つい先日MRIの検査を受けました。昨年来の右肘の痛みが一向に改善されないので、より正確な検査をした方が良いという医師のアドバイスに基づいたものです。MRIというのは電磁波による検査装置というもので、検査時には相当の騒音があるとの予告説明を受けました。MRI検査の話は聞いていても、自分自身がそれを受けるなどということは勿論初めてのことで、どうも気乗りはしないのですが、検査の結果、正確な原因や状況が把握でき、より有効な処置が可能ならばそれに越したことはないと思い、とにかく受けることにしました。
当日が来て、朝一番の検査となったのですが、聞いていたとはいえ、些か閉所恐怖症の気味のある自分には、一時ではあれ、丸っこい筒の中に閉じ込められるのには、やはりかなりの抵抗を感じました。しかし、駄々っ子のようなことを言っている場合ではなく、検査技師の方の説明を受けた後は、もはや諦めるしかなく、おとなしく台の上に収まったのでした。
検査が始まると、確かにうるさい音が飛び込んできました。予めその騒音を紛らわせるために、ヘッドフォンを付けさせられ、そこから音楽が流れてくるのですが、何の曲だか判りませんが自分の好きなものとはちょっと違ったものでした。とにかく2種類の音でその喧騒度はかなりのものでした。さて、これをどう凌ぐのか。人によっていろいろな対処法があるのだと思うのですが、私の場合は、こんな時は般若心経を唱えることにしています。
般若心経は、20年ほど前に思い立って全文を暗記しました。爾来お寺に参詣した時は、必ず唱えることにしています。人が大勢いるような時は、声を出さずに誦すことにしています。仏教の信徒という自覚はないのですが、不断の暮らしの中で、お経の一つくらいはものにしておきたいと考え、通勤の途中を歩きながら、称名の録音テープを聞き、手元の経文のメモを見ながら覚えたのでした。どうせ覚えるなら、唱えるだけではなく、書くこともできるようにと、こちらの方も経文など見なくても何とか書けるレベルに辿り着きましたし、又経文の意味の方も自分なりの解釈が出来るようにと、あれこれ先人の解説書などを読み漁りながら、どうにか一通りの理解をものにしたのでした。
で、MRI装置の円筒の中で、繰り返し経文を唱えていたのですが、ふと気がつき、お経の文字の方をちゃんと覚えているかチエックしてみようと思いました。順番に一字一字を思い浮かべながら進めていったのですが、途中で、どうにも思い起こせない箇所があるのに気づき、愕然としました。唱えるだけなら、もはや自動的に声となって流れ出てくるのですが、文字の方となると、これはいけません。例えば「ねはん(=涅槃)」ということばがありますが、この「ね」の方が出てこないのです。また、経文の中には「そう(=相・想)」と読む2種類の文字があるのですが、これの使い分けに自信が無いのです。どちらだったか迷っているということは、経文の理解についても文字の意味を忘れているということになります。こりゃあ、まずいぞ、と思いました。早い話ボケが始まったのではないかという驚きです。ハッキリしないのは数カ所だけだったのですが、でも、これは自分にとってはショッキングな発見でした。
認知症が始まったわけではないとは思うものの、記憶の脱落は物忘れ以上に危険な兆候ではないかと思っていますので、不断何の心配もなく唱えている経文の文字や文章が、いざ思い出そうとする時にこんな状態になっているとは、思いもかけぬことでした。そのことに気づいた後は、もはやMRI装置内の騒音も音楽も、殆ど耳に届かなくなりました。そんな騒音なんぞはどうでもいいことであって、とにかくこの検査が終わったら、家に帰って自分の頭の中をチエックする必要があると、それだけを考えることとなってしまいました。
