湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

令和5年大晦日の想い

2023-12-31 16:56:19 | Weblog

いよいよ、今年も終わりです

楽しい1年ではありませんでした

1月に酷い風邪をひき、2月に父を亡くし

その後、親族の葬式が3つありました

さらに、8月には交通事故もありました

まったく、さんざんな1年であったと言えます

 

その一方で、末っ子の四男は高校を卒業し、大学に入学できました

次男は就職が決まり、来年の大学卒業を待つばかりです

永くかかった尾道の民泊も、なんとか開業できました

他にも、地元の駐車場の用地買収も終わり、来年は開業に向けての仕事があるばかりです

私の時間は、確実に前に進んでいるのです

 

現在、私の気分がさえない理由は、プライベートのことなので、ここでは触れません

また、健康面では、多くの問題を抱えていて、これも憂鬱の理由ではあります

そんな1年が終わり、課題は来年に引き継がれます

明るいい未来を想像したいところですが、なかなか、そんな気分にはなれません

 

時間は、適当に区切っても、実際には繋がっています

人生は連続であり、今日の続きに明日があり、今年の続きに来年があります

泣いても笑っては、明日は来るし、来年は来ます

できることなら、元気で明るく、未来を迎えましょう・・・皆さん、良いお歳を!

 

 

 

 

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至福の時

2023-12-30 17:47:29 | Weblog

このところ血糖値が下がらないので

昨夜は自棄を起こし、チーズやナッツをツマミに、焼酎を飲んでしまいました

今朝、血糖値が少し下がったのは救いでした

カロリーの高いツマミを食べながら、夜遅い時間に酒を飲むと

普通は、朝の血糖値は上がります

 

このところ疲れていいるので、少量のアルコールでも効きます

倒れるように寝てしまい

夜中に一度起きたきり、朝まで眠りましたが、ぐったり疲れています

 

私の思考や行動の問題点は、自分の感情を殺しがちになることです

どうでもいいことに気を回し、自分を抑えてしまうのです

それがストレスとなり、肉体を苛むわけです

 

これは、幼い時からの思考と行動の癖です

もっと素直に、やりたいことをやっていれば、これほど苦しむことはなかったでしょう

ついつい、自分に無理を強いてしまうのです

幼い時に身に付いたことは、なかなか、取り除くことができません

 

慎重に生きることと、遠慮がちに生きることは違います

私の苦しみは、自分を抑えることが苦手な気質だということです

それなのに、遠慮がちに生きようとするから、ストレスが溜まるのです

人が傍にいるだけで、私は神経をすり減らします

 

孤独を好むわけではありませんが、一人の時間が、私には大切です

一人の時間だけが、私を寛がせるからです

人に気を遣わずに済む時間は、至福の時です

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額の後退について

2023-12-29 18:16:28 | Weblog

孫正義氏は、額が後退してると指摘されると

 

「額が後退したのではない、私が前進したのだ。」

 

と、答えました

 

良い答えです

気分が前向きになりますし、ユーモアがあります

さすが、日本を代表する起業家は違います

 

ここで、人間の額について考えます

先日、顔に額があるのは人間だけらしいと気付いたからです

顔に額があることは、どんな意味があるのでしょう?

 

哺乳動物でも、高等な動物ほど顔がしっかり出ているのです

明らかに、顔を持つことには大きな意味があるのです

素朴に考えれば、その表情から多くの情報を読み取ることができます

それは通常のコミュニケーションとは別の重要な情報伝達手段であるということです

 

額が後退することは、顔の面積が広くなることです

すなわち、その分だけ、より情報発信量が増えることを意味します

額が広くなることは、すなわち禿が進むことは

人間としての進化の方向ととらえてもよさそうです

 

情報産業の雄である孫氏の額が広がっていることは

彼の言う通り、彼自身が前進していることを体現しているのかもしれません

彼の冗談を、少し、真面目に受け止めてもいいのかもしれません

 

 

 

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歯並びについて・・・歴史の考察

2023-12-28 18:34:25 | Weblog

以前、八重歯の美人のことを書きました

あれは、顎の小さい弥生系の頭蓋骨に、大きな縄文系の歯が生えた場合に現れるのです

すなわち、縄文系と弥生系の混血の特徴なのです

今でも、混血には独特の魅力があり、美人とされる人も多いです

弥生時代以降の日本人も同じだったのです

八重歯は、弥生系と縄文系が混血する都市住民を象徴する容貌だったのです

 

美意識が時代を反映する例としては、アメリカ人の美意識があります

ハリウッド俳優は筋骨たくましく、笑えば歯並びが綺麗です

これは奴隷市場の奴隷の品定めの基準です

アメリカ人好みの、丸顔で目がクリっとして、バストとヒップが張り出し

手足が細長い体形は、典型的な黒人の若い女性の特徴です

これも、奴隷市場の品定めの基準が美意識に定着したものでしょう

 

