山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

二人の母に思う

2016-12-20 05:17:38 | 宵宵妄話

結婚している間は、誰でも二人の母を持つことになる。すなわち、実母と義母の二人である。この二人の存在は生きていても亡くなっていても絶対的な存在であり、現在の生死とは無関係だ。どんな人にも、生まれる前には産んでくれた母がいるからだ。人は母がいなくても育つことはできるかもしれないけど、母無しで生まれることはできない。それゆえに母というのは偉大な存在なのだと思う。

私にも二人の母がいる。実母は22年前にこの世を去り、義母は今年の10月に幽界に旅立った。だから、今は「二人の母がいた」という書き方が正しいのかもしれない。この二人の母のことについて、少しく書いて見たい。というのも、この二人の母からはたくさんのことを学ばせて貰ったからである。その学びの中で最大のものは、一つは生き方であり、もう一つは死に方であったと思う。この歳になると生き方は一方的な反省となり、死に方は間近な課題となっている。

実母の生き方は、文字通り身をすり減らすという過酷なものだったと思う。兼業農家の柱として、朝から夜遅くまで農業に勤しむ傍(かたわ)ら、三度の食事を初め全ての家事をこなし、五人の子どもを育てたのだった。その暮らしの中には、楽しみというものはほとんど存在しなかったように思う。晩年になって、多少は旅行などにも出かけられるようになって、僅かに人並みの楽しみを味わえる時もあったのだと思うけど、それはむしろ時代そのものが母にプレゼントしてくれたものだったのかもしれない。そのような母に報いることが少なかったのは、親不孝以外の何ものでもない。後悔先に立たずというのは、まさに母に対する己の不徳の指摘以外の何ものでもないように思う。

この母から学んだことは、良い意味でも反面の教えとしても、今までの自分の人生を築く基盤となっていることは間違いない。楽しみの少ない人生は、苦しみを楽しみに転換させる力をもっており、母はそれを実現・実行した人だと思っている。足を地に据えての人生の歩みが何よりも大事だということを母からは数多く学んだと思っている。

この母の死は、突然だった。くも膜下出血で倒れたとの知らせに、東京から直ぐに水戸の病院に飛んで行ったのだが、病院に母の姿は無く、退院したのかと実家に行ったのだが、早や母は幽界に旅立っていたのである。死に目にも会えないという、そのことばの意味するものの厳しさを実感させられたのを覚えている。それは悲しみを超えた反省だった。しかし、母の突然死は、後期高齢者のこの歳になると何故か一つの憬れのような感覚となって来ている。不謹慎なのかもしれないけど、死に行く者としてのそのあり方は、必ずしも悪くはないな、という思いなのである。

 

さて、もう一人の母(義母)も自分にとっては、その生きざまにおいて多くを学んだ人だった。ある意味では実の娘である家内以上に、この母から学んだことは多い。結婚して2年目の記念日に、あろうことか家内の父(義父)が亡くなったのである。4人姉妹の長女の家内以下3人の娘たちを残して、である。結婚していたのは家内だけで、末の妹はまだ高校生だった。そのような突然現れた厳しい環境の中で、その後も母はめげることなく、持ち前の明るさと生きる知恵とを発揮して、3人の娘を育て、嫁がせて、それぞれの家庭を見守り続けて、しっかりと自立させたのだった。この母のパワーは実母とは又違った意味で、学ぶことが多く、尊敬できる存在だった。この母もまた楽しみよりも苦労の多い人生だったと思う。しかし、この人の凄さは苦労を決して他者に見せないことにあったように思う。これは簡単なようで並の人間には出来るものではない。大して苦労もしていないのに、他者に苦労を自慢げに話すような人がこの頃は増えて来ている感じがするのだが、本当に苦労をした人はその苦労を決して他者に話したりしないものだと自分は思っている。

その母は、還暦を過ぎた頃に大病に取りつかれ、オストメイトの身となってしまったのだが、そのハンディを克服して傘寿(80歳)を超えても同じ仲間の集う会の役員などを勤めて元気だった。ところが、自分の年齢を気にして、後輩に役を譲ると決めて会を辞してから以降は、急速に物忘れがひどくなり、やがて認知症という病に取りつかれる結果となってしまったのである。人がやりがいや生きがいを無くした時に、この病は一気に取りつくような気がする。恐ろしいことだ。

それからの、この世を去るまで10年間という時間は、大へんに厳しいものだった。人を人として支えているものの全てが、一つずつ壊れて行くのである。記憶も思考も運動の力も失われてゆくのである。この病の恐ろしさは計り知れないものがある。そのような母の姿を見るのは、耐えがたいほどに悲しいものだった。特に寝たきりになって病院のベッドに身を横たえるだけとなってしまった頃からは、見舞いに訪れても、もはや声をかける勇気も無く、遠くからそっと見守るだけだった。プライドの高い母だけに、そのような姿を見せたくないという気持が強く訴えて来ているような気がして、声が出なかったのである。そのような振る舞いの良し悪しは、他者から見れば不可解なのかもしれないけど、自分にとっては、見守るだけが出来ることのすべてだったのである。

その母も力尽きてこの世を去って行った。本当に可哀相な長い闘病の時間だった。この間に母が教えてくれたことはただ一つ、決してこの病だけには取りつかれるな、ということに尽きると思う。あんなにエネルギッシュでバイタリティに富んでいた母が、このような最期を迎えるとは想像もできないことだった。どんなに惨めで苦しかったことか。その母の思いが解るような気がするのである。身を以てその病の厳しさを教えてくれた母に対して、その子どもたちは同じ病の道を辿ることがあってはならないと思う。生きる力の源となっている生きがいややりがい、張り合いなどを失ってはならないのだ。母はそのように教えてくれているように思う。

 

生き方と死に方について、二人の母の残してくれたものは大きい。あと数年過ぎれば我が身も傘寿を超えるのである。自分的には「死計は老計の中にあり」と思っているけど、その実践はまさに今をどう生きるかにかかっている。もはや二人の母も二人の父もこの世にはいない。最後の母を見送り、四十九日の法要を終えた後、改めて父母の残してくれた教えに思いを巡らせたのだった。

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