湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

あの日の朝、日本が変わった・・・歴史の考察

2016-06-30 10:37:05 | Weblog
「ゾウについて語るようだ」

それが、私の「本能寺の変」への思いです

あまりに大きく、重く、特異だからです

ゾウは、他の哺乳動物とは似ていません
長い鼻、大きな牙、大きな耳、丸太のような脚・・・
そして・・・大きな体と体重です

「本能寺の変」も
歴史的な重みと大きさはもとより
その展開の不可解さと、怪しさ、何処までも残る、謎の部分・・・
特異な部分が多すぎると思われます

とにかく、その歴史的意味は重大です
天正10年6月2日、突然、織田信長は消えてしまい
当然ながら、信長によって始まるはずの天下統一と長期政権は
幻になってしまいました

あの1日
否、あの日の朝の数時間が無ければ
日本の歴史は、まるで違ったものになっていたでしょう
せいぜい数千人の、市街地での小規模な戦闘が
その後の歴史を大きく変えてしまったのです

その結果として
豊臣秀吉、そして徳川家康が日本のリーダーとなり
キリスト教とヨーロッパのカトリック勢力は
日本国内での足場を失いました

やがて戦国の世は終わり、長い太平の世が始まりました
それは、信長自身も望んだことでもあります
信長が生存していれば、彼の手で、もっと早く実現したかもしれません
ただし、歴史の展開は、まったく違うものになったことでしょう
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宗教戦争だった「本能寺の変」・・・歴史の考察

2016-06-29 11:16:39 | Weblog
「本能寺の変」とは何であったか?

私の結論は、日本における”宗教戦争”です
日本の伝統宗教と、外来のキリスト教との戦いです
普通、宗教戦争と言えば、長く悲惨な戦いが続くものなのですが
事変の展開は、素早く、そして皮肉な結果となりました

キリスト教の最大の擁護者である織田信長が
そのナンバーツーであり
キリスト教に好意的であった明智光秀に討たれ
その明智光秀も
洗礼を受けたキリシタンである高山右近に致命傷を与えられたのです

戦国時代日本のキリシタンは
いわば、同士討ちによって、亡びたのでした
日本の伝統宗教関係者には、まことに痛快な展開でした
これがすべて吉田兼見や近衛前久の陰謀の成果とは思えません
偶然に助けられた幸運であったと思われます

特に、高山右近の行動は
「本能寺の変」の、その後の展開に、決定的な影響を及ぼしました
もし、高山右近が明智光秀に従ったならば
「中国大返し」で、やっとの思いで山崎までたどり着いた羽柴秀吉は
疲れ切っており、決定的な敗北を喫したでしょう
そうなれば、明智光秀との立場は正反対になっていたのです

高山右近に明智光秀を討てと命じた
宣教師オルガンティーノは、結果として
日本におけるイエズス会とキリスト教の衰退のきっかけを作りました

彼の命令により、高山右近が明智光秀を討ったため
羽柴秀吉は天下をとれました
その秀吉が、やがて「バテレン禁止令」を発するわけです

そして、秀吉の死後
天下を引き継いだ徳川家康は、秀吉のキリスト教禁教策を引き継ぎ
そればかりか、さらに
カトリック諸国との外交関係まで断ってしまいました

どう解釈すればいいのでしょう?
キリスト教の擁護者であった織田信長が倒されて
その一番弟子とも言うべき羽柴秀吉
さらに、徳川家康が、日本の指導者になったにもかかわらす・・・
信長の後継者である、この二人は
なぜ、キリスト教政策だけは師匠とは正反対の立場をとったのか?

結果として「本能寺の変」は
日本における宗教戦争という性格を持ち
しかも、ただ一度の小規模な戦闘で、その帰趨が決まってしまいました
日本の伝統宗教は勝ち、キリスト教は敗退したのでした

戦国時代における日本へのキリスト教布教は
「本能寺の変」から急激に衰退の道を歩み始め、事実上、消滅します
最後のとどめは「天草の乱」でした

西洋による日本植民地化計画も、同時に挫折しました
日本は独立を保ち、太平の世を開き、300年の平和を実現しました
その間、明治になるまで、キリスト教は許されませんでした

