山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

東京敗れる!

2009-10-04 03:00:18 | 宵宵妄話

昨日、デンマークのコペンハーゲンで開催されたIOCの総会において、2016年の開催地を決める選考が行なわれた。このことに関して夕刻から各メディアはかなり力を入れて、各種の報道を行なっていた。相変わらずお祭り騒ぎの好きな人たちだなと思った。

最近はこの種の催しにあまり関心を持たなくなってしまっている。前回どこで開催されたのかも記憶は朧(おぼろ)であり、日本代表の劇的ともいう成績が何だったかを思い出すにも時間が掛かるほどである。ようやくそういえば水泳で金メダルを獲った人がいたな、あれは誰だったっけ?という具合なのだから、どうしようもない。

今回の開催地の選考に関しても、東京以外のどこの都市が手を挙げているかなど、報道で見聞するまでは知らなかった。シカゴ、リオデジャネイロ、マドリードだという。どこが選ばれるのか、どこを選ぶべきなのか、全く見当がつかない。報道によれば南(ラテン)アメリカ大陸ではまだ未開催だというから、恐らくオリンピックとしてはリオデジャネイロを選ぶのが至当ではないかとは思った。

結果は、予想通りとなった。世の中の多くの人は(日本ではなく、世界中の)最初からリオを選ぶのが妥当ではないかと、心のどこかに思っていたのではないか、そのような気がする。ブラジルの最近の発展は目覚しいと聞いている。一時は倒産しかけた国だったが、広大な面積をもつ国だからそのポテンシャルも大きいはずだし、一旦施策が軌道に乗って立ち直れば、量的な面において世界をリードする部分が出てくる筈だとは思っていた。オリンピックの開催に名乗り出るくらいであるから、それなりの自信があってのことに違いないと思った。勿論ブラジルなどという国には行ったことが無いけど、かつてリオデジャネイロはポルトガルの王室が遷都した地であり、長い間首都であったことを思えば、開催地に相応しいと思える。

オリンピックの精神といえば、その創始者のクーベルタン男爵の「参加することに意義がある」という名言が残っているが、現在のオリンピックも本当にその精神に則っているのだろうか。競技者の世界では必ずしもそうではなく、やっぱり勝つことに意義があるという現実があるように思う。参加するのに意義があるのは、開催日当日のパレードくらいであって、その後の人びとの関心は、誰が勝つかという点に集中し、一回戦の敗者などには目もくれない。我が国においても、そのことは明白である。思うに参加するに意義があるのは、競技に選ばれて参加した人だけに言えることであって、それらを傍から眺めている者たちは、そのような崇高な精神など最初から持ち合わせてなどいないようである。

ところで、オリンピックを開催するということには、どのような意義があるのだろうか。意義などという固いことばではなく、思惑といった方がわかり易いかも知れない。万難を排して開催に手を挙げるのは、国民や都市住民の意識の高揚などという高尚なものではなく、都市の再開発等経済発展への貢献の利益追求以外には無いようだ。東京が今回、国内の他の都市を蹴落とし、立候補決定後の活動に150億円もの費用を投じて力を入れたのも、都心の再開発に対する周到な計画があってのことだと思う。オリンピックは、思い切ったインフラ整備への投資が可能となる、名目充分なイベントだからであろう。このことは東京によらず他の立候補都市においても当てはまる事情ではないか。何の理由も無く巨額の投資を行なうことなどできるものではない。

最終選考会に出席した、都知事をはじめとするメンバーの人たちにとっては、プレゼンテーションそのものの上手下手から判断すれば、最高の出来だったのにということなのかも知れないけど、日本の国内事情というか、オリンピック開催に対する国民大衆の関心は、プレゼンテーションの内容ほどには盛り上がってはいなかった様に思う。都市の再開発や不況の閉塞感を払拭するという思惑の方策検討にばかり力が入って、国民大衆を取り込まなかったようにも思えるのである。一部の特定の人たちだけが大騒ぎをしているという受け止め方が多かったのではないか。これが東京ではなく福岡や大阪、名古屋だったら盛り上がり方も少しは違ったのかも知れないけど、そうなった場合、もしかしたら東京は水をかける側に回ったのではないかとも思う。(これは判らないけど)

今の日本には、国を挙げて世界にアピールしようというテーマは無いように思う。総理大臣が環境問題に関して温室効果ガスの削減をアピールしても、世界的の大半の国は、日本の先進技術を駆使した東京という街を、オリンピックを機に覗いてみようなどと考えるレベルには至っていないし、日本の国内にだって身を削ってでもそれを達成しようという合意が生まれているわけでもない。まだその時期には至っていない、というのが今回の東京に対する評価ではなかったかと思う。

見る人はちゃんと見るべき所を見ているものだ。前評判の高かったシカゴが真っ先に落選したのも、その次辺りにいたらしい東京が2回目で落選したのも、お見通しのとおりだったのではないか。オリンピックというのは、都市が主催する大会であるとはいえ、大国や経済大国がやたらにしゃしゃり出て自国の利益のために開催を引っ張り込むというような姿勢に対し、どこか反感を潜めていたのかも知れない。そのような感じがした。

東京は敗れたけれど、国民も都民も1週間もすれば忘れ果ててしまうに違いない。残念かも知れないけど、オリンピックに対する関心も、大衆はそのときの気まぐれな気分で受け止めているだけで、選挙と同じようなムードが国内には溢れ漂っている。つまり無党派層ばかりが増え続けているわけで、その無党派層を取り込まないかぎり国を揺るがすほどの盛り上がりなど期待できるはずも無い。今回の東京の敗因はそこにあったのではないか。

今回の騒動を見ていて、一つだけ良い意味でショックをうけたことがある。それは、日本のプレゼンテーションの様子を見ていて、プレゼンテイター全員が英語でスピーチしているのを見たことだった。そしてご老体よりも若い世代の人の方が遙かに英語らしい英語でスピーチをしていたことである。最初にスピーチを行なった16歳の体操選手の女の子などは、実に見事で素晴らしかったと思う。その他名のある選手や元選手の人たちも、さすがに国際舞台で活躍をしてきただけあって、それなりの意義あるスピーチをされていたように思う。時代は大きく変わって来ているのだなと、カタカナ語の英語しか読めない自分の、化石化しつつある姿を改めて感じたのだった。東京が敗れたことよりも、そのショックの方が自分にとっては遙かに大きいものであった。

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