湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

結婚する理由

2007-06-30 11:20:06 | Weblog
先日、結婚を躊躇する若い知人と、話し込んでしまいました
若いといっても、結婚に不足の無い年齢ですし、長い付き合いの彼女もいます
どうも、結婚への決定的な動機付けが見出せないようなので
私は彼に結婚の目的は何だと思うか、聞いてみました

彼の答えは、一言で言えば、老後の不安でした
年をとって、ひとりぼっちではさびしい・・・というのが
彼にとっての結婚の理由でした
つまりこれは、彼が結婚をしない理由なのです
彼はまだ、老後を心配する年齢ではないからです

私は彼に、彼の結婚観は間違いであると指摘しました
結婚とは何かということの、私の答えは、子供を作ることです
子作り、子育てこそが結婚の目的なのです

なぜなら、気の合う男女が、いっしょに暮らすだけなら
結婚という制度は必要無いからです
さびしいだけなら、いっしょに暮らせばいいだけで
なにも役所に登録する必要など無いではありませんか

男女がいっしょに暮らせば、子供が出来る可能性があります
この可能性こそが、結婚という制度が
人間社会に存在する最大の理由なのです

生まれた子供は両親とは別人格であり
日本人の赤ちゃんは、生まれた瞬間、日本国民としての権利が与えられます
生まれた子供は日本国民であり、親の自由にはなりません
両親には養育義務が発生します、子供を育てることは親の義務なのです

同じく、子供を育てることは親の権利でもあります
これが養育権です
親であることを認められなければ、子供を育てることは出来ません
そのためにも、結婚制度がなければなりません
特に父親の場合、親であることを証明するのは簡単ではありません

人が我が子を産み育てるという、当たり前のことが
正々堂々と行えるために
国家は結婚という制度を整えているのです

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忘れてはならないものー中村屋のインドカリー36

2007-06-29 16:03:01 | Weblog
R・B・ボースと中村屋のインドカリーに関するお話は
これで一旦終わることとします

まだまだ書きたいことは沢山あります
しかし勉強しなければならないことも沢山あるので
この辺で一息入れようと思います

インド独立に関する部分は、また別の角度から語りたい話もあります

今回あらためて思ったのは、戦前の日本人の
インドという国とインド人への深い同情です
これなくして、インド国民軍は成立しなかったし
そうなればインド独立も、あのような形では実現しなかったでしょう

日本人の親インド感情を形成するのに
中村屋のボースとインドカリーもまた、大いに貢献したはずです
そうなると中村屋のインドカリーは「インド独立の味」と呼べるかもしれません
そして今なお「日印友好の味」であり続けているのかもしれません

なかば歴史から忘れられたインドカリーの物語の中に
忘れてはならないものを発見したように思うのは私だけでしょうか

今回のシリーズは中島岳志著「中村屋のボース」に全面的に依存しました
中島氏の労作に敬意を表します

ただし、中村氏は戦後日本の進歩的文化人の価値観をもって
R・B・ボースや頭山満を論じようとするため
全体としては、なんとも違和感の残る著作となってしまいました
まるでクジラを文化包丁でさばこうとする試みのような・・・

若い中島氏が全力でR・B・ボースに向っていった
その情熱は素晴らしいものでした・・・
ぜひ再度、虚心坦懐にボースを見つめてほしいと思います

辛抱強くお付き合いいただいたブログ読者の皆様
ありがとうございました
ぜひ、いつの日か、いっしょに

中村屋のインドカリーを食べましょう・・・
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インドの独立ー中村屋のインドカリー35

2007-06-28 15:23:15 | Weblog
1941年、日本軍が英米と戦闘状態に入ると
これをインド独立のチャンスとみたR・B・ボースは
積極的な活動を展開します

インド兵へ、日本軍への投降を呼びかけるととに
日本国内で、インド独立を日本が支援するための体制作りを行います

シンガポールでは
大量のインド人投降兵によるインド国民軍の母体が出来上がり
R・B・ボースはインド独立連盟総裁となり
インド国民軍を傘下におさめます

1943年、ドイツからスバス・チャンドラ・ボースが極秘入国すると
R・B・ボースはスバス・チャンドラ・ボースに、その地位を譲ります
ボースからボースへ、革命のバトンが引き継がれたのでした

自らの役目を終え、日本に帰国したR・B・ボースは
1年間で体重が30キロも減っていたといいます・・・そして、その後も
R・B・ボースはチャンドラ・ボースの相談役であり続けました

1945年1月21日、R・B・ボースは波乱の生涯を閉じます

1945年8月、日本軍は敗北し
チャンドラ・ボースは台湾で事故死しました
二人のボースに指導された、インド国民軍に参加した兵士達を待っていたのは
戦勝国イギリスによる裁判でした