昭和の戦争で負け、独立を失い
占領軍による大々的なキリスト教布教がありましたが
やはり、日本人の多くは、キリスト教を受け入れていません・・・


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黒幕としての羽柴秀吉・・・歴史の考察

2016-06-28 18:30:11 | Weblog
推理小説で、真犯人を推理する場合
事件の結果、誰が得をしたかと考えます

「本能寺の変」の結果、一番得をしたのは羽柴秀吉(豊臣秀吉)です
徳川家康も、結果としては得をしたわけですが・・・
そう考えると

「本能寺の変」の黒幕は羽柴秀吉です
そして、徳川家康は、共犯者ということになるかもしれません

秀吉は、吉田兼見を使って明智光秀を動かし
その後、自分が権力を簒奪するストーリーを描いていました
それが図に当たったのです
本人が想像した以上に、上手くいったのです

吉田兼見には、吉田兼見なりの事情があり
近衛前久にも、信長を倒したい事情はありました
最初は、この二人が信長暗殺計画を策謀したのです
近衛前久は、明智光秀を抱き込み、全面協力しましたが
秀吉との連携が無かったため、一旦、逃亡せざるを得ませんでした

細川藤孝にも、彼の考えがありました
秀吉とは事前の打ち合わせがしてありました
藤孝は、中立の立場をとり、動かず、結果として秀吉に協力しました

高山右近ら摂津衆は
はじめから積極的に秀吉に協力しました
明らかに、事前に、秀吉の根回しがあったためと考えられます

徳川家康と羽柴秀吉は、これまた
明智光秀の動向を事前に察知し、情報交換をしていました
連絡係として、秀吉側近杉原家次が家康一行に同行していました

この状況は、野球にたとえると分かりやすいです
彼らは塁上の走者のように
投手・明智光秀の一挙手一投足に注目し
走るべきか、塁に戻るべきか
適度なリードを保ちつつ、タイミングを見計らっていたのです

明智光秀が動くや、羽柴秀吉は京都へ走り
山崎で、光秀を打ち負かしました
徳川家康は、岡崎に走り帰り、甲斐に侵攻しました

秀吉は、あっという間に織田家を乗っ取ってしまいました
織田家臣団のうち、柴田勝家、滝川一益以外は
ほとんど全て、秀吉についてしまいました
よほど綿密な事前の根回しがされていたのでしょう・・・

そう言えば
備中松山城で和睦した毛利勢は
一切戦闘をせずに和睦して、無傷でした
慌てて京都に向かう秀吉を、なぜ追撃しなかったのでしょう?
豊臣政権において毛利勢が要職を占めた理由は、ここにありそうです
彼らもまた、秀吉と通じていたのです

秀吉が天下を取れた最大の要素が「中国大返し」です
これが成功した最大の要因は
杉原家次の素早い報告と、高山右近の明智光秀攻撃です
しかし、その後の二人の運命は・・・
杉原家次は、出世に見放され、狂死したことになっています
実際には、秀吉の侍医により薬殺されたようです
高山右近は、キリシタンであることを理由に、国外追放されました
真実を知る者の運命は、かくも過酷です

事変収束後すぐに、秀吉は

「惟任退治記」

なるものを書かせました
惟任とは、明智光秀のことです
この書で秀吉は

”怨恨による明智光秀単独犯行説”

を流布させます・・・というよりも、これに反する言説を禁止します

それに従い
細川藤孝(細川幽齋)は光秀からの手紙を破棄し
吉田兼見は、2種類の日記を書き直し
信長の黒人小姓、弥助は秀吉に消されました
歴史の真実は、永遠に、闇に葬られたのでした・・・
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織田家を乗っ取った羽柴秀吉・・・歴史の考察

2016-06-27 14:11:39 | Weblog
「本能寺の変を」を様々な側面から考え続けています

歴史的意味は極めて重大です
しかし、事変そのものの持つミステリアスな性格も
当方の探究心を刺激する謎です

一番不可解なことは
羽柴秀吉が10日間もかけて
備中松山城から京都まで攻め上ってくる間
誰も、京都の明智光秀を討とうとしなかったことです

信長直属の軍団は何をしていたのでしょう?
信長の長男信忠は、信長と同日、二条御所で自害してしまいましたが
彼は、せいぜい500程度の軍勢を率いていただけです
他の家臣団はどこにいたのでしょう?

