山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

停酒宣言一歩手前

2011-10-02 06:17:33 | 宵宵妄話

    妙なタイトルとなりました。只今大いなる迷いの中にあります。酒を止めるべきか、止めざるべきかという大問題です。今まで本気になって考えたことが無い問題です。酒はわが生涯の友という信念が揺るぐことは無かったのですが、このところの我が身の健康状態を慮(おもんばか)ると、どうやら今までのような酒との付き合い方では、遠からず酒の方から離縁を突き付けられそうな気がしているからです。

我が身に直接係わる友といえば、酒の他には糖尿君が畏友として控えています。畏友というのは、身を正して付き合わねばならない親しき友人ということでしょうか。この糖尿君との付き合いはもう20年以上に及んでおり、この間に何度も重大なる警告を受けて来たのでした。その中で最も恐れていたのが、生涯の友と思い込んでいる酒との付き合いを止めろという警告なのです。それがついに今回かなり強いトーンで発せられている感じがしています。

糖尿病というのは健康と病とのあり様を示すバロメーターだと思っています。バロメーターとは元々気圧計のことを言いますが、ここでは健康であるか無いかの程度を示す指標といった意味です。具体的には血糖値とか或いはヘモグロビンA1Cといったものの測定値などが該当すると思います。糖尿病は不治の病であり、一旦取りつかれると薬を飲んでも注射をしても治らない病持ちの体質となってしまいます。薬を飲んで数値が下がって一時的には健康に戻った気分になるのですが、それで治ったと安心して好きなように食べたり飲んだりしていますと、たちまち数値は悪化し、病のレベルに突入してしまうのです。

今の世は飽食の時代だなどと呼ばれていますが、それは別の言い方をすれば過食の時代であり、カロリー摂取過多の時代でもあるということでしょう。糖尿病はそれを証明する重大な指標の一つであり、我が国では人口の約1割の患者がおり、且つその予備軍はその倍以上あるということですから、まさに国民病と言っても良いのかもしれません。

糖尿病が怖いのは、前述のように直接の死因とはなりにくいものの、様々な病を誘発したり、或いは合併症と言われる重大な病を現出させるその根っ子となるからです。そして最も恐ろしいのは、薬を飲めば病は治るなどという甘い考えが通用しない厳しい性質を持った身体に我が身をつくり替えてしまう、そのような病であるということです。病体質になっているのを気づかずに、薬を飲んでいるから大丈夫などと過食を止めないでいると、遅かれ早かれ崖っぷちに立たされることは必定です。その三大病状が①失明②壊疽による足指などの切断③腎臓の不全による透析であり、これらは合併症の極みと言われています。

もう20年以上も糖尿君と付き合って来て、それなりにコントロールに努めて来たつもりなのですが、それが極めていい加減で不十分だったということをこの頃思い知らされています。というのも今年になってから足の指先がしびれるようになり、手指の方にはバネ指の症状が出るようになりました。バネ指はともかく足の指先のしびれは、どう考えても糖尿君からの重大な警告としか受け止められません。目や腎臓の方には今のところ異常は感じていませんが、もしかしたら深く潜行して機能の悪化が始まっているのかもしれません。勿論放置しておくわけにはゆかず、医療機関に行き、然るべき処方を受けて薬なども飲んでいるのですが、多少は改善されている感じがしてはいるものの、このままでは悪化の進行を完全にストップさせるのは難しいように感じています。

70歳を期してベジタリアンに転換しようと只今取り組み中で、先ずは体重を5kgほど落そうと、今年の初めころから取り組んできました。野菜食中心に切り替え、食事記録を付けこれを続けた結果、現在その目標はほぼ達成され67kg前後だった体重は現在62kg前後となっています。目標が達成しかかった3~4カ月前の頃は身体に力が入らず、何だかふわふわしている感じで、何をしても無気力が入り込んでくる感じがしたのですが、今はようやく落ち着いた状況となり、リバウンドの心配も遠ざかった感じがしています。ま、減量そのものは上手くいっているということなのでしょう。これについては、次のステップとして60kg前後まで体重を落として、そのレベルで定着させたいと考えています。