この裁判がインド独立のきっかけとなります

二人のボースの遺志は、インド国民軍の兵士に引き継がれ
戦場をデリー軍事法廷に移し、彼らは戦い続けました

裁判に怒ったインド民衆は、各地で暴動を起こし
多数の死者、負傷者をだしました
ついには軍の反乱まで起きてしまい
軍艦がインド人反乱兵におさえられる事態も発生しました
もはや、イギリスによるインド統治は不可能となったのでした

こうして、イギリスは200年にわたるインド統治をあきらめ
インド独立を受け入れたのでした

ついに、R・B・ボースの夢であったインド独立は達成されたのでした

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恋と革命の味ー中村屋のインドカリー34

2007-06-27 12:06:12 | Weblog
中村屋の「インドカリー」は発売直後から大きな反響を呼びます
そして喫茶部を代表する人気メニューとなりました

当時、一般的なカレーが10~15銭のところ
新宿中村屋の「インドカリー」は80銭もしました
それだけ高価なメニューであったにもかかわらず
この商品は連日、飛ぶように売れました

やがて”新宿中村屋でインドカリーを食べること”が
当時の富裕層や文化人のステイタスシンボルとなっていきました
「中村屋のインドカリー」は多くの作家の文章に登場するようになり
そのブランドイメージはさらに高まりました

この「インドカリー」のヒットに伴い
R・B・ボースもまた「中村屋のボース」として知られるようになります

新宿中村屋の喫茶部を訪れる人々は
「ボースが伝えた本格的インドカリー」を話題にし
「中村屋への雲隠れ騒動」や「俊子とのロマンス」について
盛んに語り合ったといいます

R・B・ボースと中村屋にまつわる話は
当時の新聞や雑誌にも頻繁に取り上げられ
R・B・ボースは「中村屋のボース」として、人々に知られるようになりました

そして、いつしか人々は「中村屋のインドカリー」の味を

「恋と革命の味」

・・・と呼ぶようになりました
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殖民地支配への抵抗ー中村屋のインドカリー33

2007-06-26 12:10:34 | Weblog
R・B・ボースは、西洋経由で日本に入ってきたカレーに対して

「インド貴族の食するカリーは決してあんなものではない」

という不満をもっていました

中村屋が喫茶部を開設したのを機に
ボースは、日本で始めて
本格的な「インドカリー」を売り出すことを提案しました

日本人の目を現実のインドに向けるためにも
ボースは、イギリス人によって作り変えられた「カレー」でなく
インド人が実際にインドで食べている「インドカリー」を売り出すことに
強い執念を持っていました

ボースは、作り方だけでなく、素材にも徹底的にこだわり
喫茶部の開店後は、ほぼ毎朝
出来上がった「インドカリー」の検食するために現れたといいます

R・B・ボースにとって
本格的なインドカリーを日本人の間に広めることは
イギリス人によって植民地化されたインドの食文化を
自らの手に取り戻そうとする反殖民地闘争の一環でした

中村屋の商品名は、現在に至るまで一貫して
「カレー」ではなく「インドカリー」です

この商品名自体が、R・B・ボースの
イギリスによるインド植民地支配への抵抗の意思表示であり
商品が本物のインド料理であることの表示だからです
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看板メニューー中村屋のインドカリー32

2007-06-25 18:41:41 | Weblog
俊子が亡くなっても
R・B・ボースと中村屋の関係は変わることなく
むしろ、より強固なものとなっていきます

子供たち(正秀と哲子)は相馬夫妻に預けられ
ボースは原宿の家で一人暮らしをしますが
毎週日曜日には、子供たちが原宿のボースの家に行き
親子水入らずで過ごします
ボースはこの日を大層楽しみにしていたといいます

中村屋は、1923年4月1日付けで
資本金15万円の株式会社に改組しています
R・B・ボースは、相馬家の息子や娘と供に、主要な株主となりました

この頃、中村屋の経営は大きな岐路に立たされていました
新宿の発展とともに、大型店舗の進出があいつぎ
1925年、三越百貨店が新宿に進出すると
中村屋の売上は15%もダウンしてしまいました

巻き返しをはかるため、中村屋は数々の経営改革をします
その一環として
1927年6月、喫茶部が開設されました

この時、喫茶部の看板メニューとして売り出されたのが
R・B・ボース直伝の「インドカリー」でした
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俊子の死ー中村屋のインドカリー31

2007-06-24 14:09:39 | Weblog
追っ手の追跡も止み、日本への帰化も認められたボースは
インド独立のための積極的な活動を開始します

しかしこの頃から、妻・俊子の体調が思わしくなくなりました
1924年の半ばころから、急速に悪化し
床に伏す毎日が続くようになりました

俊子の病は肺炎でした

日光の入らない隠れ家の生活と
ひと時も気をゆるめることのできない心労が重なり
俊子の肉体は徐々に蝕まれていったのでした

1925年3月4日
ボースが懸命に唱なえるヒンドゥーのマントラに
俊子は、かすかに口を動かし唱和しながら
やがて、静かに、永遠の眠りにつきました

ボースが毎朝唱なえるヒンドゥーのマントラを
俊子も唱和しつつ、いつしか憶えてしまったのでした
最期の時は、誰も近付くことのできない夫婦二人だけの時間であったといいます

