yoshのブログ

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上杉家30万石の存続に尽力した保科正之公

2008-06-09 09:54:25 | 歴史

米沢藩30万石の藩主、上杉綱勝公は、1652年5月、跡取りを決めることなく江戸の上屋敷で急逝してしまいました。保科正之(ほしなまさゆき)公の長女、媛姫(はるひめ)が綱勝公の許嫁であったという縁で、この訃報は最初に正之公にもたらされました。またその媛姫が嫁ぐ前に不慮の他界をしてしまったこともあり、正之公は、「今こそ上杉家に借りをお返しする時」と考えて上杉家にやって来ました。それにもかかわらず、さすがの正之公にも手の打ちようがなく、一室に控えていました。お家断絶の危機でした。そこに、ある若侍が入って来て意外なことをうち開けました。<o:p></o:p>

「私は御前(綱勝)のお最期までお側にあった者です。御前は高家(こうけ)<o:p></o:p>

筆頭吉良上野介のご長男にて甥にあたられます三郎様を末期養子に、と苦しい息の下から仰せられました。この段、なにとぞお聞き届け賜わりますよう」<o:p></o:p>

「それは、まことか」<o:p></o:p>

と、正之公は問い返しませんでした。重臣たちさえ聞かなかったことを、近習ひとりだけにお告げになった、というのでは話の筋が通りません。しかし、この際大事なのは、この若侍の言明を前提として、上杉家の救済を考えることでした。<o:p></o:p>

正之公は直ぐに登城して、将軍家綱に拝謁しました。その功あってか、間もなく6月に米沢30万石に幕命が下りました。<o:p></o:p>

「吉良三郎に養子仰せつけられ、旧領から15万石を召し上げるもの也」<o:p></o:p>

上杉家は養子を取っていたのに、幕府に届けることを怠っていた。その怠慢の罪を責めて表高の半ばを削るが、三郎への家督相続は認める。家綱公と幕閣とは正之公の暦年の功に免じ、このような論理のもとに正之公の希望を入れたのでした。<o:p></o:p>

「すべては肥後守、正之公の御威光ゆえのこと」<o:p></o:p>

上杉家の面々は感謝することしきりでしたが、正之公は家老の田中三郎兵衛のみにひそかに言いました。<o:p></o:p>

「これで、お媛にも顔が立った」<o:p></o:p>

なお米沢上杉家は、この後、会津松平家と将軍家への恩を忘れることなく、現代にいたるまでその絆は存続しているとのことです。<o:p></o:p>

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              中村彰彦著『名君の碑』文春文庫<o:p></o:p>

コメント
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