ここまでですと、順調に糖尿君とのお付き合いができている様に見えるのですが、足指のしびれなどはなかなか消え去ってはくれず、停滞しているのです。それでいろいろその原因を自分なりに考えて見た結果、酒との付き合い方に行き着いたというわけなのです。こんなことは大して考えなくてもハナから分かっていたことじゃないかと、どなたでも気づくことなのかもしれません。しかし糖尿君との付き合いの倍以上にもなる古くからの友である酒を止めるというのは、自分にはとてもできないことなのです。今も依然として止めるつもりはないのですが、量を減らす必要はどうしてもあるようです。これをどう実現させるかが冒頭に書いた大問題なのです。

20年ほど前、私はヘビースモーカーでした。今は1本も吸いませんし、タバコの煙には顔をそむける人間となってしまいましたが、止める前までは、日に60本以上は煙を吸い込んで、何やら仕事という奴をやらかしていたようです。これを何とか止めようと休煙宣言を繰り返したりしていたのですが、ある時期の値上げを期に気づいたらタバコを吸わなくなっていました。元々タバコはあまり好きでなかったのかもしれません。百害あって一利なしと言われますが、私はタバコには一利があると思っています。一利があるから皆タバコを吸うのです。その一利とは、百害を承知での一服の緊張からの解放感、或いは逃走感といったものかも知れません。長いことその一利に取りつかれていたのでしたが、それを捨てることができたのは、タバコという国策事業に対する理不尽な値上げに怒りを覚えたのが発端でした。今となれば些かバカバカしい話ですが、結果的には時に値上げにも感謝しなければならないことがあるということでしょうか。

さて、ところでです。酒の方はタバコとは全く違います。何が一番違うかといえば、私は酒が好きなのです。酒も私を好いてくれています。どんなに高額の課税が為されても、或いは禁酒法なる法律が生まれたとしても、酒を見捨てることは我が人生ではありえません。これはもう、バカバカしいほど真面目な信念なのです。問題は如何に量を減らすかということです。そしてこれをどのように実現して行くかということなのです。

目標達成のマネジメントの考え方の中には、様々な手法がありますが、私が良く使うのは言いふらしというやり方です。これは自分に言い聞かせただけではとても守りきれないなという場合に使う手です。身近な周辺の人たちに自分の考えている目標或いは目的を言いふらすのです。その場合はずるい戦法なのですが、100%止めるなどということは決して口にしないことです。タバコの時もそうでしたが、禁煙とか止めるなどとは決して言わずに休煙という言い方をします。これなら元に戻ったところで言いわけが立つからです。

さて、肝心の酒の方なのですが、禁酒などとは元々考えてもおらず、ただ糖尿君の警告もあって、我が身自身がそれを受け入れざるを得ない状況から、量を減らすということなので、どう言いふらせばよいのか困惑しています。それで、今思っているのは停酒宣言という奴です。止めるのではなく停めるということです。停めるのを繰り返すうちに、もしかしたら止まることになるかも知れません。要するにこれは理屈遊びの様なものなのですが、目的や目標の達成には、遊びの様なものが必要なのだと思っています。

それにしても宣言を発するかどうか、今しばらくは困惑が続くのではないかと思っています。とりあえずは、酒類は在庫がなくなるまでは補充をしないことにしました。在庫がなくなった時が決断の時になると思います。慎重に決断したいと思っています。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 江戸は疲れていた | トップ | 野菜作りを断念する »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
しかとお聞きしました (Sora)
2011-10-02 08:25:17
停酒宣言(一歩手前)しかとお聞きしました。
よろしければまた経過報告ください(笑)。

私はまだ正常上限値ですが、非常に気にはしていますが、甘いものをつい食べ過ぎてしまいます。飽食、おっしゃるとおりです。

馬骨さんのご心情よく伝わりました。ありがとうございます。私も真剣にセーブする気になりました。

返信する
いやどうも (馬骨)
2011-10-03 06:35:35
Soraさん。高々酒量を減らすだけの話をオーバーに書いたりして、いやどうも、お恥ずかしい話です。間もなく本当の停酒宣言の時が来ると思います。しかとウオッチをお願い致します。(笑)コメントありがとうございました。
返信する

コメントを投稿

宵宵妄話」カテゴリの最新記事