そればかりではありません
信長の次男信雄は何をしていたのでしょう?
三男信孝は四国攻めの総大将として
大阪湾に軍船を集結し、すぐにでも進発できる体制のはずでした
彼は、なにをもたもたしていたのでしょう?

私の手元には、そうした謎を解明する資料はありません

はっきり言えることは
羽柴秀吉が織田家の主導権を握って以来
織田家の家臣団は、柴田勝家や滝川一益ら一部を除いて
すべて羽柴秀吉の傘下に入ったということです
羽柴秀吉は、織田信長の強大な権力を
そっくり受け継いでしまったのです

「本能寺の変」と、変後の帰趨は
明智光秀の事前の根回しは、ことごとく裏切られ、失敗し
羽柴秀吉が、秘密裏に行っていた事前の根回しは
どれもこれも、驚くほど上首尾であり
織田家に臣従する者のほとんどは
羽柴秀吉に臣従してしまったということです

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人心掌握が政権奪取の決め手・・・歴史の考察

2016-06-26 09:59:46 | Weblog
明智光秀は、幕府の役人でしたが
信長と将軍の関係が悪くなると
将軍・足利義昭に見切りを付け、織田信長に臣従します

そして、信長とともにやったことが

「比叡山焼き討ち」

です

その後、信長と光秀は、石山本願寺攻めもしています
仏教関係者には、両者とも、許しがたい人物です

そればかりではありあせん
すでに、足利義昭の元で幕府の役人をしている時に
東寺の寺社領を横領したと、訴えらています

さらに言えば
光秀の築いた福知山城は墓石が石垣に使われています
明智光秀もまた、信長とともに
宗教関係者、そして京都に嫌われた者でした

明智光秀の行動をみていますと
自分に人望が無いということに無自覚です
ナンバーツータイプの人間によく見られる性格です
豊臣秀吉の家臣、石田三成も、このタイプでした・・・

サラリーマンにもいます
有力者の腰巾着になって、それなりの権勢を振るうのですが
周囲からは嫌われていて
やがて、その有力者がいなくなると
誰からも相手にされなくなるというタイプです

私が明智光秀の性格を問題にするのは
本能寺の変の帰趨は、つまるところ
明智光秀と羽柴秀吉の性格の違いによって決まったと考えるからです

明智光秀が政権を取れなかったのも
羽柴秀吉が政権を取れたのも
彼らの性格が決定的な要素であった考えられます
羽柴秀吉は人心をつかみ、明智光秀は、それができなかったのです
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人の心が分からない明智光秀・・・歴史の考察

2016-06-25 16:29:37 | Weblog
明智光秀という人物を、どのように解釈すべきでしょうか?

明智光秀は、戦も上手なら、朝廷の儀式にも通じ
何事も段取りよくこなし
織田信長からは、最大の評価を得た武将でした

学者達は明智光秀を”近畿管領”と呼んでいいといいます
そのような名称の役職はありませんが
滝川一益を”関東管領”と呼ぶなら
明智光秀は”近畿管領”と呼ぶに相応しい地位だからです
近畿地方の大名達は、組下や与力と呼ばれ
明智光秀の指揮下に入るとされていたからです

光秀の弱点は、人の気持ちを読めなかったことです

本能寺の変で信長を討つことに成功したにもかかわらず
細川藤孝・忠興父子の支持は得られませんでした
いくら待っても、筒井順慶は、結局、現れませんでした
摂津衆は、高山右近をはじめ、全てが敵に回りました
光秀に従った者は、公家の吉田兼見や近衛前久だけでした
しかし、公家というのは、その時点での有力者になびく者です・・・

そればかりではありません
イエズス会の宣教師オルガンティーノは
明智光秀の家臣に助けられたにもかかわらず
光秀を討つように、高山右近に命じています

光秀がキリスト教に好意的であったことは
細川忠興に嫁いだ娘の玉が、やがてキリスト教に帰依し

”細川ガラシャ”

となったことでもあきらかです

それでも、明智光秀は、イエズス会関係者にまで裏切られたのです

足軽だった明智光秀を足利義昭の家臣として
幕府の役人としての立身出世の道にのせたのは細川藤孝です
その藤孝を与力として、自分の目下に置き
しかも息子の細川忠興に娘を娶らせるという行為を
それが織田信長の意向であったとして
明智光秀は、何も感じていなかったのでしょうか?

