山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

佐渡一国を味わう旅を終えて(2)

2015-07-08 03:36:42 | くるま旅くらしの話

◇文弥人形の感動

次に文弥人形のことを書かなければならない。自分は今までに一度も人形浄瑠璃というものを観たことがなかった。人形浄瑠璃どころか、文楽も名前しか知らず、浄瑠璃というものが何なのかも知らないというのが本当のところなのだ。義太夫とか、常磐津、清元など、江戸の時代小説を読めば、必ずどこかにそれが登場してくるものなのだが、その謡のお師匠さんがどんな美人なのかは思い描くも、その唄の文句や中身がどんなものかまでには興味を持ったことはなく、無知なのである。それは今でも基本的には変わらない。

そんなことから、人形浄瑠璃などという芸能には、能楽以上に興味を覚えなかった。何でめんどくさい人形などを使って、芝居なんかやるのだと、そう思っていた。阿波の人形浄瑠璃で名を知られた徳島県を何度も訪ねているが、徳島市郊外にある阿波の十郎兵衛屋敷の傍を通りかかった時に、ちょっと覗いてみようかと、一度だけちょっかいを出して寄ったのだが、その時は偶々改築中で休館だったため、一層その気を無くしたのを覚えている。それなのに、今回文弥人形を観る気になったのは、これはもう能の鑑賞が引き金になって、古典芸能というものに心が動いたからに他ならない。

文弥人形は、約300年前に、京都の岡本文弥という人が創始した文弥節を下地として、佐渡に古浄瑠璃の形式を残して伝わるもので、一人で一体の人形を操るものだと、説明書きにあった。文弥節の節回しが佐渡の風土に合ったことで、一時は四十数座を数えるほどの隆盛を見たものが、大正末期の頃になって後継者が減り、終戦の頃には消滅の危機に瀕したとか。このような中で、昭和52年に国の重要無形民俗文化財に指定され、今は十数座を数えるまでになっているとも書かれていた。自分にとっては、これらはすべて初めての情報であり、只鵜呑みに理解するしかない。今回は「常盤座」という、構成メンバーが全員女性というグループの上演だった。

  

常盤座の仮設舞台。佐渡には文弥人形の専用の舞台は無いようで、この日は能楽堂の中にこのような舞台が設えられていた。

さて、その文弥人形だが、演目は「山椒大夫」と「檀風(だんぷう)」。山椒大夫は、森鴎外の小説でもおなじみだが、内容は少し違っていて、姉の安寿が難儀しながらもはるばると佐渡の母を訪ねて、ようやく巡り合ったのだが、盲いてものが見えず、悪戯者の声と誤解した母の打擲(ちょうちゃく)を受けて、瀕死の状態となる。やがて本当の自分の娘と気づいた母は、驚き悔むのだが、娘は母に抱かれたまま、非業な死を遂げるという。その「親子対面の場」が今日のテーマ。そして檀風は初めて聞くことばだったが、これは佐渡に流され処刑された公卿の日野資朝の一子阿新丸(くまわかまる)の仇討ちの物語である。檀風は、阿新丸の父日野資朝郷が島での流人暮らしの中で作った歌「秋たけし 檀(まゆみ)の梢吹く風に 澤田の里は 紅葉しにけり」からの題名である。

  

「山椒大夫」の安寿の人形。舞台の中では、悲しみの中でも、活き活きとその表情が表れていた。

  

「檀風」の一場面。阿新丸が追手と闘う場面は、動きが激しくて、人形を使う人たちは全身汗だくでの熱演だった。

  

「檀風」の一場面。大膳坊(大膳神社に祀られている)の力を得て、阿新丸が佐渡を脱出するところである。

観た後の所感を一言でいえば、「感動した!」に尽きる。何に感動したのかといえば、人形遣いの人々の演技に対する取り組み姿勢の素晴らしさに打たれたのである。最前列に座って観ていたので、人形を使う彼女たちの眼差し、動き、そして迸(ほとばし)る汗が見え、伝わってくるのである。節を語る太夫に合わせて、まさに我を忘れて人形そのものになりきろうとする彼女たちの懸命の姿勢は、結果として表現されている芸のレベルなどに関係なく、はるかに強い迫力を感じた。この頃、これほどものごとに真剣に取り組んでいる人たちを見たのは久しぶりのことだった。

勿論、これだけではなく、文弥人形がどのようなものかも知ることができたし、そこで取り上げられているストーリーのアウトラインもそれなりに理解することができたと思う。同時にここでも能と同じように、古典というものに対する知識の貧しさを思い知らされた。自分は度胸が無いため、近松門左衛門の心中(しんじゅう)ものなどを読むには苦手意識があり、あえて避けて来たようなところがある。情死などというものを正視する勇気がないのだ。しかし、浄瑠璃の世界では、近松門左衛門は作者としては中核的な存在であり、素通りすることはできない。これからは、浄瑠璃話の理解のための基盤として、近松門左衛門作品の悲しみの葛藤の世界を覗き見る必要を感じた。

ま、しかしそれほどややこしく考えなくても、素直に語られているテーマや表現をそのまま受け止めて楽しむだけでもいいのではないか。そう思ったりもしている。今度四国を旅する時は、淡路の人形浄瑠璃や阿波の人形浄瑠璃の世界を訪ねなければならないなとも思った。楽しみの世界がぐっと広がった気分である。

かなり感想が長くなったけど、能を中心とする古典芸能に関しては、今までの自分の偏見へのこだわりが溶け去ったような気がしている。古典芸能と呼ばれるものの中には、日本という国を作って来た人々の魂の源となるものが織り込まれているのだと思う。残り少ない老人ではあっても、それを楽しみながら探るというのも無駄ではあるまい。今回の佐渡での体験は、思っていた以上の成果を自分にもたらしてくれたと感謝している。

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