨーロッパ・アルプスを巡りました。
佐貫先生と新田次郎氏は気象庁において同僚の間柄でしたが、佐貫先生は東大に転出して航空学科の教授になっており、新田次郎氏は文筆活動を始めていて、作家への道を歩んでおられました。この旅の紀行文から「アルプスの谷アルプスの村」が生まれましたが、私もこの本をスイス・アルプスの入門書として愛読して来ました。
新田次郎氏はグリンデルワルドに着く直前に目に入ったアイガーを仰いで「これで死んでもよい」とつぶやいたそうです。不肖私も1992年にグリンデルワルドを訪れた際に、アイガー北壁ののしかかって来るような迫力に圧倒されたことを憶えています。新田次郎氏は自分の故郷の信州の山々とあまりに異なる山容に感極まったとのこと。次いで、ヨーロッパ・アルプスと日本アルプスでは、岩肌の色も肉づきも骨格も違い、人種が異なる、いや山種が異なると感じたとのことです。こうした感動とヨーロッパ・アルプスの旅の経験がこの後の新田次郎氏の山岳文学の基になったようです。また、このようなきっかけを作ってあげることができ、案内役であった佐貫先生も安堵されたようです。
新田氏のような優れた作家の友人を持つと、有り難いことに、佐貫先生ご本人も驚く程の人物として、大いに持ち上げて描写してくれたのだそうです。例えば「佐貫先生は、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語がペラペラ」などと。確かに、登山電車の中でドイツの子供達が騒ぐのを懇々と説諭した場面も紹介されていましたから、ドイツ語ペラペラは事実でありましょう。
なお佐貫先生は別の本の中でも、スイス・アルプスを歩くのに、ドイツ語、フランス語、イタリア語は必要、英語は不要と書いておられました。
新田次郎『アルプスの谷アルプスの村』 新潮社
佐貫亦男『佐貫亦男の旅の回想―アルプスとドイツを旅して50年』
グリーンアロー出版社
佐貫先生と新田次郎氏は気象庁において同僚の間柄でしたが、佐貫先生は東大に転出して航空学科の教授になっており、新田次郎氏は文筆活動を始めていて、作家への道を歩んでおられました。この旅の紀行文から「アルプスの谷アルプスの村」が生まれましたが、私もこの本をスイス・アルプスの入門書として愛読して来ました。
新田次郎氏はグリンデルワルドに着く直前に目に入ったアイガーを仰いで「これで死んでもよい」とつぶやいたそうです。不肖私も1992年にグリンデルワルドを訪れた際に、アイガー北壁ののしかかって来るような迫力に圧倒されたことを憶えています。新田次郎氏は自分の故郷の信州の山々とあまりに異なる山容に感極まったとのこと。次いで、ヨーロッパ・アルプスと日本アルプスでは、岩肌の色も肉づきも骨格も違い、人種が異なる、いや山種が異なると感じたとのことです。こうした感動とヨーロッパ・アルプスの旅の経験がこの後の新田次郎氏の山岳文学の基になったようです。また、このようなきっかけを作ってあげることができ、案内役であった佐貫先生も安堵されたようです。
新田氏のような優れた作家の友人を持つと、有り難いことに、佐貫先生ご本人も驚く程の人物として、大いに持ち上げて描写してくれたのだそうです。例えば「佐貫先生は、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語がペラペラ」などと。確かに、登山電車の中でドイツの子供達が騒ぐのを懇々と説諭した場面も紹介されていましたから、ドイツ語ペラペラは事実でありましょう。
なお佐貫先生は別の本の中でも、スイス・アルプスを歩くのに、ドイツ語、フランス語、イタリア語は必要、英語は不要と書いておられました。
新田次郎『アルプスの谷アルプスの村』 新潮社
佐貫亦男『佐貫亦男の旅の回想―アルプスとドイツを旅して50年』
グリーンアロー出版社