明智光秀には、細川藤孝の気持ちを忖度した気配がありません
自分のやることには、当然、ついて来ると思っていたようです
実際には、細川藤孝は、光秀からの協力要請を拒否します
その間のやりとりの証拠となる手紙類は、すべて破却しています
現在残っている細川家文書の信用度は
研究者からは、疑問符をつけられています

優秀なはずの明智光秀は
なぜか、人の心をとみ間違えてしまう人間でした



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明智光秀を動かした”甘いささやき”・・・歴史の考察

2016-06-24 17:43:17 | Weblog
吉田兼見は、公家であり、朝廷の武家伝奏であり
そして「吉田神道」の宗主でもありました
「暦」は、自身の権威にもかかわる深刻な問題です
もはや信長を消すしか、解決策は無さそうです

そこで兼見は
明智光秀を利用することを考えます
織田信長との将来に不安を抱く明智光秀の前に
光秀が飛びつく獲物をぶら下げたのです

信長を討ってほしい
そうすれば、ただちに
朝廷が「征夷大将軍」の宣下をする
日本全国に号令し、天下の静謐を取り戻して欲しい
貴殿にしか、それはできない・・・

吉田兼見の甘いささやきに、光秀の心は動きます
自分を、いずれ切り捨てる気でいる信長に
まして自分を足蹴にするような男に、これ以上ついて行く気は無い
必ず倒すつもりでチャンスを狙っていた
しかし、信長を倒しても、その後の展開が読めなかった・・・

それがついに、なんと!
自分が天下人になるチャンスが巡ってきたのだ
光秀の心は、浮き立ちます

もともと
織田信長の本拠地でる尾張一帯は土岐一族の所領でした
土岐一族の血脈である明智光秀には
信長を倒し尾張の支配者になることに特別な意味がありました
さらに、征夷大将軍にもなれるのです
天皇から将軍宣下を受けるのです!

細川藤孝の足軽であった明智光秀は
藤孝が信長の支持を得て足利義昭を将軍に擁立した時
藤孝が義昭に提供した家臣でした
そこから、光秀は、信長の知遇を得たのですが
やがて信長と義昭の関係が悪くなると
義昭を捨て、信長に仕え、立身出世の道を突き進んだのです

明智光秀は”近畿管領”とも呼ぶべき実力者となりました
織田信長の威光によるものとはいえ
かつての主君・細川藤孝をはじめ、近畿一帯の大名達は
与力や組下となって、光秀の指揮下に入ったのです
今となっては、足利義昭などより自分の方が
はるかに、将軍職が似合っていると考えたことでしょう


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朝廷の権威を否定した信長・・・歴史の考察

2016-06-23 15:47:26 | Weblog
天正10年3月、武田氏を亡ぼすと
もう、織田信長には怖いものはありませんでした
信長の根拠地を直接脅かす勢力は
日本国内には存在しなくなったのです

越後の上杉、小田原の北条、中国の毛利・・・
いずれも遠国の大名であり
強大になった織田軍団に、攻勢をかける力はありません
彼らを屈服させるのは、時間の問題でした

織田信長は、朝廷に対し傲慢な要求を突きつけます

「三職推任」

太政大臣、関白、征夷大将軍
この三つの地位のすべての推薦状を出せ
好きな地位を俺が選ぶ・・・というわけです

朝廷にとってみれば、耐えがたい屈辱です
近衛前久にとっては、信長に太政大臣の地位を与えるためには
自分が、その地位を辞任する必要さえありました
さらに、信長は天皇後継問題にまで、口を挟むようになりました

もはや、朝廷にとって我慢の限界でした
しかも、さらに切実な問題が発生したのです

「暦」

をどうするかです

織田信長が領国の尾張で使っていたのは「三島暦」でした
三嶋大社が発行しているもので、源頼朝より発行を命じられた木版の暦です
三島暦という言葉には、木版の暦という意味もあるほどで
それだけ広く普及した暦だったのです

旧暦では
29日の小の月と30日の大の月が交互に続き
12ヶ月が354日になります
月の満ち欠けは、だいたい29、5日周期ですから
月を基準に暦を作ると、こうなるのです

このままにしておきますと、月がだんだんずれて
正月が夏になったり、8月が真冬になったりしてしまいます
そこで約3年に1回”閏月”を入れ、調整するのです
閏月を何処に入れるのかは、天体観測によって決めるため
計算や文書による明確な基準がありませんでした

