山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

田中陽希という妖怪・快人

2015-04-01 04:03:24 | 宵宵妄話

 3月までのNHK朝ドラ放映は、主にBS放送で見ていたのですが、7時45分にそれが終わると、グレート・トラバースというタイトルで、深田久弥の日本百名山を一筆書きのコースで全山を自力だけで走破するという、とんでもないアドベンチャーにチャレンジしている人の様子が毎時15分間版で放映されていました。トラバースというのは、登山用語で横切って進むという様な意味だと理解していますが、このグレート・トラバースは、真にグレートな発想で、日本中の主な高山を全て歩いて横切ろうという試みなのですから、驚くばかりです。

 一体そのようなとんでもないことが出来るのだろうかと、半ば疑問を抱きながら画面を見続けて来たのですが、いやあ、とんでもない人間がいるものだと、毎日毎回、最近に無かった驚きを感じています。そのグレート・トラバースにチャレンジしているのが「田中陽希」という人物です。毎回見る度に「いやあ、この人は妖怪だ!」「これはもう、化け物だ!」と、声をあげて叫んだりするものですから、傍で一緒に見ている家内の面白がること。

 田中陽希さんは、プロのアドベンチャーレーサーということですが、そのような職業があるのを知りませんでした。自分のような老人世代では、かつて想像もできなかった仕事の世界が、新しく生まれて来ているのかと驚きを実感しています。それにしても、毎々紹介される登山や歩きや走りの場面を見ていると、まさに超人というのを感ぜずにはいられません。登山の場面では、自分も何度か登った山々が幾つかが紹介されていましたが、そのスピードは信じられないほどのもので、この人の身体の持つ得体の知れない底力を感じます。例えば、南アルプスの仙丈や甲斐駒などを登るスピードは、若い時の自分のそれとは比べようも無く速く、往時のことを思い出しながら彼の登山の様子を見ていると、こりゃあ、バケモノだ!とどうしても叫んでしまうのです。

 彼のこのスピードは、7ヶ月間という決められた期限の中で達成しなければならない100座の山々の登頂・走破という目標のためであり、それはまさにレースの中にあるわけですから、当然のことなのだろうとは思うのですが、それを現実に毎日こなしているという所が真に凄いと思うのです。

 毎々、バケモノだ!妖怪だ!と叫びながら、ふと思ったのは、役(えん)の行者、役の小角(おずの)のことでした。飛鳥・奈良時代に修験道の開祖として知られているこの人物は、奈良県の御所(ごせ)市内の茅原という所で生まれています。そこには吉祥草寺が建立され、現在も残っていますが、何年か前にそこを訪ねたことがあります。自分的には、役の行者は、空飛ぶ仙人というイメージで、実在しているとは思わなかったのですが、御所市を訪ねる機会があり、その生誕の地を訪ねてみて、認識を改めたのでした。御所市は、奈良県の北西部に位置し、葛城山や金剛山の裾野に古くから発展した地域ですが、そこへ行くと、自然と歴史の重みのようなものを実感できる場所だと自分は思っています。

その御所市の茅原の地に生まれた小角は、呪術師としての修業を、近くの葛城山(959m)や金剛山(1,125m)で行ったということですが、往時はこれらの山地は原生林だったでしょうから、開かれた道があったとしても、相当に厳しい修業内容だったに違いありません。その後吉野の金峰山や熊野の山々で修業を重ね、やがて悟りを開いて修験道を拓いたのだと聞いていますが、この役の行者小角には様々な伝説があり、自分的なイメージとしては、前述のように、この人は日本的な山岳宗教の祖として、日本中の山々を自在に駆け巡った仙人のような人ではなかったかと思うのです。

 自分の経験から思うに、一人で山に入って歩き回り、頂上に登ったりしていると、不思議な心境に至ることがあるのです。若い頃は奥多摩から始まって、秩父連峰、八ヶ岳連峰、それに南アルプスの山々に惹かれて、一人歩き回った時期がありました。冬山にも出かけて、雪のテントの中で一夜を過ごしたことも懐かしい思い出です。山歩きは、背に負う荷物の重さと戦いながらの、登頂の喜びを味わう、考えてみれば、何故そんなことを?という様な行為なのですが、いつの世でもそれを味わいたい人々はたくさんいるようです。それは、あの不思議な境地を味わえることを知ったからなのではないかと自分は思っています。

 その不思議な境地とは何かといえば、上手くは言えないのですが、大自然との一体感というか、大自然の中に活かされている自分、生かされている自分を実感できるのです。「活」と「生」は違います。「生」の中に「活」があるのです。大自然との一体感というのは、1回や2回程度の登山ではなかなか味わえるものではなく、何度も限界近い労苦を乗り越えた時、即ち登山であれば山頂に立った時に気づくものであり、それは山を征服した!などという思い上がりではなく、登頂の喜びと共に味わう厳(おごそ)かな大自然との一体感なのです。自分が大自然を見ているだけではなく、大自然に抱かれ受け止められている自分に気づくということなのです。このことに気づくと、山歩きの労苦は、自分が大自然に試されているのだということが解り、背中のザックの重さが消えてゆくのです。重さと自分とは別のものだと受け止めることができるようになるのです。今の自分は、登山といえば筑波山くらいしか出向かないのですが、筑波山の僅か90分の登りの時間の中にでも、この思いはその昔と変わりなく定着しており、それゆえに登山には苦しみなど無用なのです。

 田中陽希さんは、自分の言うこのような境地をとっくに乗り越えられているに違いありません。人は体力だけで山を縦横に歩くことなどできるものではありません。イノシシやカモシカだって、体力任せの山歩きなどしてはいないのです。大自然との一体感、大自然に包まれて生きて行動しているという感覚、それがあって初めて「真の力」が発揮されるように思います。そして、この「力」にはレベルがあって、もし自分が「1」だとしたら、田中陽希さんは「5」は超えているでしょうし、三浦雄一郎さんはもっと上に違いありません。そして役の小角は、最上位のレベルを超える存在なのかもしれません。

 とにかく、久しぶりに見る若者の快人でした。一昨年は三浦雄一郎という快人の、80歳にしてのエベレスト登頂という偉業に大いなる刺激を頂きましたが、今年はこの若者のチャレンジの姿に胸を打たれました。自分も又これからの残りの人生を妖怪的に生きてゆこうと思いました。田中陽希さん、ありがとう。これからも様々な限界へのチャレンジを成功させていってください。

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