今日(1/5)のニュースの中に、日本老年学会というところが、現在65歳からとされている高齢者の定義を10歳遅らせて75歳以上とし、65歳から74歳までは準高齢者としては如何かという提言をされたというのがありました。現在の65歳から高齢者という扱いは、身体的にも知的機能においても実態に合っていないというのがその理由のようです。まことにその通りだと思います。
わが国の社会保障制度や保健医療に係わる費用の膨らみが、国家予算を相当に厳しいものにしている背景には、高齢者世代を中心とする暮らしのあり方が大きく係わっているのは既知のことです。オーバーな言い方をすれば、このままで行くとこの国は老人が国を食い潰すといったことになりかねない、そのような危険性すら孕んでいるように思えます。私自身が既に後期高齢者に足を踏み込んでいることを考えると、このような言い方は自らの首を絞めることになりかねないのですが、一市井人の自覚としては、老人といえどもただ国に甘えるだけでは余りにも無責任ではないかと思えてならないのです。
今回の提言に対するコメントとしては、厳しく言うならばこれでは大雑把過ぎるといわざるを得ません。65歳を75歳に遅らせて扱うという背景には、様々な課題が潜んでいるのだと思いますが、それらを明確に際立たせるためには、よりキメの細かい老世代の区分が必要ではないかと思うのです。そこでもう一度、昨年自分が主張した老人世代論を繰り返したいと思います。
それは老世代を5つに区分し、それぞれの世代の特性に合わせて、個人と社会(=国家・行政)が必要な対応を心掛けるべきだという考えです。概要を言えば、
① 準老世代(~65歳)←老の準備をする世代
② 順老世代(65歳~75歳)←老に馴れる世代
③ 真老世代(75歳~85歳)←老に正対する世代
④ 深老世代(85歳~95歳)←老に感謝し、味わう世代
⑤ 超老世代(95歳~)←老を離れて生を楽しむ世代
この5区分に従って、あの世に行く前に誰もが通過しなければならない、人生の「老」という時間を、それぞれが着実に生きてゆくための標(しるべ)となるようなものを個々人が自覚・実践し、社会もそれをバックアップするという、そのような取り組みが必要ではないかというものです。
今回の日本老年学会の提言では、75歳が区切りの柱となっており、今までの65歳からが準高齢者という考え方になっていますが、私の世代論では、75歳までに①準老と②順老の二段階の老への対応を意図しており、更に75歳以降については、3段階に分けての老への対応を考えることにしています。これら5段階に区分することにより、よりキメの細かな老への対処のあり方が見えてくるように思えるのです。(私の老世代論については、ブログの2016年1月24・26・28日の記事を参照下さい)
斯く言う私自身は今年喜寿を迎え、疑いも無く後期高齢者の中に居ます。私の老世代区分では「真老」に入ることになります。老と正対する毎日です。老を実感するのは、先ずは身体の側面です。身体に関して今一番心がけているのは、筋肉等を鍛えることではなく、内臓等の循環が滞(とどこお)らないように努めることです。体内の循環器系の回転をスムースに行くようにするためには、食事と運動がキーとなるように思っています。何をどれくらい食べるか、どのような運動をどれくらいやればいいのかを決めるのは難しいことですが、順老世代からの継続で、今は自分に合ったそれなりのものを身につけていると思っています。これについては何よりも実践の継続が大切であり、時々脱線しながらも何とか保持出来ていると実感しています。
次に心の世界ですが、これはやりたいこと、やらなければならないことがたくさんありますので、あの世に行くまで不自由しないと思っています。旅に出るというのは目的ではなく手段の一つなのですが、自分の暮らしの中では大きなポジションを占めています。旅に出ると、様々な出会いを通して無限といっていいほどの新たな発見が待っています。それを記録し、反芻する中から新たな課題を見つけて行く楽しみは、何ものにも代えがたいものがあり、これは旅に行けなくなる時が来たとしても、失うことがないように思えるのです。
「死計は老計の中にあり」というのが、今の真老を生きる私の確信とも言える信念であり、老世代が65歳から75歳に変更になろうとも、先ずは己の信念に従ってしっかりと老の一歩を進めてゆきたいと思っています。
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