yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

正岡子規

2010-07-14 06:26:18 | 文学
正岡子規は慶応3年(1867年)に松山に生まれました。幼少より学問を好み、とても学問に優れていたので、後に幼な友達の秋山真之と共に藩より東京に派遣され、東京大学予備門に進みました。秋山真之は海軍に入り日露戦争を勝利に導きましたが、正岡子規は文学をこころざしました。しかし結核や脊椎カリエスを患ったために自在の活動ができませんでした。
「子規」は俳号で、ホトトギスのことです。ホトトギスはのどが赤く、啼くと血を吐くように見えます。血を吐く病に罹った子規は自らを自嘲して子規と号し、現実を直視して受け入れ、文学を続ける気持ちを鼓舞してそれに没頭し、近代の俳句と短歌の礎を築きました。

   春や昔十五万石の城下町

伊豫松山は徳川家の親藩、久松松平家十五万石の城下町でした。古来より、四国には讃岐男に阿波女、伊豫の学者に土佐の鬼侍などと言う言葉があるように、伊豫は学問が盛んな土地柄でした。一方、坂本龍馬や岩崎弥太郎や吉田茂の父が生まれた土佐は、土佐の異骨相(いごっそう)という反骨で、いかつい侍の国でした。

   夏草やベースボールの人遠し
身体の弱い子規でしたが仲間とよく野球に興じました。子規の幼名のぼる(野ボール)を使ってベースボールを野球(野ボール)と翻訳したのは子規でした。因みに打者(バッター)、走者(ランナー)、四球(フォアボール)、直球(ストライク)、飛球(フライボール)、短遮(ショートストップ)も子規による訳語です。ショートストップは後に遊撃手と呼ばれるようになりました。

   柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
有名なこの句は奈良に遊んだ時に作ったものです。この句は、直前に夏目漱石が「愛媛新聞」に投稿した句
   鐘つけば銀杏散るなり建長寺
を模倣したのは明らかです。「柿食へば」の句は奈良旅行の旅費を工面してくれた親友の漱石への返礼だったようです。

この後、子規は東京根岸の子規庵で療養を続けましたが、母(八重)と妹(律)が心濃やかに看病しました。子規庵の句会には子規の人柄を慕っていつも多くの人が集っていました。この中に、後に俳句や短歌で一家をなした高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らもいました。世話好きで気さくな子規はいつも大勢の門弟、友人、知人に囲まれていましたが、惜しくも明治35年に35歳の短い生涯を閉じました。
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