湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

修学旅行に反対・・・鵜川昇先生のこと16

2008-01-31 12:08:42 | Weblog
鵜川先生が修学旅行を嫌ったことは
桐蔭学園の関係者なら、誰でも知っています
なんと言っても、桐蔭学園には修学旅行がありませんから

根本的理由は、鵜川先生が公私混同を嫌ったことにある
・・・と私は思います

修学旅行に行くと、旅館の人は
教師には生徒とは別のご馳走を用意し
酒を出して饗応する習慣がありました

小山台高校時代のある年、鵜川先生は自分だけは酒を飲まず
生徒の飲酒を発見したことがありました

その後の修学旅行では、教師全員で申し合わせて
酒を辞退することにしました
ところが、教師用に用意された別室には
断ったはずの酒がついていました

約束違反だと抗議すると

「そんなことをおっしゃる先生は、今まで一人もおらはりませんでした」

と、旅館の人は笑いながら答えるのでした

それでも、頑として酒を下げさせると
まるで宇宙人でも見るような顔をされ
先生のほうが驚くばかりだったそうです

それほど、一般化した習慣だったわけです

たしかに、私の記憶でも
修学旅行の旅館の食事は先生達とは別だったように思います

鵜川先生は、教室以外での生徒の行動を見ることや
団体訓練の重要性は認めています

桐蔭学園では、修学旅行はありませんが
サマーキャンプやウインターキャンプが実施され
登山やスキーを習います

ただし今年からは、サマーキャンプは廃止されることになりましたが・・・
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”公費天国”と対決する堂々たる教育事業・・・鵜川昇先生のこと15

2008-01-30 18:05:54 | Weblog
私は、小山台高校補習科設置の経緯には秘密があると指摘しました
しかし、そこに何か批判すべき点があるとは思っていません
それどころか、誰からの批判も受けない堂々たる教育事業だったと思っています

都立小山台高校の補習科は
学校の校舎も教師も使いませんから
実際には、学校に隣接して予備校を作ったようなものです
これでは、東京都が文句を付ける余地はまったくありません

これに比べて、日比谷高校の補習科は問題です
東京都の財産である都立高校の校舎と教師を使って
もはや都立高校の学生ではない、浪人生の受験指導をしていたのですから

それができた根拠はただ”既成事実”だけです

日比谷高校は自由な校風だった・・・と言われます
しかしそれは、公共物の私物化によるパラダイスであり
”公費天国”そのものだったのです

日比谷高校全盛期の学生達の多くは、東大に進学し
中央官庁のキャリア官僚になりました
そして、この世代の官僚が”公費天国”を作り上げ
中央官庁の腐敗を決定的なものにしたのです

世界における日本の国家的地位を沈めたのも、この世代の官僚です

私立学校出身者であっても、学歴に関係なく
日本の官僚機構で出世できるような時代が来れば
日本の国運は、もう一度隆盛に向かうかもしれません


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柴田周吉氏との出会い・・・鵜川昇先生のこと14

2008-01-29 15:22:53 | Weblog
いかなる経緯で、都立小山台高校に補習科ができたのか
鵜川先生がお亡くなりになってしまった以上
真相は永遠に語られることはありません

同窓のよしみをもって
東京都教育長自ら制度の抜け道を示唆したとしたら
社会的糾弾は免れません
補習科設置の経緯を明らかにすることは
先輩に、恩を仇で返すことになってしまいます
このことは鵜川先生と柴田周吉氏が生涯胸にしまった秘密だったはずです

私がこの秘密に気付いたのは
後年、鵜川先生が横浜の山手学院校長就任を要請されたとき
”補習科設置でお世話になった柴田周吉氏”に相談しているからです

たしかに柴田氏は補習科設置に賛成してくれました
そして、同窓の東京都教育長に頼みに行ってくれました
しかし自伝によれば、柴田氏の頼みは一蹴されてしまったはずです

柴田氏は、三菱化成のトップに登りつめた、やり手の実業家でした
役所に何かを頼みに行って、断られたからといって
すぐに諦めるような人ではなかったはずです
実際には柴田氏の強力な働きかけで
東京都教育長は、補習科設置の可能性を示唆せざるをえなかったのでしょう

