湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

寺尾亨訪問ー中村屋のインドカリー7

2007-05-31 19:36:25 | Weblog
10月14日、再び孫文のもとを訪れたR・B・ボースは
日本の警察に尾行されていることを相談します
孫文はボースらの助けになるであろう有力な日本人を紹介します

それが頭山満と寺尾亨です

頭山満は右翼の大物です

寺尾亨は東京帝国大学法科大学の教授をつとめた国際法の専門家でした
日露戦争の前に「七博士意見書」と呼ばれる対露強硬論の建白書を
総理大臣と外務大臣に提出した「東大七博士」の一人です
この当時は大学の職を辞し、孫文ら中国革命指導者をサポートしていました

10月15日、ボースは赤坂霊南坂の寺尾亨の自宅を訪問しています
頭山満の自宅は、じつは寺尾亨の自宅の隣なのですが
この時、ボースは頭山邸は訪問しなかったようです
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山中峯太郎ー中村屋のインドカリー6

2007-05-30 20:07:20 | Weblog
このような状況の下で、身の危険を察知するとともに
ボースは自分達が日本人によって庇護されている状況も認識します

ボースは日本の新聞記者との懇談を積極的に行い
日本人にインドの惨状を知らせ
自分達がおかれた窮状を訴える活動を展開し始めました

そのきっかけになったのが
当時、東京朝日新聞の記者であった山中峯太郎との出会いでした

山中は親交のあった孫文からR・B・ボースの存在を聞かされ
この”インド独立党の首領”に強い関心を抱き
ボースのもとを訪れました

ボースは山中にインドのおかれた惨状と自己の苦境を語りました
山中は二人の中国人の通訳を介して
ボースの話を必死に聞き取りました

会社に戻ると、山中は早速これを記事にしました
これが10月11日付けの東京朝日新聞に
「欧州戦と印度」と題して掲載された「P・N・タゴール」の談話です

山中峯太郎はその後、超人気作家となります
代表作は戦前の大ベストセラー「亜細亜の曙」です

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日本政府の姿勢ー中村屋のインドカリー5

2007-05-29 19:16:36 | Weblog
イギリス外務省からのボース逮捕要請に対し
日本政府は動きませんでした

そのような日本政府に対し、
イギリス外務省は、最初の要求から1週間後の10月12日
再び逮捕要求を突きつけます

これに対し、翌13日、日本政府は

「逮捕は難しい」

という回答を行いました

イギリスは簡単に諦めません
10月15日に、更に逮捕を促す文書を送り
翌10月16日には、R・B・ボースの強制送還を要求します

ここではドイツのエージェントとインド人が連帯して
東南アジアからインドへ武器を輸出していることに触れ
それにR・B・ボースが関わっていると指摘しています

日本政府はそれでもイギリス側の要求に応じようとせず
様々な言い訳を並べ立て
時間の引き延ばしを図ります

上海から帰国直後のR・B・ボースは
自分の素性が既にイギリス側に見破られているとはつゆ知らず
日本での活動を再開しまた

ただし、上海から帰国後、警官に尾行されていることには気付いていました
腹を立てたボースは、警視庁に行き
尾行を外すように嘆願しました
対応に出た警官の言葉は

「貴方を保護するため」

というものでした
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ボース逮捕要請ー中村屋のインドカリー4

2007-05-28 18:09:13 | Weblog
R・B・ボースの来日の目的は武器の調達でした
イギリス官憲から逃れるのは一時的なことで
武器が調達できれば、インドに戻るつもりだったはずです
日本を選んだのは
日露戦争に勝ったアジアの国を見てみたいという気持ちもあったようです

日本での武器調達は困難であり、落胆したボースは上海に渡ります
そんな彼のもとへ、日本で拳銃と実弾を購入できたという知らせが届きます
これをインドに運ぶのがA・ムケルジーです
ボースは上海でムケルジーに会い、重要書類を渡します

武器と重要書類を持って、インドへ向うA・ムケルジーは
シンガポールでイギリス官憲に逮捕されてしまいます
押収した書類の分析から、イギリス官憲は
P・N・タゴールがR・B・ボースであることを突き止めます

シンガポールのイギリス行政官達は
最高ランクの捜査対象人物であるR・B・ボースが
日本に潜伏している事実を摑み、色めきたちました
押収した文書から、日本での潜伏先の住所まで掌握し
急いで、イギリス本国政府へ、その報告を打電しました

1915年10月5日、イギリス外務省は、日本外務省に対し
P・N・タゴールことR・B・ボースの逮捕を、正式要請しました

イギリス外務省はR・B・ボースを識別するポイントを提示しています
左手の指にある大きな傷です
その傷が認められれば、その人物がR・B・ボースである動かぬ証拠であり
即時逮捕するように要請したのです
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R・B・ボースの来日ー中村屋のインドカリー3

