會津武士、町野主水(1839-1922)の町野家は、戦国大名の蒲生氏郷の家来で代々、会津にありました。武を以て主君に仕えた家柄でしたが、主水は戊辰戦争の直後、埋葬することを許されなかった戦死者の骸(むくろ)を片づけるなど、同胞の世話に獅子奮迅の働きをしました。そしてその後、永く会津に残り、藩士達の面倒をよくみました。また大正11年に逝去するまで脇差を腰に差していたという武辺一筋の人でした。<o:p></o:p>
最近、主水の104歳になるご令孫の井村百合子刀自(会津会顧問)と、電話で長時間お話する機会に恵まれましたが、お祖父様の主水にとても可愛いがられたと述懐なさっていました。百合子様は町野主水の四女、キミのお子様で、幼少の頃は、町野家で養育されたとのこと、秩父宮勢津子妃とはお遊び仲間であったそうです。百合子様が小学生の時、出納係に選ばれ、集金した金子を自室で勘定していたのを祖父の主水が見て<o:p></o:p>
「町野家の娘が金の勘定をするとは何事であるか、そのような学校ならやめなさい」<o:p></o:p>
などと雷を落とされたということです。<o:p></o:p>
また、主水の弟の久吉が、三国峠の西軍との戦闘で町野家伝来の家宝の槍を失ってしまいました。それを入手した長州の品川彌二郎が、後に東山温泉の旅館の一室に席を設け、槍を返すという親切な申し出を主水にしたところ、主水は、<o:p></o:p>
「御厚志はかたじけないが、戦場で失いしものを、武士たる者が畳の上で受け取るわけには参らぬのだ。失礼いたす。」<o:p></o:p>
と言い、悠然とその場から退席しました。これを聞いた旧藩士たちは<o:p></o:p>
「これぞ千古の快言である。會津武士道に徹した町野主水殿ならではの啖呵というものだ」<o:p></o:p>
と大評判になったということです。<o:p></o:p>
そして死期の近づいた町野主水は、家族に繰り返し葬儀の方法を遺言しました。<o:p></o:p>
1. わが亡骸(なきがら)は筵(むしろ)につつみ、縄で縛って葬式を出すこと。<o:p></o:p>
2. 葬列は標旗、提灯、抜き身の槍、抜き身の刀、それから死骸、僧侶、家族の順とし、参列者は全部徒歩たるべき事。<o:p></o:p>
3. 戒名は「無学院殿粉骨砕身居士」とせよ。<o:p></o:p>
でありました。<o:p></o:p>
この遺言で主水は、戊辰戦争の時、埋葬することを許されなかった同胞のことを慮(おもんぱか)り、會津武士の心意気を示したかったのだと思われます。<o:p></o:p>
これを聞いた若松警察署が「もっと穏やかにやるように」と横槍を入れてきましたが、喪主で長男の陸軍少佐、町野武馬さんは、断固それを拒絶して親の遺言を守って忠実に葬儀を施行したということです。武馬さんも親譲りの硬骨漢でした。菩提寺である融通寺までの葬列は、参列者多数で、大変盛大なものであったそうです。<o:p></o:p>
ここに主水は、最後の會津武士としての真面目(しんめんもく)を世に示しました。<o:p></o:p>
中村彰彦著『その名を町野主水』新人物往来社<o:p></o:p>