先日引退した将棋の有吉道夫九段(現在75歳)の話です。有吉さんは昭和10年(1935年)に岡山県備前市に生まれ、15歳で倉敷市に住む大山康晴(後に十五世名人)に弟子入りしました。プロ棋士の番号は66です。棋士のトップクラスのA級に在位21期、棋聖位獲得のほか、いくつもタイトル戦に出場し、2001年には史上6番目に公式戦1000勝を達成し、名棋士の仲間入りをしました。この間、関西本部に所属し、内藤國雄九段、谷川浩司元名人等と共に関西の将棋界を牽引してきました。棋風は「火の玉流」と言われ、玉を囲った後、猛烈に攻める攻め将棋でした。
有吉さんは、孫にあたるような年齢の棋士と戦い、コロコロと負かされることがありました。それでも何故指し続けるのか、と不思議に思う人もいたそうです。「将棋において負けるということは、すべてを否定されるということ。体も精神もフラフラ、誇りも踏みにじられます。この辛さは本人にしか分からない、そして努力して耐えてきた。」と言われました。
日本将棋連盟の規程により、「今年の3月31日付けで引退」するはずでした。しかし、NHK杯戦で勝ち続けていたので、この棋戦で負けた日をもって引退となりました。将棋連盟は有吉さんのために、規程を変更したと思われます。最後の対局は5月23日の高橋道夫九段との一戦でした。私もこの対局をテレビで観ましたが、有吉さんは、いつものように積極的に戦って敗れました。
昔から棋士は30代が最も強く、50歳でほぼ終わりというイメージがあり、一般のサラリーマンに比べて10歳程度早いと思われます。そういう中で75歳まで現役を勤めたというのは凄いことではないでしょうか。
有吉さんは1000勝を達成して歴代名人と同様の実績を残しました。その有吉さん曰く、「私は天才的なところは一つも無い、平凡な人間です、それでも一生懸命努力すれば60歳までA級を維持でき、74歳まで将棋が指せる。そのことを示せたと思っているんです。だって、30歳、40歳で引退を余儀なくされるようなら、どうやってその後、家族と生活していくのでしょう。」木村義雄十四世名人は、晩年、「年配者は若者に無いものを持っているはず。
自分はおのれを生かす方法はないかと考えている。」と言いました。有吉さんは、「自分は
木村名人の十分の一の才能も無いけれど、せめて、その心持ちだけは、と負かされても、
負かされても、ね。そんな棋士人生も若い人への贈りものなんです。」
引退まで全力を尽くした名棋士の言葉には重みがあります。
有吉さんは、孫にあたるような年齢の棋士と戦い、コロコロと負かされることがありました。それでも何故指し続けるのか、と不思議に思う人もいたそうです。「将棋において負けるということは、すべてを否定されるということ。体も精神もフラフラ、誇りも踏みにじられます。この辛さは本人にしか分からない、そして努力して耐えてきた。」と言われました。
日本将棋連盟の規程により、「今年の3月31日付けで引退」するはずでした。しかし、NHK杯戦で勝ち続けていたので、この棋戦で負けた日をもって引退となりました。将棋連盟は有吉さんのために、規程を変更したと思われます。最後の対局は5月23日の高橋道夫九段との一戦でした。私もこの対局をテレビで観ましたが、有吉さんは、いつものように積極的に戦って敗れました。
昔から棋士は30代が最も強く、50歳でほぼ終わりというイメージがあり、一般のサラリーマンに比べて10歳程度早いと思われます。そういう中で75歳まで現役を勤めたというのは凄いことではないでしょうか。
有吉さんは1000勝を達成して歴代名人と同様の実績を残しました。その有吉さん曰く、「私は天才的なところは一つも無い、平凡な人間です、それでも一生懸命努力すれば60歳までA級を維持でき、74歳まで将棋が指せる。そのことを示せたと思っているんです。だって、30歳、40歳で引退を余儀なくされるようなら、どうやってその後、家族と生活していくのでしょう。」木村義雄十四世名人は、晩年、「年配者は若者に無いものを持っているはず。
自分はおのれを生かす方法はないかと考えている。」と言いました。有吉さんは、「自分は
木村名人の十分の一の才能も無いけれど、せめて、その心持ちだけは、と負かされても、
負かされても、ね。そんな棋士人生も若い人への贈りものなんです。」
引退まで全力を尽くした名棋士の言葉には重みがあります。