2007-05-27 14:27:54 | Weblog
1914年6月28日、ボスニアの首都サラエボで
オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子が暗殺されます
この事件をきっかけに、第一次世界大戦が勃発しました

R・B・ボースがインド人兵士の一斉蜂起を計画したのは
大戦に参戦したイギリスを背後から脅かすためです
第一次大戦の勃発はインド独立のチャンスであると
ボースは考えたのでした

計画は失敗し、ボースはインドを離れ、日本に向うこととなります
1915年6月5日、プレオ・ナース・タゴールと称するインド人
R・B・ボースは神戸に上陸しました

ボースが東京の新橋駅に到着したのは、6月8日の夜11時頃でした
方角も分からず途方にくれていると
英語の分かる巡査が現れ、宿の世話をしたり
翌日からの住まいを借りる手配まで協力してくれたそうです

東京麻布の路地裏に居を定め、ボースは東京近辺のインド人と連絡をとります

当時、イギリスとの間に日英同盟を結んでいた日本は
イギリスからの要請もあり
日本に滞在するインド人活動家の行動を、密かに監視していました

ボースはインド人の他に、当時日本にいた孫文とも知り合い
さらに大川周明や頭山満ら日本人とも知り合いました
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R・B・ボースのインド脱出ー中村屋のインドカリー2

2007-05-26 20:04:22 | Weblog
ハーディング総督爆殺未遂事件を起こした当時
ラース・ビハーリー・ボースはイギリス植民地政府の官吏でした

事件後、何食わぬ顔で任地デラドゥンに戻り、森林研究所の仕事を続けました
負傷した当のハーディング総督が、静養のため訪れたデラドゥンで
総督の歓迎会を開き、彼を讃える挨拶までしています

これに感激した高等警視はボースを訪れ、革命家捜索の内容を打ち明け
書類を示し、万一の場合の援助を依頼したそうです

1913年5月17日、ラホールでイギリス高官爆殺未遂事件が起きます
背後でボースが指揮した事件でした
警察によりアジトが捜索され、ついにボースの正体が明らかとなります
ラホールで休暇中だったボースは逮捕をまぬがれましたが
この時から、彼の長い逃亡生活がはじまります

この逃亡期間中、爆薬の暴発でボースは左手に大怪我を負います
やがて左手の傷跡がR・B・ボースを識別するための
重要なポイントとなってしまいます

傷のいえた頃、ボースはラホール兵営のインド人兵士の一斉蜂起を計画します
ところが情報が事前に漏れ「ラホール兵営反乱事件」は失敗します
ここに及んで、ボースはインド出国を決意します

彼が目指したのは日本でした

ナワードウィップという町に潜伏し、出国のチャンスを窺いました
そしてノーベル賞詩人のタゴールが、日本行きを計画していることを知りました
調べると、タゴールの親戚にプレオ・ナース・タゴールという人物がいます
ボースはこのP・N・タゴールになりすますことをたくらみます
タゴールの日本滞在の下準備をする親戚になりきることにより
イギリス官憲を騙せると考えたのです

ボースは、この偽名を使って、カルカッタから神戸までの旅券を購入します
1915年5月12日、ボースは日本郵船会社の讃岐丸に乗船しました
途中シンガポールと香港で警察のチェックがありましたが、無事きり抜け
1915年6月5日、R・B・ボースは神戸に上陸しました
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中村屋のインドカリー

2007-05-25 20:05:53 | Weblog
雨の中を横浜まで行って来ました
ちょっとした調べ事のために
M社のショールームに行ったのです
こういうことは久しぶりです、良い勉強になりました

帰りにランドマークタワーに寄って
中村屋のインドカリーを食べました
ちょうど昼時で混んでいたので、少し待たされましたが
雰囲気も良く、味も美味しかったです

このインドカリーを中村屋の商品としたのは
ラース・ビハーリー・ボースというインド人です
正確に言えば、かれがこの味を日本に伝えた時
すでに日本国籍を取得していましたから、インド系日本人です

20世紀はじめ、インドはイギリスの植民地でした
1905年、イギリスはヒンドゥーとイスラムの分断を計り
インド独立運動の中心地、ベンガル地方を分割統治しようとしました
この「ベンガル分割」をめぐって、反英独立運動は活発化しました

独立運動は、イギリスにより徹底的に弾圧されました
主だった指導者は軒並み逮捕され、運動は急速に低調なものとなりました
そして、爆弾を用いた過激なテロ事件が、間欠的に起きました
インド総督ハーディングに爆弾を投げつけ負傷させた
「ハーディング総督爆殺未遂事件」は、この時期最大の事件でした

ラース・ビハーリー・ボースこそは
この「ハーディング総督爆殺未遂事件」を引き起こした張本人です
事件後、イギリスはボースの首に多額の懸賞金を掛け
徹底的に追跡します

