湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

皆さん、よいお年を!

2014-12-31 18:11:50 | Weblog
今年も、これで終わりです

皆さん、よいお年を!
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片山哲と吉田茂

2014-12-31 15:20:31 | Weblog
片山哲という政治家について知ると
吉田茂が急に小人物の俗物に見えてきます

同じく東京帝国大学法学部の出身ながら
吉田茂が華々しい外交官としての経歴を誇るのに対し
片山哲は市中に個人事務所を開いた一介の弁護士として
職業人としての人生を始めます

片山哲は、東大法学部を卒業しながら
官吏への道を選ばず、学者にもならず
大企業の幹部を目指して立身出世の道を歩むこともしませんでした
おそらく、どの道を選ぼうと、十分通用する資質を持ちながら・・・

片山哲は、弁護士をしながら痛感したはずです
どんなに個人的に努力しても
法律を変え、社会制度を変えない限り、労働者大衆は救われない・・・と
これが、片山哲が政治を志した理由だったはずです

戦前には社会大衆等をつくり
戦後には、日本社会党、民主社会党を作りました
片山哲は、常に日本における革新勢力のリーダーでした
しかし、政治的には不遇でした

片山哲の提唱する「挙国一致内閣」に
吉田茂が協力を拒否したのは
不安定な連立政権の短命を予想し、次を狙ったためです

日本のためを思えば
吉田はこの時、この政権に参加すべきでした

占領下の厳しい状況で
国民のためになる政策を通すには
選挙で選ばれた国会議員の大多数が支持する政策として
進駐軍に対し、これを提示する必要があったからです

吉田が片山に協力しなかった理由は他にもあります
首班指名選挙における420対1という屈辱的な大差です
プライドの高い吉田にとって、我慢ならないことだったはずです
吉田は、なにがなんでも、片山の下風にはつきたくなかったのです

吉田は、外交官経験によって得た英米形教養と英語力を武器に
進駐軍に取り入り、片山政権の足を引っ張るような嫌がらせをしました
思えばこれは、外圧、とりわけアメリカの意向を利用して内政を動かそうとする
戦後日本の悪しき政治形態の原型となるものです

吉田茂の個人的なひがみ根性が
その後の、日本の政治形態を卑しいものにしてしまったのです

そんな吉田や、進駐軍の妨害にもめげず
そして、不安定な連立政権にもかかわらず
片山哲は、たったの10ヶ月間で
戦後の国民生活を左右する重要法案を多数通してしまいました

恐るべき政治家です

片山哲は、たんなる法律の専門家ではなく
弁護士経験から、法律の実務にも精通していたため
どのような法律を作れば、国民の利益になるかを熟知していたのです

たった10ヶ月で政権を手放したのも
政権運営の困難さのために投げ出したのではなく
片山哲にしてみれば
やるべきことはやったという自負があったからでしょう
実際、今の政治家では、10年かけてもできない業績です

吉田茂は少年時代を藤沢市で過ごし
片山哲は中年以降を藤沢市民として過ごしました
二人とも、戦争中は軍部と敵対し、戦後に活躍した政治家です
藤沢市に縁のある、この二人の政治家は
ある意味で究極のライバル関係にあったのかもしれません

今は、国道一号線は戸塚の踏切を通ることがありません
上をバイパスが走っているからです
このバイパスのことを、私が子供の頃は”ワンマン道路”と呼びました
吉田”ワンマン首相”が鶴の一声で作らせた道路だからです
吉田茂は大磯に豪邸を構え
そこに帰る途中の戸塚の踏切で待たされるのが我慢ならなかったからです

政治家の鶴の一声で、道路や橋ができる
これまた、戦後政治の原型となる”業績”です

片山哲は、戦後ずっと、亡くなるまで藤沢市民でした
藤沢市内には”片山道路”も”片山橋”も”片山トンネル”もありません
片山哲が藤沢市のために国家予算を引っ張ってきた
・・・などという話は聞いたことがありません

片山哲は選挙に弱い政治家でした
首相経験者で選挙に2度も落選したのは
片山哲以外にはいません

もし
国家予算の恩恵を受けられないことで、藤沢市がさびれていたとしたら
片山哲は、地元選出の国会議員として責任を問われたかもしれません

現実の藤沢市は豊かな自治体であり
市民は、国家予算などには頼らぬ、気負いの無い自立心を持っています
そんな明るい市民気質が、多くの人を藤沢市に引き寄せているのでしょう