だからこそ”補習科設置でお世話になった柴田周吉氏”となるのです

その後、三菱化成会長柴田周吉氏と鵜川昇先生は
二人三脚で桐蔭学園を作ることになります

鵜川先生は
PTA会長であった柴田氏と小山台高校の補習科を作り
三菱化成会長であった柴田氏と桐蔭学園を作ったのでした

先生が柴田周吉氏を”柴田会長”と呼ぶとき
そこにどんな思いが込められていたのでしょうか

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桐蔭学園の原型・・・鵜川昇先生のこと13

2008-01-28 12:11:14 | Weblog
鵜川先生が都立小山台高校に補習科を作ったことに
私はとても興味をひかれます
これこそが、後の桐蔭学園誕生のきっかけであると考えるからです

私はここまでの”鵜川昇先生のこと”を
鵜川先生の自伝である「わが人生」にしたがって書いてきました
ただし、この補習科設置の件では気になる記述があるのです

補習科設置を東京都教育長に一蹴された後

「方法はあるよ」

と知恵を授けてくれた先輩とは誰でしょう

そもそも補習科設置のための確実な抜け道があり
そうやって補習科設置をすることの前例があったとしたら
鵜川先生は悩まず、その方法をとったはずです

前例が無いことを自信をもって

「方法はある」

と断言できる人とは誰でしょう?

東京都教育長その人です!

東京都教育長とPTA会長の柴田周吉氏は高等師範の同期でした
鵜川先生の先輩にあたります
彼らが鳩首協議して、どこからも文句の出ない形で開設したのが
小山台高校の補習科だった・・・と考えるのが自然です

そして、柴田周吉氏こそは、桐蔭学園初代理事長です
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難産の末に補習科設置・・・鵜川昇先生のこと12

2008-01-27 12:26:35 | Weblog
小山台高校に補習科を設置するのは無理かなと
鵜川先生が思案していると

「方法はあるよ」

と知恵を授けてくれた先輩がいました

補習科設置を届け出て、許可が下りなくても
書類が返送されなければ
受理されたものとして行動しても構わないというものでした

柴田会長に相談すると

「よし、やれ」

と言われたので
卒業生の名で校舎使用願いを出し
補習科は設置されることになったのでした

ただし補習科のために教室を使うことはしませんでした
たまたま同窓会が買った土地があったので、それを利用したのです

そこには工作室と図書館がありました
工作室をつぶして補習科室にしたのでした
工作室の主任を説得したのは鵜川先生でした
彼は泣きながら、工作機械を外に運び出していたそうです・・・

なお、補習科の問題はまだありました
日比谷高校は既得権として許されていましたが
小山台高校の場合、現役の教師を使うわけにはいきませんでした
そこで予備校の教師に頼むことになりました

英語はラジオ講座で有名な西尾孝氏でした
小山台の教師をしたこともあり、面白い授業に人気がありました
ただし、その講師料の高額は驚くべきものでした

西尾氏の1時間の講師料は3000円でした
大学卒の初任給が1万円に満たない時代の話です

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否決された提案・・・鵜川昇先生のこと11

2008-01-26 12:24:55 | Weblog
鵜川先生の補習科設置の提案は職員会議で否決されました

賛成したのは二人だけでした
一人は校長の斉藤清氏
もう一人はPTA会長の柴田周吉氏でした

柴田周吉氏は三菱化成の重役でした
九州から東京への転勤にともない
ご子息が小山台高校に編入してきたのでした

子供の受験のこともあり、柴田会長は熱心に学校に来ました

柴田会長は鵜川先生と同じ高等師範の出身です

高等師範で同期の人が東京都教育長をしていたので
柴田会長は小山台高校の補習科設置を頼みに行ったのですが
一蹴されてしまいました

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補習科設置を提案・・・鵜川昇先生のこと10

2008-01-25 12:22:15 | Weblog
鵜川先生が小山台高校に赴任した頃
都立高校はいくつかの学区に分かれていて
小山台高校は第一学区で12の高校がありました

そのトップに日比谷高校がありました

高校進学は、総合選抜というものが行われていて
校長が集まり、成績表を見ながら選抜していきます

日比谷のようなトップクラスの高校は
オール5の子供でも選抜から漏れることがあり
入学試験は、ほとんど満点でないと、入学できなかったそうです

日比谷高校は補習科を設けて成功していました
この補習科は在校生を対象としたものではありませんでした

日比谷高校はきわめて自由な校風でした
在学中は、スポーツでも音楽でも好きなことをやり
高校生活を十分エンジョイして、入試に受かればよし
受からなければ、学校が用意した補習科で勉強すればよかったのです