ボースは、これ以上インドにとどまることは出来ません
かれは独立のための資金や武器を調達するため
海外への逃亡を企画します

その逃亡先に選ばれたのが日本でした
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ワンマン道路

2007-05-24 18:56:09 | Weblog
ワンマン道路という言葉を最近は聞かなくなりました
おそらく何のことか知らない人の方が多いでしょう

これは文字通り、道路の名前です
正確に何処から何処までなのか、私も知りませんが
国道1号線の戸塚周辺の部分をそう呼ぶのです

何故、その名が付いたかといえば
話は、吉田茂が内閣総理大臣だった時代にさかのぼります

吉田首相が大磯の家に帰る時、いつも戸塚の踏切で待たされ
腹を立てた首相が、この踏切を避けるバイパスを作れと命じ
そうして出来たのが、この道路だからです
・・・すくなくとも、世間ではそのように信じられていました

吉田首相はワンマンとか、ワンマン首相と呼ばれていました
そんなわけで、ワンマン道路と呼ばれたわけです

いまではすっかり忘れられた、この道路の名前(通称)ですが
私には、懐かしい響きの言葉です
藤沢から東京横浜方面に向う、その道は
小旅行か、特別なお出掛けの時しか走りません
父と母がルートの話をしている時

「ワンマン道路を通って・・・」

などという言葉が聞こえるのが嬉しかったものです
ワンマン道路という、カタカナを交えた響きも
なんとなく新線な感じがしました

牧山桂子さんの文章により
吉田首相が戸塚の踏切を通る時は
踏切の開いている時に通り抜けられるように
事前に計算して走っていたことを知りました
おそらく、戸塚の踏切では、さんざんいやな思いをしたのでしょう

バイパス建設のエピソードは
けして、無責任な大衆のウワサ話ではなかったようです
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男の優しさ

2007-05-23 19:26:54 | Weblog
男の優しさについて考えてみます

白洲次郎の娘、牧山桂子さんの文章には
時々、男の優しさとはこういうものかな、とおもわせる場面が出てきます

まだ国道1号線が戸塚の踏切を通っていた頃
樺山愛輔の葬儀に参列するため、大磯に向う吉田茂総理大臣の車に
吉田総理の娘、麻生和子さん(麻生外相の母)とともに
桂子さんも同乗していました
樺山愛輔は桂子さんの祖父です

戸塚の踏切は「開かずの踏切」として有名でした
その踏切が近付くと突然、吉田総理は
「開かずの踏切」が開いているかどうか賭けようと言い出しました
しかも自分と麻生和子さんは閉まっている方に賭けると言うのです
成り行き上、桂子さんは開いている方に賭けざるをえなくなりました
大した金額ではありませんが、子供には大金でした

踏切が見える場所に来た時、何と踏切は開いていました
踏切を通過すると吉田首相はにっこり笑い

「おい和子、お前もだ。」

と言って、和子さんからも徴収し
合わせたお金を、桂子さんの手に握らせたそうです
そして、片目をつぶり

「オヤジには内緒だよ」

と囁きました

しばらくして、桂子さんは父親にそのことを話しました
彼女の父、白洲次郎は大笑いしたそうです
吉田のじいさんが戸塚の踏切を通る時は
必ず踏切が開いている時を計算して通ると言うのです
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ブログの1年

2007-05-22 18:13:33 | Weblog
外が明るいので気付きませんでしたが、もう夕方です(PM5:50)

このブログを始めて、もう1年になります
とても長い1年だったように感じます
それだけ、いろりろなことがあり
私にとって変化の多い365日だったのかもしれません

ところで、この1年間、私は泊りがけで出掛けたのは1日しかありません
ということは、行動面ではあまり変化の無い1年だったということです
それでいて、長い1年と感じるのは、精神面の変化によるものかもしれません
精神面の変化とは、すなわち、このブログを始めたことです

ブログを毎日書くことは、毎日何かを考えることであり
それを目に見えぬ第三者に分かる様に表現することです
そうした努力が、日々、私の脳をトレーニングしてくれて
結果として、精神的に充実した1年を過ごせたのかもしれません

ただし、時間が長く感じるのは苦労が多い場合でもあります
実際、忙しく、それなりに苦労のあった1年でした

出会いと別れも多く
それは人の世の常なのですが
私には、つらいものも多かったのです
年齢のせいかどうか分かりませんが、私は、今仲の良い人とは
いつまでも仲良しでいたいのです
したがって、それぞれ事情は異にしても
縁遠くなる人への哀惜の念が強くなるのです

この1年は、出会いと別れの1年でした
それは、ある意味で毎年のことではあります
しかし特にそれが強く現れたのが、この1年であったように思います
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