昭和44年10月1日
片山哲は、藤沢市名誉市民第1号として顕彰されました


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片山哲という政治家

2014-12-30 12:43:23 | Weblog
私は、たまたま、父の友人の父親ということで
政治家片山哲について調べてみました

私は、片山哲について
戦後間もなく、短期間、総理大臣をやった政治家であることは知っていました
そして、正直なところ、大した政治家ではないと思っていました

ところが、ちょっと調べただけで
実は、とてつもなく偉大な政治家だったのではないか?
と思うようになりました

片山内閣は10ヶ月程度の短命内閣です
保革同居の寄り合い所帯で、分裂し、政策を通すことが難しかったからです
しかも、占領下であったため
連合国総司令部からの指示を拒否することができませんでした

片山内閣は

「くず哲」

とまで評されてしまいました

しかし、その片山内閣は
公務員を公僕とさだめた「国家公務員法」や
「労働組合法」、「健康保険法」などを制定し
労働省、各種公社、公団を設立したのです

その他にも、戦後日本の政治制度の骨格となるような制度を作り上げました
特に、戦後日本人の生活に直結した社会制度の基礎を作り上げてしまったのです

戦後の日本の政治は、吉田茂の路線が主流となりました
アメリカの意を受け、それを隠蔽しつつ、政策とする
自衛隊から、最近の消費税増税に至るまで・・・全てこれです

片山内閣以降、数十年間、日本では社会主義政権は存在していません
もし、片山内閣の10ヶ月が無ければ
日本には健康保険制度すら存在しなかったかもしれないのです

アメリカには、健康保険制度は存在しません
クリントンやオバマなど、民主党政権は
何度も、これの実現を試みましたが、いまだ実現していないのです

片山内閣は、新憲法の下、最初の衆議院選挙で成立しました
首班指名選挙での獲得票は

片山哲420票、吉田茂1票、齋藤晃1票

というものでした
2位に419票差を付けた首班指名選挙の結果は
未だ破られない記録だそうです

片山哲は、吉田茂率いる自由党も含め
共産党を除く挙国一致内閣をめざしていました
ところが吉田茂がこれに協力せず、大臣の任命もままなりませんでした

そこで、なんと!
片山哲は、すべての閣僚を自分が兼務する

「一人内閣」

として、政権をスタートしたのです

恐るべき男です

片山哲は、戦前には軍部の暴走を批判し
戦後は、アメリカのいいなりにはならず
一方で、共産主義とも敵対しました
いつも、日本人の、とりわけ労働者大衆の立場に立ち
偏狭な国粋主義者ではなく
世界連邦の理想を実現しようとしたキリスト教徒でした

私は、機会をつくり
片山哲のことを、もっと調べ
この偉大な政治家の評伝を書いてみたいと思いました
思想信条としては、私は彼に共感できない部分もありますが
理想を実現するために生きた、その生涯は
”偉大な男の人生”と評価すべきものだと思うからです
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片山哲の息子・・・父の記憶

2014-12-29 15:43:00 | Weblog
父の湘南中学時代の仲の良い同級生に
片山民夫という生徒がいました

机は隣同士、武道の選択は柔道で同じ
勉強も柔道も一緒にやり、そして・・・叱られるのも一緒でした

ある時、片山君と二人、廊下に立たされていました
そこを校長先生が通りかかり
校長は父に聞きました

「君の父親は何をしている?」

父は答えました

「農業をしています」

校長はフムと頷いただけで、同じ質問を片山君にしました

「政治家の片山哲です」

片山君の返答を聞いた瞬間、校長は直立不動となり

「カ・・カ・・カタヤマ テツ センセイ カ?」

と聞いてきたそうです

自分達が叱られているのに
まるで校長が叱られているように見え
父は”片山の親父はそんなに偉いのか?”と思ったそうです

片山君は政治家片山哲の息子だったのです
父は、片山君の家に行ったことはないそうですが
伝え聞くところでは、とても質素な生活をしているとのことで
そんな大物政治家の息子とは思わなかったようです

