我がふるさと、茨城県の北部の方の方言では、「いらない」ということばを、「いんね」と言います。「いんね」というのは、拒否のことばです。最近は、方言は標準語とやらに毒されて、次第に力を失いつつあるようです。尤も、自分など今頃はすっかりその毒の中で暮らしており、「だっぺ」だとか「だっぺよ」などということばをすっかり忘れてしまっています。これは良し悪しの問題ではなく、暮らしと文化の流れの中でそうなってしまうのですから、何ともしようがありません。
ところで「いんね」という方言は、茨城県限定ではなく、栃木県や群馬県辺りでも同じような意味で用いられているようです。どのように用いられているかといえば、
「おはぎが一つ余っているけど、食べませんか?」
「いいや、私は糖尿病なので、おはぎなどを食べたらダメなのです。残念だけど、要りません」
これを、今から80年ほど前の、我がふるさとのおばあちゃんの会話に置き換えると、多分次のようになると思います。
「ボダ餅が一つ余ってんだけど、おめえ、食うけ?」
「うんにゃ、おら糖尿病ちゅって、お医者がら言われでっから、そんなボダ餅なんぞ食ったらだめだっぺ。悔しいけど、いんね」
となると思います。「いんね」という意味は、このような会話の文脈からは想像がつくことで、初めてそれを耳にしてもそれほど戸惑いはないのではないかと思います。しかし、いきなり「いんね」と表示された場合は、何のことか解らないと思います。
先日栃木県の矢板市に接する塩谷町の道の駅に寄った時に、その途中「いんねの会」と書かれた幟が何本もはためいていました。一体何の集まりなのだろうかと思いました。この地方では、何か「いんね」に特別な意味があって、それを大事にするグループの人たちの活動か、などとも思いました。しかし、道の駅に着いて、改めてそれを見てみると、「いんねの会」というのは、「いらないの会」という意味なのだというということが判りました。何が「いんね」なのかといえば、それは何と「原発事故の放射性物質汚染指定廃棄物最終処分場候補地」はいらないということなのでした。少し前に矢板市がその候補地となっていたことはニュース等で知ってはいましたが、それがいつの間にか隣の塩谷町に変わっていたとは知りませんでした。
今回この道の駅に寄ったのは、一つ目的があってのことで、この町には「尚仁沢湧水」という名水があるからなのです。予てからその水を汲んでみたいと考えており、今日はその下見ができたらいいなと思い、何かその情報はないかと寄ったのです。名水には興味関心大で、旅の途中で気づけば必ず寄って汲むようにしています。塩谷町は我が家からは少し遠いのですが、日帰りができない距離ではなく、隣接するさくら市にある喜連川温泉に出かけた時にでも足を伸ばして是非汲んでみたいと思っていたのです。
そのような名水の湧く町に原発事故の放射能まみれの廃棄物の処分場を造るというのは、一体どういう感覚なのかと驚き呆れました。しかもその担当が環境省というのですから、これは酷いものです。環境省というのは、環境を守るというのが本来の仕事であるはずなのに、よりによってこのような場所を候補地に選ぶとは、驚くべき愚劣さです。この国・環境省と塩谷町とのやり取りを方言に訳すると、次のようになると思います。
国・環境省:「あのよ、原発事故で出て来た放射性廃棄物を、この町で処理してもらえねえがね。どうせ、山ん中で使えねえ土地が一杯あんだっペ。放射性て言ったって、低レベルだし、処理場は外さ漏れねえように、完璧に造るんだし、安全上は問題はねえんだ。これは内緒だけんど、町の財政にはう~んと協力するからよ。何とか国全体のためにも引き受けてくんねえが?
塩谷町:「いんね、いんね、そんなもん、絶対にいんね~よ。」
誰がどう考えたって、塩谷町がこんな提案を受け入れられるはずがないのは明白です。恐らくこの提案の背景には町の財政にとって極めて有利な条件が示されているのでしょうが、そのような目くらまし策に乗るようでは、町の未来は先細りになるのは必定でしょう。日本国のどこかにそれが必要だとしても、それがこの場所だというのは、理に叶わないこと甚だしいように思います。
私はそのようなことを知って、直ちに「いんねの会」に入会した気持になりました。県外の野次馬であっても、我がふるさとと同じ方言を持つこの地に、しかも名水が湧く、大自然の恵み豊かな地に、そのような恐ろしい処分場を造るなどということがあっては、断じてならないと思います。
その後どうなったのかは不明ですが、元々原発を推進してきたのは国であり、電力会社だったのですから、もっともっと全知全力を挙げて候補地を探すべきでありましょう。ロクに現地も見ないで、紙の上で選定するというのは、出来の悪い横着な役人のやりがちなことです。
現在の原発政策には、大事故の反省が活かされてはおらず、目先の利便・効率性を求めることしか視野にないように思われます。馴れ合いの性質を多分に含む規制委員会などは、人道を無視した科学者の自信の無い思い上がりが窺われ、国民のためにその使命を果たしているとは思われません。国は早急に原発の稼働を止め、エネルギー政策を他に転換すべきです。放射能除去装置でも開発されない限りは、放射能を生み出す物質を利用するようなエネルギーの生産は避けるべきです。
「いんねの会」には、「いんね」ということばが不要となるまで、大声で「いんね」を貫いて欲しいと思います。決して目くらまし策などに引き回されたりしないことを心して。