美意識は社会の影響を受けます

現代の日本人が髪を染めるのも

戦争に負け、アメリカに占領されてからの流行です

背が高いことがカッコイイとされるのも同じ理由です

美意識は時代の本質を炙り出します

人々の心の底を映しのです

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禿げにつて

2023-12-27 16:32:55 | Weblog

禿について考えてみました

それというのも、私の知るある女性が大の禿嫌いなのです

この、髪の毛の薄い人にとっては理不尽な女性の好みは、かなり一般的です

この点が、さいわい髪のある私でも、とても気になるのです

 

その女性は、容貌としての禿が嫌いなだけではなく

禿げる男は信用できないと、人格を問題にしています

これは、どう考えても理不尽で、非合理な批判です

頭頂の禿げを隠すヘアースタイルを特に毛嫌いし、丸坊主の方がいいと言います

 

はっきり口に出すかどうかは別にして、女性で禿を嫌う人は多いです

そして、それ以上に多いのが、禿を気にする男性です

当然、そうなるのでしょうが

生まれついての体質を問題にされるのは、いたたまれないものがあります

 

オラウータン、ゴリラ、日本猿と見ていくと、いずれも、目から口にかけては毛がありません

ライオンは顔の毛が短いですが、虎は顔にも毛があり、鮮やかな虎柄です

犬は、顔の毛の短い犬種が多く、毛むくじゃらの種は少数派です

哺乳動物には、顔と、その表情に重要な意味があるのでしょう

 

人間の顔は、通常、完全に禿げています

類人猿や猿は、目から上は毛がありますが、人間は眉毛を残して、禿げた額があります

禿は、額の後退から始まります

私は白髪ですが、額の生え際から部分白髪になっています

顔が禿げ、人類は、顔の面積拡大の方向に進化し、この部分の髪は弱い立場になったようです

 

 

 

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チンギス・ハーンは鎌倉武士・・・歴史の考察

2023-12-26 18:43:05 | Weblog

日本の武士について語ろうと思うと、馬の話をせざるを得ません

武士道というと、色々ありますが「弓馬の道」という言い方があります

馬に乗ることや弓を射ることは、子供の頃からやっていないと上手く出来ません

「弓馬の道」とは、武士に生まれた者の生き方という意味です

 

百姓から武士になった豊臣秀吉などは、乗馬は下手だったそうです

逆に、織田信長や徳川家康は騎馬の名手として知られていました

源頼朝、源義経も騎馬の名手です

義経は体が小さくて大きな弓を引けないことを恥じていたという記録もあります

馬と弓は、武士に欠かせぬたしなみでした

 

史上最大の帝国を作り上げたチンギス・ハーンは

馬と弓で、ユーラシア大陸の覇者となりました

彼は、日本の鎌倉時代に活躍しましたし、源義経であると考える人もいます

かくいう私も、その一人です

 

ロシア人は、昔から、シベリアに残る古い時代の日本由来の遺跡を破壊し

義経がチンギス・ハーンであった証拠を消し続けたそうです

古い時代のものに、明らかに日本人渡来の証拠があったわけです

大陸の人が、古い時代に遺物を捏造しても何の利益も無いわけですうから、本物です

チンギス・ハーンは日本人、鎌倉武士、源義経だったのです

 

 

 

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三嶋暦・・・歴史の考察

2023-12-25 18:25:39 | Weblog

今日は三島大社に行き、三嶋暦を買ってきました

ここ何年か、これが私の年末の恒例行事です

往きは新東名を使い、帰りは国道1号線で小田原まで

それからは海岸伝いに藤沢に帰りました

天気も良く、道も混んでおらず、快適なドライブとなりました

 

三嶋暦は源頼朝の命により、日本で最初に発行された木版の暦です

頼朝は暦の大衆化を図ったのです

これは凄いことです

朝廷が作り、神社仏閣を通じて庶民に知らされるわけですから、暦は権威の象徴です

それを大衆化してしまった頼朝は、それだけで革命家と呼んでいいのです

政教分離は信仰の自由を生み出し、、多くの新興仏教が興りました

 

頼朝は、京都の朝廷を抑えたにもかかわらず、政治の中心を鎌倉に置きました

これも革命的です

あえて、天皇と距離を置き、それでいながら強大な権力を持ったのです

権威と権力を分け、正教分離を実現したわけです

やはり、頼朝は革命家です

 

鎌倉幕府とはいかなる存在かと問われれば

私は日本における最初の革命政権と答えます

頼朝により、政教分離がなされ

その後、北条泰時の代に御成敗式目が制定され、法治主義が確立しました

 