検査が終わって、その結果データを元にした医師の説明を聴きました。パソコンの画面には、先ほどの騒音と一緒に作りだされた自分の右肘の断層写真が鮮明に映っていました。それによるとテニス肘(=上腕骨外側上顆炎)の方は見立て通りであり、未だ炎症が治まっていないとのことです。加えて肘が痛いのは、関節の中に炎症を起こしている部位があり、それが原因で僅かではあるけど水が溜まっているとのことでした。この後、これがひどくなった時には、針を入れて水を抜くという処置があるという話でしたが、そのような恐ろしいことは勘弁して貰いたいと思いました。幸いまだそれほど悪化しているわけではないので、しばらくは様子を見ながら今までと同じように、湿布薬を貼付することで対処して行くとのことです。結果的には今までと同じであり、ちょっぴり無駄だった様な気もしましたが、肘の状態をしっかり確認出来たことだけでも、安心の材料としては良かったと思います。
さて、問題なのは、般若心経の文字の記憶喪失の方です。これは医師に相談するような問題ではありません。自分自身の問題です。家に帰ったら全文をもう一度書き出してみようと思いました。で、早速家に戻り机に座って、書いてみました。すると慎重になればなるほど、思い出せない字が増えてくるのです。何度も経文を繰り返しながら、忘れた文字を思い起こそうとするのですが、やっぱり出てきません。そのようなことをしている内に、今度は経文の方まで順序がおかしくなりし出して、途中で思い出す作業は止めることにしました。その結果、諦めて経文の書かれた本を見ることとなった次第です。いやあ、この間の苦闘と言ったら、我がことながらそれはもう大変なものだったのです。
しかし、書かれた経文を見てみますと、何とまあ、簡単な文字ではありませんか。不思議なことに難しげな「耨(のく)」だとか「羯(ぎゃ)」などという字は忘れていないのに、「究(く)」とか「涅(ね)」などという字が出てこなかったのです。改めてお経の文字を見てみますと、「なあんだ、そうだったのか」ということばかりなのです。難しい入試問題などでも、解答を見ればなあんだと思えるものが結構ありますが、この経文については、問題を解くなどということではなく、ただ文字を思い出すというだけのことなのですから、こんな簡単なことは無いはずなのです。それが思い出せない。それ故にこの記憶喪失は恐ろしいなと思った次第です。
ものごとを忘れないようにするにはどうしたらいいのか?その答は簡単です。常に忘れないような状態を作っておけばいいのです。このことについては、私には一つの哲学があり、それをベースに方法論を考えることにしています。その哲学というのは、ものを覚えたり忘れないようにするためには、五感を最大限に活用するということです。五感というのは、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚を指しますが、例えば般若心経を覚えるのに、ただひたすらお坊さんの唱える言葉をなぞり、耳を通して記憶するよりも、書かれている経文を目で見、その文字を声を出して書きながらという風に、より多くの身体の感覚機能を加え使って覚えた方が、より確実に身につくと思うのです。私自身そのようにしてこの経文を覚えたのでした。
失われた文字の記憶を取り戻すためには、もう一度同じ方法で覚え直すしかありません。これは一々面倒くさいことですが、最初に覚えた時よりはずっと楽のように思います。ということで、失われた記憶の修復作業は、とにかくもう一度手本を見ながら、経文を一字ごとにノートに書き込み、声を出すようにして、復習を開始しました。そのためにスーパーの子どもの文具売り場に行き、ジャポニカ学習帳・こくごの8マスのノートを買ってきました。どうせやり直すのなら、漢字の書き方の練習を兼ね、ペン習字と毛筆とを交互に使い分けながら、書き取りを楽しんでやろうと思った次第です。
今のところ、このような楽しみに転換する気持ちが残っていますので、この程度の記憶喪失ならば、何とか修復可能ではないかと思っています。しばらくの間は毎日経文に触れ、墨の香りをかぎながら筆をとることにしています。万年筆では、どうしても右腕の肘の痛みがひどくなってしまいますので、筆の方が楽のようです。やがていつの日か、もっととんでもない大きな落とし穴に落ち込むことが無いよう、要注意だなと思いました。いやはや、とんだ老人の苦悩ぶりを愚痴に綴ってしまいました。