山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

白隠禅師坐禅和讃のことなど

2012-03-14 00:21:37 | 宵宵妄話

  先に般若心経のことを書きましたが、その後毎日繰り返して経文を読み書きしていますので、今ではどうやら原状に復したようです。この後はこれを継続してゆくことにしています。心経を唱えるについては、様々なチャンスがあり、先日のMRIの検査台の筒の中でもそうでしたが、そのような閉所の怖さの中だけではなく、もっと楽しい場面でも幾らでも活用が出来ます。只今は、ものを食べる時にこれを活用することにしています。よく噛んで食べることが大切と言われますが、早食いの癖がどうしても抜けず、あっという間に食事を終えてしまうというのを、糖尿病対応の食事の見直しをきっかけに、もう少し改善することにしました。

 その方法というのは、食べ物を口の中に入れたなら、それが無くなるまで、噛む回数に合わせてどこまで経文を唱えられるかをチエックするというやり方です。「観・自・在・菩・薩・行・深・般・若・波・羅・蜜・多・時・・・・・・」というように、1回噛む毎に1字ずつ経文を唱えるのです。これを噛み終えるまでにどこまで唱えられたかを繰り返し、少しでも多く唱えられるように、そして一字一字しっかりとイメージして、先に進んで行くのです。大体が「無・老・死・・」の辺りで終わることになります。即ち120回ほど噛んだことになります。このやり方では経文の全てを読み終えることは不可能ですから、時々唱えるのを開始する箇所を先に進めて変更するようにして取り組むことにしています。これがすっかり身につけば、全ての経文を呑み込むだけではなく、よく噛むということも身につき、まさに一石二鳥です。

 ところで、今日の話は、坐禅に係わるもう一つの称名である和讃についてです。和讃というのは、日本語で仏教の教えを讃えるために作られた韻を含んだ文章というか句というか、詩文のようなものです。幾つかある中で、私が覚えたのは白隠禅師の坐禅和讃でした。白隠禅師は江戸時代前期の臨済宗中興の祖と呼ばれた方ですが、この方の作られた坐禅和讃が最も有名ではないかと思っています。というのも私は他の和讃には興味関心がないものですから、知らないのです。

 その昔20代の終わり頃に禅に関心を持ち始め、坐禅を心がけるようになりました。座禅というと直ぐに悟りとか無念無想などということばがイメージされますが、私の場合はそのようなものではなく、健康法(特に精神的側面での)として有効ではないかと考えたからでした。坐禅が何故健康法なのかといえば、それは呼吸法が大きく影響しているように思います。座禅の呼吸法というのは、簡単に言うと腹式呼吸で、吸う息よりも吐く息の方により長い時間をかけるというやり方です。例えば吸うのが5秒なら、吐くのには10秒かけるという風にします。馴れてくると1呼吸に1分くらいかけられるようになります。深い呼吸に瞑想を加えて座るというのは、まさに調息・調身であり、それゆえに調心につながるというわけです。

 これだけでも健康に良いことに気づかれると思いますが、私の場合はある方から白隠禅師の軟蘇の法という話を聞いたのがきっかけでした。大変病弱であった白隠さんがその病を克服した方法というのが、「夜船閑話(やせんかんな)」に書かれている軟蘇の法という坐禅の仕方だったとのことです。「夜船閑話」というのは、白隠禅師の著書のタイトルで、坐禅の体験法というか、心身の健康を取り戻されるための方法論を述べられたものです。このことについて述べると長くなりますので止めますが、軟蘇の法についてちょっとだけ話します。

 軟蘇の法というのは、簡単にいえば、坐禅におけるイメージ法です。「蘇」というのは古代のチーズのことですが、私的にはバターに近いチーズのようなものと考えています。さて、その実際ですが、先ず坐禅の体勢を取ります。足を組み(=結跏趺坐)、手を組み(=法界定印)ます。そして臍下丹田(=臍の下10cm辺り)に意識を集中するようにして、背筋を伸ばして座ります。結跏趺坐が難しい場合は、半跏趺坐でも差支えなく、或いはそれも難しい場合は椅子に座ってでも良いのではないかと思います。このようにして体勢が整いましたら、呼吸を整えて瞑想に入るわけですが、この時自分の頭の上に「蘇」というものが載っていることをイメージします。深く、強くイメージするのです。そして、この「蘇」というものは、自分の心身の病の源となっているものの全てを、その中に汲みとって、体外に排出してくれる、そのような力があるものなのだとイメージするのです。頭の上に載せられた「蘇」は、ゆっくりと呼吸を続けている間に、最初は固かったものが次第に柔らかくなり、溶け出して、やがてそれがゆっくりと身体の心奥の上部から下部に向かって、その隅々まで溶け下りながら、体内心身の毒素を吸い取ってゆく、そのようにイメージするのです。1時間ほどかけて座っている間に、溶けた「蘇」はやがて身体から外に出てゆきます。そこで坐禅は終わるのです。イメージトレーニングそのものですが、呼吸法と併せたこの坐禅の力は素晴らしく、私は何度も自分の危機を救って頂いた感じがしています。

  なかなか本題に近づけませんが、ま、このような坐禅のやり方に興味関心を持てば、当然白隠という方について関心を抱くことになり、そして坐禅和讃にも触れるということになります。それで、般若心経の覚え忘れの事件から、こちらの和讃の方はどうかと気づいて、チエックしてみたのですが、いやはや、こちらの方の欠落は、もっと散々なものでした。心経の方はどうやら回復の兆しが見えていますが、和讚の方も何とか記憶を修復しようと、只今そのことに心がけているところです。俄か仏教徒になった感じですが、勿論偽坊主です。でも、せめて般若心経と坐禅和讃の二つくらいは、あの世に旅立つまでしっかり身につけておきたいものだと、改めてその意を強くしたのでした。

  私は白隠禅師の大ファンで、京都の禅文化研究所の発行する白隠禅師の法話全集というのを全巻取り揃えています。15冊ほどあって、各巻ともかなりのボリュームです。まだ全然読むに手を付けていません。その内にと思っていたら、早や古希を過ぎ70代も1年を経過してしまいました。もう今が読み時のような気がします。老をどう生きるかを、白隠様のお話を伺いながら、じっくりと考え、くるま旅の意義をもう一度考えても見たいと思っています。

MRIの検査を受けたことから始まった、とんでもない大きな刺激でした。検査結果は大したこともなかったのですが、これら大きな刺激を得たのは、実にありがたいことでした。これからは、くるま旅の間にも白隠様の著書を携行して、ボケ防止に努めて行きたいと考えています。真にとりとめもない話でした。

コメント
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