朝廷の暦の”天正11年1月”は
織田信長の使う三島暦では”天正10年閏12月”となっていたのです
信長は、朝廷にも、この暦を使わせようとしました
「暦」は朝廷の権威の最後の拠り所です
これを否定されては、もはや朝廷の権威の消滅です

これが別の月ならまだしも
1月と12月の違いでは、年度も変わってしまいますし
それよりなにより、朝廷は
半年先の正月の行事の予定も立てられなくなってしまったのです
これは実に切実な問題でした・・・





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京都に殺された信長・・・歴史の考察

2016-06-22 12:46:19 | Weblog
織田信長は
日本における最大のキリスト教庇護者でした
事実上のキリシタン大名でした
織田信長自身は、キリスト教徒ではありませんが
彼は、大量の鉄砲と弾薬を維持するため
キリシタン擁護政策をとったのです
そして、比叡山焼き討ちや石山本願寺攻撃を仕掛けたのです
やっていることは、キリシタン大名そのものでした

京都の人々
仏教・神道関係者
そして、その頂点に位置する天皇と朝廷にとって
織田信長は、好ましからざる人物の最たる者でした
誰もが、彼の滅亡を望み、彼の死を祝福したのでした

おそらく
最初に信長暗殺を考えたのは、京都の人々でした
その代表が。吉田兼見や近衛前久だったのです
彼らは、信長に服従するふりをしながら
密かに、信長暗殺のチャンスを狙っていたのです

京都で
神官や公家が、織田信長の所行を苦々しく耐えていた頃
織田家内部からの不協和音が聞こえてきました
織田信長を支えた有力武将達が
将来に不安を持つようになっていたのです

苦悶する京都の人々にとって
京都と関係の深かった明智光秀は
信長暗殺計画を実行する上で
抱き込むべき、最も身近な存在でした
光秀を抱き込み、彼らは、信長暗殺を実現したのです

日本における伝統宗教とキリスト教の対立
これこそが、本能寺の変の要因であり、本質でした
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キリシタン大名・・・歴史の考察

2016-06-21 16:19:09 | Weblog
織田信長は、足利義昭の後援者として
彼を将軍職に就けてから、事実上の、京都の支配者になりました

そして、そこで信長のしたことの中に
京都におけるイエズス会のキリスト教布教の許可があります
京都には教会も建てられました
京都は、日本におけるキリスト教布教の中心の一つとなったのです
イエズス会側から見れば、織田信長こそ
日本におけるキリスト教布教の最大の擁護者になったのです

このことは、日本の伝統的宗教関係者
仏教や神道、そして天皇と朝廷にとっては、由々しき事態でした
彼らは、イエズス会とキリスト教宣教師達が
日本で何をしているのかを知っていました

九州においては
イエズス会から援助されたキリシタン大名達が有力となり
仏教徒を迫害し、寺社を破壊し
キリスト教に改宗しない者達を殺したり
奴隷にして、外国にに売り飛ばしたりしていました
東南アジアでは、そうして売られてきた日本の娘達は
裸のまま、檻に入れられ、商品として並べられていたのでした
当時の日本人の感性では、正視できない光景でした

キリシタン大名達は、火薬の原料である硝石を買うため
日本の若い娘を奴隷として売っていたのです
自動車も半導体も無い時代、輸出品は人間しかありませんでした
イエズス会の宣教師が日本に渡ってきた時代は
世界は、植民地化と、奴隷貿易の時代でした
日本もまた、例外ではなかったのです

当時、銃は日本で国産できました
日本製の銃の性能は、ポルトガル銃よりも優れていました
しかし、日本には火薬の原料となる硝石が無かったのです
キリシタン大名達は、日本人を売って硝石を買い
その火力によって、権力を手にし
神社仏閣を破壊し、日本の伝統的宗教を弾圧したのでした

キリシタン大名といっても
キリスト教に帰依した者と言うよりも
イエズス会から武器や資金の援助を受けた者達と言うべきでした
それは、現代の世界で、共産ゲリラと呼ばれる連中が
カラシニコフを持っていても
マルクスやレーニンを読んでいるかどうかが
問題にならないように・・・

京都の仏教・神道関係者は
イエズス会やキリシタン大名達の所行を
十分承知していました
彼らにとって、信長は、事実上キリシタン大名でした
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