yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

鶴ケ城 開城使

2007-10-13 15:52:19 | 歴史

鶴ケ城を開城することに決定した時、それを西軍に伝える使者である開城使に選ばれたのは手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)と秋月梯次郎の二人でした。二人とも京都では公用方を担当していましたので、他藩との折衝の適任者とみなされていました。降伏の使者には誰もなりたくないというのが大多数の偽らざる本音でした。なお、手代木直右衛門の実弟には旗本の佐々木家に養子に行った剣客の佐々木只三郎(たださぶろう)がいます。佐々木只三郎は見回組の中心人物で鳥羽伏見の戦の際に負傷して紀州で他界しました。坂本竜馬の襲撃団の一人とも言われています。<o:p></o:p>

さて、鶴ケ城を抜け出した二人は西軍の重囲をくぐり抜けて、ようやく米沢藩の陣営に到達することができました。<o:p></o:p>

そこで、西軍の中核であった土佐藩への仲介を頼み、明日は土佐藩に赴くことが決まったところで、米沢藩士、河村氏が、「現在、弊藩は會津藩と同盟しているが、開城使二人の今後の生死は保証出来かねること、また、城への帰還もできないことがあるかも知れない。もし、何か遺言があれば、必ず貴家に届けましょう」という好意に溢れた申し出をしました。それに対し手代木直右衛門は憤然として、言下に「私は既に一身を公に捧げている。己の身がどうなろうと、悔いはなく、私が絶命したと聞けば妻子は敵の刃に伏するでありましょう。遺言などありません」と応じました。秋月梯次郎はしばし沈思した後「今日のことは天命を待つだけです。万一私が殺されたならば、親を持つ子の情として忍びない思いです。ついては、どうぞ慈母にこの手紙と金子とを贈っていただきたい」と言って涙を流したとのことです。応対した河村氏は「手代木氏は誠に武人の鑑、秋月氏も武士として、手代木氏に劣るところは少しもありません。高名な学者である上、死に臨んでも悠然として忠孝の道を忘れない」と評したとのことです。<o:p></o:p>

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