父は中学卒業後、日大農学部予科に進みます
片山君も同じでした
当時の日大農学部は、4年間の徴兵猶予があったため
大変な競争率だったそうです

日大に進学しても、授業はありませんでした
学生は”動員”され、父は厚木飛行場で働かされていました

天皇陛下の終戦の詔勅、いわゆる”玉音放送”を
父は、日大の超短波ラジオで聴いたため
鮮明な音で、意味もよく理解できたということです

父は終戦と同時に大学をやめました

戦後に、片山君に会った時には

「親父を頼むよ」

と、言われたそうです

ちょうど選挙の最中で
片山君からは父親の選挙応援をたのまれたわけです

「そしたらいきなり総理大臣だもんな、驚いたよ」

この時の選挙で、日本社会党は第一党となり
民主党、国民協同党などと連立を組み
党首片山哲は、首班指名をうけ、内閣総理大臣となったのでした

戦後のクラス会で会った時
片山君はアメリカに留学すると話していました
それきり、音信は途絶え、クラス会などにも出てこないため
彼がその後どうしているのか、まったく分からないということです



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栗林中将・・・父の記憶

2014-12-28 10:38:27 | Weblog
硫黄島玉砕の栗林中将の話は
何年か前、クリント・イーストウッド監督により映画化されました
渡辺謙が主演でした

父は本物の栗林中将を見たことがあるそうです

「栗林中将はフォードに乗って湘南にやってきた」

ここで”湘南”というのは”湘南中学”のことです
現在の湘南高校です
父が旧制の湘南中学の生徒だった時に
栗林中将は湘南中学を愛車フォードに乗って訪問したのです

そのクルマはオープンカーでした
当時の父は自動車の名前など知らなかったのですが
誰かがフォードだと教えてくれたのだそうです

「立派な軍人だった」

それだけが、父の栗林中将の印象です

ただし、父は軍人一般には、あまり良い印象を持っていませんでした
当時の中学校には配属将校というのがいて
やたらと威張っていたからです

学校でも軍事教練が行われていて
ある時、父は行軍訓練の時に、銃を落としてしまいました
ちょうど階段の途中だったため
銃をすぐに拾い上げることができず、階段の下まで落ちてしまったのです
そして、嫌というほど、配属将校に殴られてしまいました

その時、父は

「絶対、軍人にはなるまいと思った」

ということです

この時の配属将校は、栗林中将に気に入られ
一緒に硫黄島に行き、玉砕したそうです
父は、ざまあ見ろという感じで、その話をしました

ただし、父は行軍訓練そのものは得意だったらしく
「県下中学生行軍大会」というのに出場し、優勝したそうです
その実績があるため、父には
軍人になれば将校になる道が用意されていた・・・ということです

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昭和3年生まれの父・・・父の記憶

2014-12-27 10:31:00 | Weblog
私の父は昭和3年生まれです
現在、満85歳です

父が旧制中学に入学した年に真珠湾攻撃があり
5年制の旧制中学を4年で繰り上げ卒業した年に
天皇陛下の終戦の詔勅があって、戦争が終わりました

父の学生時代は戦争とぴったり重なります
旧制中学でも、ちゃんと勉強できたのは最初の2年間だけであり
その後は学徒動員といって、工場で働かされていました

平塚の工場で、イペリットガス弾やガスマスクを作っていたそうです
ただし、ガスマスクは空気が漏れてしまうもので
実際には役立たずの代物だったようです・・・

そうした生活の中で、父は赤痢に罹り、隔離病棟に移されました
以前、平塚に火葬場があり、親戚の葬儀でそこに行った時

「俺が戦争中隔離されていたのはここだな」

と、父がつぶやいていたのを私は憶えています

父の青春は、ある意味で悲惨なものだったのです
しかしながら、当時の父の話は、なかなか興味深いものがあります
先日の皇后陛下にまつわるエピソードもそうですが
戦中戦後の混乱期には、それなりの人間ドラマがあったのです








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父の記憶

2014-12-26 18:55:29 | Weblog
先日、父の思い出話を書きました
皇后陛下が少女時代の一時期、藤沢市に住んでいた話です
85歳の父の思い出話は、それなりに貴重だと思います
そこで、今後、そうした話をこのブログにも登場させようと思っています
できれば、関連するコメントなどいただけると楽しいです

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ハッピークリスマス!!