補習科はもっとも優秀な教師が担当していました
ですから、日比谷高校の浪人生は予備校に行きませんでした

ただし、現役の高校生を教えるべき教師が
浪人生を教えているわけですから
本来なら、教育委員会が問題とすべきことではありました

鵜川先生は小山台高校に補習科を作ることを提案しました

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小山台高校に赴任・・・鵜川昇先生のこと9

2008-01-24 12:03:42 | Weblog
栃木高校をやめて
鵜川先生が赴任したのは、都立小山台高校でした
そこで先生がやりたかったのは進学指導でした

現在ほど進学率が高くなかった時代
進学を希望する生徒は皆とても熱心に勉強しました
先生は彼らの役に立ちたいと考えたのです

鵜川先生は国語の担当です

終戦直後は現代国語を教える先生がいませんでした
旧制の大学の国語科で教えるのは古典と漢文であり
現代国語はなかったからです
先生は吉田精一氏と著書を通して知り合い
好学社の高校教科書の現代国語の編修メンバーとなりました

また、本好きの先生は図書係りもしました
生徒に読書を勧めたかったからです
英語教師といっしょに図書係りをしながら
受験に出る文章を克明に調べ、出典や解説書を図書館に揃えたのです

ところが、その図書館が漏電で燃えてしまいました

復活のための寄付を募ると、当時のお金で100万円が集まり
蔵書は充実し、東大にもないような書物があると言って
卒業生が見に来ることもあったそうです

小山台高校は図書関系はすべて、鵜川先生に任せられていました
先生はいろいろな本を買い入れ
生徒達と読書会をしていました
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栃木高校の1年間・・・鵜川昇先生のこと8

2008-01-23 14:04:40 | Weblog
たった1年でしたが
鵜川先生にとって、栃木高校での1年は
教師としての仕事の楽しさや喜び、やり甲斐を知った
貴重な1年間だったということです

大好きな島崎藤村はもとより
漱石や鴎外のことを生徒に話して聞かせていると
生徒の方から、クラブ活動のようにして
時間外に話してほしいという要望がきました

いつの間にか、先生の周りに生徒が集まるようになっていました
宿直の時も、生徒がよく訪ねて来ました

生徒数人と美術教師を交えて、日光で合宿したこともありました
この合宿は、日光東照宮の由来を直接聞いてレポートしたいという
生徒達の熱心な要望に応えたものでした

その生徒の中に宇井純もいました

宇井純は当時から
足尾鉱毒事件を告発した田中正造のことなどを熱心に調べていたそうです
全国テストで10位以内に入る秀才であり、東大に現役合格しました

宇井純は東大で一度留年したことがあります
三原山で投身自殺した友人の遺体を
試験中であるにもかかわらず
身柄引受人になって、引き取りにいったからだそうです・・・

鵜川先生は後年、栃木高校での1年間は10年間にも感じると語っています
先生にとっては・・・そして教え子達にとっても
それほど濃密な時間だったのです


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誤解をもとに辞職・・・鵜川昇先生のこと7

2008-01-22 12:55:17 | Weblog
鵜川先生がたった1年で栃木高校をやめ、東京に出たのは
先生ご自身の希望であったこともたしかなのですが
校長がそれを望んでいたという事情もありました

鵜川先生はもともと文学青年であり、特に島崎藤村に傾倒していました
島崎藤村の全集は全て持っていました
しかし戦争中は未練を残さないために、それらを遠ざけ
戦後は生活に困って、全て売り払ってしまったのでした

栃木高校の教師となり
開いた教科書の最初は島崎藤村詩集でした
最初の一節を目にしたとき
懐かしさと喜びで震える思いだったということです

これで先生の文学青年の魂に火が点いてしまい
同人誌を作ることになったのです
ところが、そこに集まったのが共産党系の人だったために
先生はあらぬ誤解を受けることになったのです

共産党のトップと一緒に歩いているような教師は
即刻辞めてもらうべきだと、PTA会長に告発されてしまったのです
校長は弁護してくれたのですが
その機運は次第に広まっていきました
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