後年、ボースは結婚生活を

「短かったけれど、私達の生活は幸福でした」

「一生の幸福を、あの数年の間に享けたという気がする」

・・・と回想しています

その後、ボースには度々条件の良い再婚話が持ち込まれ
相馬黒光は、子供たちの世話なら、私達がするから心配するなと
ボースに念を押しました

ボースは生涯、すべての再婚話を頑なに拒否しました
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帰化ー中村屋のインドカリー30

2007-06-23 15:26:20 | Weblog
1918年11月、ドイツは連合国と休戦協定に調印し
翌年1月、パリ講和会議が開催されました
これによって、第一次世界大戦が終了します

ドイツのスパイであるという名目で
ボースの国外退去を要求していたイギリスも、その大義名分を失い
ボースを追跡していた私立探偵の姿も見られなくなりました

結婚から2年を過ぎた1920年8月13日、長男正秀が誕生します
この「正秀」という名前は頭山満の命名です
さらに1922年12月22日、長女哲子が誕生します

「哲子」という名前は、ボースが中村屋に来て間も無く亡くなった
相馬夫妻の赤ん坊の名前です
哲子という名前には、相馬家とボースの深い思いが込められています

晴れて自由の身となったボースは
千駄ヶ谷町隠田(現在の原宿駅近く)に家を建て
一家でそこに住み始めました

この家は俊子のアイデアで設計されたもので
R・B・ボースの生涯の住まいとなりました
親子4人の家庭は、過酷な運命を背負いながらも、小さな幸福に包まれたのでした

1923年7月、R・B・ボースは日本に帰化しました
ボースは、インド国籍を捨て
日本人として、インド独立運動に邁進する決意を固めたのでした
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新婚生活ー中村屋のインドカリー29

2007-06-22 15:05:07 | Weblog
ボースと俊子の新婚生活は、芝の愛宕山下の家で始まりました

しかし、ここにはすぐに追っ手が忍び寄って来たため
一旦、葛生能久の家に匿われたた後、青山南町へ移りました
しかし、そこも2ヶ月余り暮らしただけで、青山高樹町へ移りました

これらの家はどこも、崖下の湿地や高い塀に囲まれた日光の入らない場所で
ひっそりと身を潜める窮屈な生活が続くのでした

こうした生活に耐えられたのは、俊子が忍耐力が強く
感情のコントロールの出来る、芯の強い女性だったからです

俊子は豊かな感情の持ち主でしたが
滅多にそれを表に出すことはありませんでした
こうした俊子の性格は、ボースに別の懸念を生じさせました

「俊子は本当に自分を愛しているのだろうか?」

二人が千葉の海岸の家で、密かに静養しているとき
ボースの不安が爆発してしまいました
そして、とんでもないことを口走ってしまいます

「私を本当に愛しているのですか?」

「それなら私の目の前で死ぬことができますか?」

目にいっぱい涙をためた俊子は、真剣な顔になり
海に向って走りだしました

ボースはあわてて、俊子を抱きしめると
自分の失言を詫びました
そして、以後二度と、この様なことは無かったといいます

こんなことがあって、二人は傍目にも仲睦まじい夫婦となっていきました
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結婚ー中村屋のインドカリー28

2007-06-21 13:02:58 | Weblog
国外退去命令が撤回されても、ボースは安心できませんでした
グプターは6月にアメリカに渡り、残るボースを
イギリス官憲と、彼らに雇われた日本の私立探偵が執拗に追いました

地下生活が2年をすぎた1918年になって
さらに追跡は厳しくなりました
ボースは関東地方を転々とし
時には、拘束される寸前に、着の身着のまま逃亡し
葛生能久の自宅に匿われるということもありました

ボースに寄り添い、彼の手足となって動く人間が必要です

頭山満はボースとの連絡係りをしていた俊子に目をつけます
頭山は相馬夫妻に、俊子をボースの妻とすることを懇望します
この申し出に、相馬夫妻は激しく動揺しますが
とりあえず、本人の意思を確認することとします

この縁談話を俊子にしてから、2週間が過ぎ
頭山からの催促もあり、黒光が俊子に意思を尋ねると
俊子は、はっきり答えました

「行かせて下さい、私の心は決まっております」

黒光は命懸けの結婚生活となることを、念を押しました
それでも、俊子の決意は変わりません

「知っております。お父さんお母さんの気持ちもよくわかっております」

それが俊子の答えでした

1918年7月9日
R・B・ボースと相馬俊子の結婚式は
頭山満邸で、両家の親類の参列もないまま、密かに執り行われました
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