2014-12-25 19:01:41 | Weblog
今日はクリスマスです
皆さん、いかがお過ごしですか?

私はクリスマスには冷淡です
仏教徒ですし、日本人だからです

でも、クリスマスの習慣は
特にサンタクロースのことは
西洋でも、近代の流行らしいですね

クリスマスは、宗教にかかわらず
人類が共通して楽しめるお祭りなのかもしれません

そう考えれば
キリスト教徒でないからといって
クリスマスに背を向けることもないわけです

世間に合わせて

”ハッピークリスマス!!”

と、お祝いしましょう
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年末の忙しさ

2014-12-24 17:49:02 | Weblog
日々の雑務の中で
自分を見失いそうになります
これが私の弱点であることは、自分で承知しています

忙しさは
読んで字のごとく、心を失うことでもあるのです
そして、だからこそ
人は忙しさに身を任せてしまうことがあるのです

忙しさを理由に、家族を顧みない
忙しさを理由に不義理をする
忙しさを理由にミスの言い訳をする

人が忙しさに身を任せるのは
そのことの中に、ある種の快楽が潜むからです
ものを深く考えなくて済む状況は、人間にとって快楽なのです

アルコールや薬物に溺れるのも
スピードやスリル、時に恐怖を求めるのも
その瞬間、人は考えることから解放されるからです

考え続けることは、時に、苦悩と同義語です

私は、自分が忙しいと感じる時
それを理由に不義理やミスをしていないか
自分自身を省みることにしています
凡夫は凡夫なりに、自分の欠点を意識しているのです
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皇后陛下が藤沢に疎開していた話・・・父の記憶

2014-12-23 15:04:19 | Weblog
今日は天皇誕生日です
天皇陛下は81歳になられました
すでに日本人男性の平均寿命を上回られました

幾たびか病を克服され、国民への深い思いを片時も忘れず
今尚、日々、ご公務に励まれる姿に
深い尊敬の念を抱いております

天皇陛下の御健康と御長寿を心よりお喜び申し上げます

昼食時、陛下のことが話題にのぼると
突然、父が語り始めた話を
ここに、覚え書き代わりに書き留めておこうと思います

戦後間もない混乱期、食糧難の時代です
農家である我が家には、食料の買い出しに来る人々がおり
祖母は、お腹を空かせて買い出しに来る人に
食事をふるまったりする人だったので
いろいろな人が我が家に来たそうです

そんな中で、ある日、とても上品な婦人が我が家に訪ねてきました
聞けば、江ノ電の鵠沼駅の近くに住んでいるということでした
親戚があったこともあり、父はその辺りに土地勘がありました

「わざわざ買い出しに来るのは大変でしょうから、私がお届けします」

父は、そう提案し、5回ほど、そのお宅に行ったことがあるそうです
その家の主人は父に名刺を渡しました
その肩書きは、父の記憶によれば

「日清製粉総務部長 涌井秀馬」

というものでした

父が特に印象に残ったのは
そんな立派な肩書きを持つ大変上品なご夫婦でありながら
野菜運びの少年に過ぎぬ父を、見下すような態度は一切無かったことでした

この時は、ご夫婦二人だけで暮らしていました
父は夫人から直接聞いた話を、なぜかいつまでも憶えていました

「戦争中の一時期、この家で正田家のお嬢さんを預かっていたことがあります」

現、皇后陛下、正田美智子さんのことです
皇太子妃として全国的に有名になる、ずっと以前の話です
皇后陛下は、戦争中の一時期、藤沢市内に疎開していたことがあったのです

その家は、あまり大きくなかったといいますから
正田家の別荘だったのかもしれません

父はよく

「美智子さんは戦争中、鵠沼に疎開していたことがある」

と話していました

その根拠が、このエピソードだったのです

当時の父は、日清製粉が大きな会社であることは知っていましたが
正田美智子さんが皇太子妃候補として有名になる前でしたので
「日清製粉」や「正田家」という言葉に特別な感情は抱かなかったそうです










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