 

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私先祖は竜馬暗殺者か?・・・歴史の考察

2023-12-24 11:53:47 | Weblog

12歳で家に戻った清太郎は、武術を習い始めまsた

元々、武術が好きだったらしく、瞬く間に上達したそうです

馬術は田安家の馬術師範に習ったといいます

確かに、当時の切絵図を見ると、田安家の横に馬場があります

江戸城の中です・・・現在の北の丸公園のところです

 

長州征伐の時には、清太郎は講武所にいました

幕府が作った武道の大学みたいなところです

そこでは、各種武道が教授されていたのです

そして、彼は家茂将軍の床几回り御警衛に選抜されたのです

 

床几回り御警衛は腕の立つ武士が将軍を警護する親衛隊です

将軍直々の命で、家柄ではなく、実力により、旗本の次男三男から選ばれました

全てが家柄で決まる江戸時代にあって、実力で選ばれたことは、大変な名誉であったようです

 

清太郎らは、将軍とともに大阪城に入りました

ある日、野外の剣術試合が催され

清太郎は、試合に勝ち、将軍から刀の下げ緒を賜りました

 

長州征伐は停戦し、将軍は急死し、床几回り御警衛は解兵されました

ただし、床几回りの武士達は、腕が立つばかりでなく、家柄も良かったので

解散されず、京都見回組が誕生したのです

八王子の百姓出身の近藤勇や土方歳三率いる新選組は色々問題があったからでしょう

それぞれが京都の街を区分けして担当したのです

 

この京都見回組の選抜メンバーにより、坂本龍馬は暗殺されました

この暗殺メンバーに、将軍から褒美を貰えるような剣術の腕を持つ武士であった

高祖父が選ばれた可能性は十分あったと私は考えます

 

私は、私の先祖が竜馬暗殺者であった可能性を考えているのです

彼は、幕府崩壊時22歳の無名の青年でしたが

明治以降は名前を変え「警視検挙厳重にして」という状況を生きていたのです

明治政府の警視に追われ続けていたのです

一体、彼は何をしたのでしょうか?

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私の先祖のこと・・・歴史の考察

2023-12-23 13:02:51 | Weblog

私の高祖父秋本三次郎は、弘化3年(1846年)、江戸に生まれました

場所は土手三番町、現在の飯田橋駅前です

この歳は丙午(ひのえうま)なので、表向き弘化4年生まれとしました

 

父親は300石の旗本、田代鋼之助です

嘉永年間の江戸切絵図によると、この田代鋼之助の名前があります

安政年間の切絵図では兄の田代勝三郎になっています

 

私の高祖父の名前は秋本三次郎です

これは明治以降に名乗ったものです

幼名は田代清太郎、鋼之助の5人の子供の末っ子です

兄が二人、姉が二人いました

 

末の子供で、母親は十分な母乳が出ず、生まれてすぐに練馬村の農家に預けられました

ところが、練馬村から音信が無く、母と姉が見に行くと、衰弱した状態でした

そのまま引き取り、江戸の連れ帰りました

途中の茶屋で、赤ん坊を亡くしたばかりで母乳の出る女性がいると聞き

そのまま、その女性に預けられました

 

育ての親は、この子を大変可愛がり、12歳まで手放しませんでした

ところが、安政5年、江戸でコレラが流行ると、育ての母は、これが原因で亡くなり

清太郎は、番町の旗本屋敷に帰ってきたのです

すでに、兄が家督を継いでいました

 

 

 

 

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「火国」をホツマツタヱで解釈・・・歴史の考察

2023-12-22 18:23:08 | Weblog

ホツマツタヱは松本善之助氏により一般に紹介されました

氏の著書「秘められた日本古代史ホツマツタヱ」による、次の記述を紹介します

 

まず、ホツマツタヱの次の原文を読んで下さい。

みことのり  岸にのぼりて

何村と    問えばヤツシロ

トヨ村の   焚く火を問えば

主を得ず   人の火ならず

シラヌヒの  国と名づくる

(三十八アヤ三十三頁)

これが日本書紀では十八年五月条に、前の四行は正しく訳されているのに

最後の一行だけ次のようにあるのです

「人の火に非ずといふことを。故、其の国を名づけて火国と曰ふ」

つまり、ここでは「火国」の前に、「不知」の二字が落とされてしまっているのです。

・・・

 

日本書紀に、熊本が「火国」とされているのは、転写時の欠落だったのです

おそらく、昔から、人々は阿蘇山の火を想像して、疑を持ってこなかったのでしょう

実際は八代湾の不知火の国だったのです

 

昔、NHKで、「火の国から」という熊本を舞台にした朝の連続ドラマがありました

こうして、間違いのアップデートが繰り返されていくのです

 

 

 

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