山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

112日という時間

2018-10-01 08:30:37 | 宵宵妄話

 時の経過を「違い」として認識することは大変に難しい。例えば、昨日と今日との暮らしの違いを見出そうとすると、これが難しいのだ。勿論、個々の行為は違っているのは当然なのだが、本質的には多くの場合今日も昨日と同じことをして暮らしていることになり、大した違いなど無いのである。ましてや一緒に暮らしている人間のこととなると、夫婦であっても親兄弟であっても顔も行動も昨日と今日が違っているなどと判るのは、何かとんでもない事件に遭遇でもしない限り、とても見出すことは困難だ。

 しかし、不思議なことに現実は少しずつ変化しており、一日の差が1カ月、1年、10年となるにつれて、その違いは大きくなってゆく。それに気づかないのは、多分当事者も又時間の流れと共に流れているからなのであろう。丁度新幹線の中に座っている人が外の景色を見ない限りその速さに気づかないと同じように、時の流れの中に居る人には自分自身とその周辺にいつも一緒に居る人の変化には気づかないものなのだ。

 さて、今回の旅では112日ぶりに家に戻ったのだが、前置きの理屈に照らして、何よりもその変化に驚いたことがある。たった3カ月と3週間の時間経過なのに、ホ~!と感心し、驚いたのである。それは孫娘の絶大なる成長だった。まるで人間の成長の瞬間をそこに見たという感じだった。

同じ屋根の下に住む孫娘は、出発した5月下旬の時は2歳だったが、旅から戻った9月中旬には3歳になったばかりだった。どんな反応を示してくれるのかなと、ジジババとしては不安と嬉しさの期待の綯い混ざった心境で孫たち(5歳の男児もいる)と対面したのだが、自分たちに気づいた瞬間、大喜びで飛び込んで来てハグしてくれるほどのはしゃぎぶりだったので、何故か安堵したのだった。そして、驚いたことに孫娘はドレスなどを着ておしゃれをしていたのだ。話を聞くと、なんとこの9月から兄と同じ幼稚園に通っているとのこと。今日はお誕生会があって、それでおめかしをして出掛けて、今戻ったとのことだった。思っていたよりも半年も早い就園ということになる。当今、子どもの数が少なくなっているということで、幼稚園の新しい戦略施策が始まっているのかもしれない。社会性を身につけることは大切だが、ちょっぴり早過ぎるとの思いも浮かんだ。しかし、本人は兄が通園している間、遊び相手もなく半端な時間を過ごしているのだから、悪くはないなと思った次第。

惣領の甚六という俚諺(りげん=ことわざ)があるけど、兄に比べて妹の孫娘の方が何事も覚えが早い様で、先取の気に富んでいる様である。だから、早やめの幼稚園通いはこの子には至当なことなのかも知れないと思った。

その後半月が過ぎて、孫娘はほぼ毎日階段を上がって顔を見せにやって来る。兄の方は偶にしか来ないのだが、孫娘は毎回顔を見せたら、長居はせずに直ぐに戻ってゆく。で、一つ気になることがあるのだが、それは今まで兄のことを「にーに」と呼んでいたのだが、いつの間にか、その名を呼び捨てにしているのである。親たちが兄の名を呼ぶのを見ていてなのか、或いは幼稚園に通うことになって自分も対等なのだと気づいたのか、呼び捨てることに決めたのかも知れない。兄に向かって、大きな声で「○○、それはダメじゃない!」などというのを聞いていると、ドキッとして、これは末恐ろしいことになるのではないか、などとちょっぴり不安にもなる。もはや長幼の序などに拘る時代ではなくなっているのかもしれないけど、何だか下剋上の小児版を見ている様な気がして、複雑な気持ちとなるのである。強いことはいいことなのだが、ただ強いだけではつまらない人間になってしまう。人間には強さと同じ分だけの優しさが必要なのだ。できることなら孫娘には強さよりも優しさの方が先行する女性になって欲しいと願っている。

まだ随分と先のことを気にしているなとは気づいているのだけど、とにかくこの112日間で、孫娘はそれだけ多くのことを思わせるほどの成長ぶりだった。旅から戻って一番の変化に驚かされたのは、この孫娘の姿だった。もはや成長が完全に停まってしまっているジイジには、孫娘の成長はとても眩しく見えたのだった。

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