山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

横綱になれない大関

2014-01-25 00:56:11 | 宵宵妄話

 大相撲の一月場所が間もなく終わろうとしている。今場所前の最大の話題は、新しい日本人の横綱が生まれるかどうかということだった。しかし、その話題の中心にいるその大関は、いきなり初日に負け、その後は白星を少し拾ったものの、5日目にはあっけなく押し出され、もう後がないと騒がれる中で、8日目以降はシッチャカメッチャカに負け出して、11日目の今日は、何と勝ち越しさえも危ういという様な情けない状況となっている。日本国の中で最も知名度が低く、最も肌荒れの女性が多いという、バカにされっ放しの我が茨城県出身の期待の星である稀勢の里は、またしても茨城県を象徴するかの如き落胆の流星となりつつある。

自分は相撲というスポーツは、子供の頃に一時熱中した以外は次第に遠ざかり、ただ見るだけのものとなってしまっているけど、つい少し前までは国技であるということを信じて来たのだった。しかし、八百長問題などが吹き荒れ、外国からの人材が膨らむ中で、これはもう国技などではない、ただのショースポーツの一つに過ぎないと思うようになってしまった。何故大相撲がこのようになり下がってしまったかについては、もはや議論する興味も意欲もない。議論しても、グローバルとかワールドワイドとかいうのが当たり前の今の世の中や、これからの世の中を思い浮かべると、相撲がこの後も日本の文化の一つとして残るなどとは、到底思えないからである。外国人横綱が独占して番付を占めるような国技は、もはや国技などではありえない。ただのショースポーツとしか言いようがない。大相撲は、これからはそのようなスタンスで栄えてゆけばいいのではないか。そう思っている。

ところで、何故稀勢の里は横綱に挑戦する度に失敗するのだろうか。弱いからなのだろうか?体力に問題があるからなのだろうか?それとも、心意気に問題があるのだろうか?全部当て嵌まるような気もするし、違う様な気もする。いずれにしてもその真因は本人だけにしか判らない。我々野次馬は、勘ぐることしかできない。過去に横綱になれなかった大関はたくさん存在する。それらの人たちを徹底的に分析すれば何かが見えてくるのかもしれない。しかし、それが判ったとしても、稀勢の里がそれを知ったとしても状況は変わらないだろうと思う。何故なら、変わることが出来るのは本人だけだからである。

しかし、このように決めつけてしまうと、先に進めなくなって面白くない。野次馬に戻って、横綱になれない大関のことを考えてみたい。相撲は「心・技・体」の充実をその根本に据えて相撲道なるものを掲げている。この三つの命題を見事にクリアーした者が斯界の頂点に立つ横綱ということになる。そして、そのどれかが劣ったり、欠けたりした時には、直ちに引退を余儀なくされる。一場所でも負け越したり、何場所も休場したりすれば、同様に引退を覚悟しなければならない。それは、野次馬が想像する以上に厳しい現実の中にあるように思う。

横綱になれないというのは、そのような厳しい横綱の現実を体験しなくて済むという点では、ラッキーというべきなのかもしれない。大関ならば、たとえ不調であっても、二場所続けて負け越しさえしなければその地位を維持できるし、仮に二場所負け越しても翌場所に10勝以上の勝ち星を挙げれば復帰できるのである。そして、何よりもありがたいのは、地位を失っても引き続き相撲を取り続けることが出来るのである。白鵬や日馬富士には、残されているのは引退の道しかないのだ。

このように考えると、何だか複雑な気持ちになる。若しかしたら、大関が横綱になるという重圧は、もし挙がってしまったらもう後がないのだという覚悟が定まらないことに起因するのではないか。勝たなければならないという当面の目的よりも、その後に控えているもっと重いものに耐えられるかという無意識の覚悟が、当事者の「心・技・体」を揺るがしているように思う。稀勢の里は、まだ覚悟が定まっていないのではないか。

相撲道の「心・技・体」は力士のあり様を見ていると、その力の入れ具合は、①体→②技→③心の順で本人も指導者も取り組んでいる様な気がする。先ずは身体、そして相撲の勝ち方の方法の体得、この二つを通して心構えを鍛えるというところだろうか。相撲界は、この考え方、方法をずっと守ってきた。その実態は知らないけど、稽古をしない部屋は無いだろうし、稽古となれば、技に関わるのは当然だ。そして心の世界は、稽古の中で鍛えるものという訳である。そのやり方について、つべこべ言ったところであまり意味がない。気になるのは、皆同じような考え、方法で稽古をしているのに、横綱になれる人が滅多にいないということである。負けない、強い横綱というのは、どのようにして生まれてくるのか。

これは、人間の生き方そのものに係わることだと思うけど、全ての人間は、皆心で生きているのである。体や技で生きているわけではない。体や技には限界があるけど、心には限界は無い。あるのは錯覚や思い違いだけである。心の世界は無限の広がりを持っている。その広がりのパワーを一点に集中させられるかどうかが、何か物事を成し遂げる際のポイントとなる。この一点集中を成し遂げることが出来た時、人は成果を自分のものとすることが出来るのである。

自分は、「心・技・体」の核はやはり「心」にあると思う。エネルギーを一点に集中するというのを別のことばで表現すれば、それは「無」ということになるのではないか。無心とは心が無いことではなく、邪念が無になるということである。

今の相撲界においては、何よりも鍛えなければならないのは「心」の世界ではないか。稽古の中だけではなく、あらゆる場で、あらゆる方法で心を鍛えることに指導者は層倍の工夫と努力をすべきであろう。特に日本で育っている日本人には、これは大きな課題である。何故なら、外国からの人材には、自ら心を鍛える環境が備わっているからである。稽古が辛くて逃げ出す弟子があることを嘆いていた親方の話を聞いたことがあるけど、甘えの環境がすっかり出来上がっている日本人では、自ら心を鍛えるという人材は極めて限定されるように思えてならない。暴力を用いても鍛えるべきとの発想には賛同致しかねるが、心を鍛える方法は、工夫次第で幾らでもあるはずだ。親方衆は、昔からの伝統的な指導方法に依存しているばかりでは無く、自ら新しい方法を研究する努力をする必要があろう。

自分は思うのだけど、相撲の「体」と「技」というのは、さほど大した課題ではないのではないか。「体」に関して言えば、器の大きさはむしろ大き過ぎるのを心配するほどだし、技といってもその基本は押す、突く、寄るということぐらいしかない。小技は苦し紛れの戦法に過ぎず、肝心なのはこの三つの基本を確実にこなすということであろう。ま、上手や下手の投げ程度は身につける必要はあると思うけど。派手な技は不要であり、そんなものを磨いていたら決して上位へは進めないであろう。要は、「心(=意志)」の思うように動く体を作ることなのだと思う。どんな立派な体格を持っていても、それを自分の思うように動かせなければ、自分の相撲を取ることはできず、ただ相手に相撲を取られるだけである。

稀勢の里によらず、これから先この「心」の課題をクリアーさせなければ、日本人の横綱は生まれないと思う。また、怪我が多いのは、稽古のやり過ぎではなく、ショーに力を入れ過ぎて、年に6場所も開催したりしているので、本気になって土俵に上がる力士には、懸命になればなるほど体を傷める機会が増えるからであろう。力士に「心・技・体」が揃わぬ環境を、相撲協会そのものやショー好みの社会が作り出していると考えるのも、あながち的外れではない見方のような気がする。

今はもう、稀勢の里には、突然変異的なパワー集中力が備わるのを期待するのみである。勿論、その前にしっかり覚悟を決めて貰わないと、綱の維持は出来ないのだから。

コメント
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