明治2年(1869)10月 秋月悌次郎は會津藩の責任者として尾張高須藩の獄にいました。そこで、會津に住む母と妻と姉に宛て手紙を認めました。<o:p></o:p>
その中に「遠き余所国へ永き御預けと相成り身のちぢむ計りに御座候。然るに大雨の後には快晴になり、大寒の朱(すい)は暖気にて、今日の落花は来年咲く種とやら、、、、何卒御気永く思し召され、鶴亀の御歳をかさね遊ばし候内には浦島の次郎も立帰り申すべきか計り難し」と心配しないで気長に待ってくれるよう書き送りました。尾張高須藩は主君容保が生まれた藩でもあり、獄中にあっても平穏に暮らしていたように見受けられます。<o:p></o:p>
この言葉「今日の落花は来年咲く種」は聖書ヨハネ伝第12章24節のキリストの言葉、「一粒の麦もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」を連想します。<o:p></o:p>
秋月悌次郎の場合は聖書のこの言葉に言及したわけではなく、将来への明るい希望を表現したものと推測されますが、獄中においても親と家族を思いやる温かい人柄を感じとることができます。<o:p></o:p>
なお中村彰彦氏に「落花は枝に還らずとも 上、下」という秋月悌次郎の生涯を記した著作があります。<o:p></o:p>