yoshのブログ

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幕末の将軍 徳川家茂

2008-11-07 07:27:09 | 歴史

第十四代将軍 徳川家茂(いえもち 1846-1866)は徳川幕府末期に徳川家定の跡を継ぎ、若くして将軍になりました、御三家、紀州家の出身で幼名は慶福(よしとみ)でした。折しも幕末の動乱期に当たり、家茂は条約勅許問題など難しい問題に悩みました。公武合体、朝廷との融和という政局を背景に平和の維持のため、1861年に皇女和宮と結婚しました。和宮との結婚生活は短いものでしたが、とても仲睦まじい夫婦であったと言われています。そして第二次長州征伐において幕府軍の総大将となり、惜しくも大阪城で病没しました。<o:p></o:p>

 家茂将軍は人品、風格が殊に秀れ、もし幕末の動乱期ではなく、平時に将軍となって長命であったなら、徳川歴代将軍の中でも屈指の大名君になったであろうと言われています。これは勝海舟をはじめ多くの幕臣が、家茂を生涯の主君と崇めたと言われたことからも窺えます。<o:p></o:p>

 将軍家茂は人間として最も大切な美質である、誠実さと謙虚さを備えていました。また若年の頃から周囲の者への思いやりと気配りができる心の細やかな人物でした。上洛の時にも和宮が欲しがった西陣織を求めることを忘れませんでした。見事な西陣織が京都での激務の間に用意され、和宮に届ける手配りがなされました。この品は家茂が大阪城で他界した後、和宮に届けられ、夫を失った悲しさを一層深くすることになりました。<o:p></o:p>

 また次のような逸話もあります。ある時大奥で将軍に傷んだ菓子が供されたことがありました。家茂は匂いで直ぐにそれに気付き、一同にそれを口にしないように言いました。驚いたお付きの老女頭がお毒味役を厳しく詮議しようとしましたが、「大したことではない。この事は無かったことにせよ」と申し渡したとのことです。一人の犠牲者が出ることもなく、居並ぶ大奥の人々に大きい感銘を与えたということです。<o:p></o:p>

 そして家茂は臨終にあたり、自分は将軍として、また人間としてなすべきことを果たしたであろうかと自問したとのことです。<o:p></o:p>

 さて家茂の他界の後、将軍職を継いだのは徳川慶喜でしたが、この人は情勢が不利と見るや幕府と徳川家を放り出した人物で、家茂とは対極的な性格の持主でした。<o:p></o:p>

  和(かず)に子が無くて二心が役に立ち<o:p></o:p>

和宮に子供ができなかったので(数の子が無い)ので鰊が役に立ったという江戸庶民の狂句があります。二心とは定見がなくその日の気分で言うことがころころ変わることを指します。また豚を好んで食したので豚を食べる一橋殿、すなわち「豚一」と言われました。こうした言葉の中には、将軍に対する敬意が全く感じられません。<o:p></o:p>

 しかし、このような人物が最後の将軍であったため、早々と幕府を放擲し、東西両軍が江戸の町で激しい戦争になって、多くの命が犠牲になることが避けられたとも言えます。<o:p></o:p>

   中村彰彦著 『パックス・トクガワーナの時代』集英社<o:p></o:p>

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