湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

歴史と同時代性

2016-02-29 18:52:52 | Weblog
日本の戦国時代を調べていて
何とも気になってきたのが、同時代のヨーロッパ情勢です
そこで調べてみると、こちらもまた”戦国時代”でした

1571年、「レパントの海戦」が起きました
この戦いで、ヨーロッパのカトリック連合艦隊はオスマン帝国を破りました
ヨーロッパ側が、初めてオスマン帝国に勝利したのです

1588年、「アマルダの戦い」では
スペイン無敵艦隊がイングランド艦隊に敗れています
なぜ、この戦いが起きたかと言えば
もともとスペイン王はイングランド王も兼ねていたのです
それをエリザベス1世が覆したため、この戦争になったのです
この戦争は、スペインとイングランドの覇権争いであると同時に
カトリック対プロテスタントという性格もありました

「アマルダの戦い」には面白い話もあります
スペイン側とイングランド側の日付が10日ほど違うのです

皆さん、どうしてか分かりますか?

暦が違うのです
スペインはグレゴリオ暦ですが、イングランドはユリウス暦だからです
ユリウス暦は、ユリウス・カエサル即ちジュリアス・シーザーが定めたものです
1600年以上前に定められ、ヨーロッパ全域に普及したユリウス暦は
この時代には、10日程のズレが生じていたのでした
このズレを解消するために
ローマ法王グレゴリウス13世が定めたのがグレゴリオ暦です
現在、世界中で使われていて、我が国でも使われている、いわゆる”西暦”です
しかし、カトリックの総本山が作った暦法です
プロテスタントのイングランドは、すぐには採用しなかったのです

1982年(天正10年)天正遣欧少年使節がローマに派遣されます
イエズス会の宣教師の発案により
九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として
4人の少年がローマに派遣されたのです
彼らは各地で歓迎され、なんとグレゴリウス13世にも謁見しています
グレゴリオ暦の制定者に、当時の日本人が会っていたとは!
私は、これを知って、大変驚き、感動しました

1587年、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布します
1590年、遣欧使節は帰国します
すでに秀吉によりバテレン追放令が出されていましたが
1591年、彼らは秀吉の前で、西洋音楽を演奏しました
彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機により
日本語書物の活版印刷が初めて行われ、キリシタン版と呼ばれました

以上、ちょっと雑然となってしまいましたが
年代を比べながら、日本とヨーロッパで
同じ時代に何が起きていたのか、ご理解いただきたいと思います

歴史を学ぶ上で、注意すべきことの一つは
同じ時代に、別の場所で
どんなことが起きていたかを、同時並行的に知ることです
特に、近代においては
それらが相互に関連していて、無視できないからです

近代とは

”世界が同時代性を持った時代”

と、言うことができると思います




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歴史と想像力

2016-02-28 19:04:40 | Weblog
歴史は面白い
このところ、そう思い続けています
調べれば調べるほど、面白い出来事を知り
こんなに面白い世界があったんだと、驚くばかりです
ただし、面白い話に出会えればということですが・・・

それと言うのも
歴史の本は、必ずしも面白くありません
何故かと言えば、事実にこだわり過ぎて想像力が乏しいか
学会の流行に左右されて、事実を無視するとか
歴史学者の発想が貧弱であることによります

歴史の面白さは、事実を基にする想像です
これがなければ、歴史は成り立ちません
残っている資料で、分かる事実は限られています
過去を知るための資料の大半が失われ、分からなくなっている以上
想像力の乏しい人には歴史は語れません

日本史は、歴史学者が書く歴史書よりも
歴史小説家の書く小説が人々の教養になっています
この分野だけは、小説家の方が、学者よりも影響力が強いのです
当然と言えば当然です
歴史を語るには”想像力”が不可欠であり
これは小説家の才能そのものだからです



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豊臣家を亡ぼした者達

2016-02-27 11:53:17 | Weblog
小西行長の裏切り行為について、私はちっとも知りませんでした
今回、それを知って驚きました
「朝鮮出兵」の時の朝鮮側の英雄、李舜臣提督には
小西は、事前に、加藤清正軍の上陸地点を教えて
待ち構えて、迎撃するように伝えたということです
ただし、さすがに李舜臣側も、小西を信用せず
加藤清正軍は、迎撃されずに済んだそうです

こんな調子ですから
小西行長が、行く先々で日本軍の妨害をしていたのは明らかです
「朝鮮出兵」の後、豊臣家は
福島正則や加藤清正と、小西行長や石田三成との対立が深まり
ついには「関ヶ原の戦い」において
福島・加藤は徳川方につき、石田・小西と戦います
この戦が豊臣家の没落を決定的にしたのは歴史の示す通りです

従前、豊臣家における福島・加藤と石田・小西の対立は
武断派と官僚派の対立のごとく言われてきました
本当は「朝鮮出兵」における小西行長の裏切りが理由だったのです
福島正則や加藤清正に言わせれば
自分達こそ、太閤秀吉の遺志の継承者であり
小西行長は裏切り者、石田三成は裏切り者への協力者に過ぎません
福島・加藤にしてみれば
「関ヶ原の戦い」は、豊臣の正統を決する戦いだったのです
血筋の正統ではなく、太閤の政策の正統な継承者を決するという意味で・・・

血筋だけから言っても
福島正則や加藤清正は豊臣秀吉の母系の親族です
この点でも、秀吉に拾われ、出世した石田三成や小西行長とは違います
福島正則や加藤清正からみると
秀吉亡き後の豊臣家は、裏切り者に乗っ取られたように見えたでしょう
いずれにしろ、石田三成、小西行長、淀君・・・が
結果として、豊臣家を亡ぼしてしまいました
太閤の遺志を裏切った者達の末路でした


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東アジアの英傑

2016-02-26 14:36:51 | Weblog
明国は、豊臣秀吉による「朝鮮出兵」の約半世紀後に亡びました
満州族のヌルハチと、彼の後継者に倒されたのです
満州族は、明国より強力な清国を立てます
清国は、江戸幕府よりも長く、20世紀の初めまで存続します
最後の皇帝がラストエンペラー溥儀です

豊臣秀吉は亡くなりましたが
シナは、弱体の明国に代わり、清国が誕生したため
海防策が実行できて、ヨーロッパ勢力の進出を防ぐことが出来ました
日本、シナ、朝鮮の東アジア三国の独立が保たれたのです

豊臣秀吉、徳川家康、ヌルハチ・・・
16世紀から17世紀にかけて
東アジアに、何人かの英傑が現れたおかげで
この地域の人々は、地球上の他の地域の人々に比べ
虐殺や搾取を受けずに済みました
この地域に生まれ育った者として、感謝の念を感じずにはおれません
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朝鮮出兵は無駄ではなかった

2016-02-25 17:01:59 | Weblog
戦国時代と現代は違います
しかしながら、戦国時代に身を置いて考えると
戦国時代の人々は、特に名だたる武将は
驚くほど、現代人に近い発想をしていると思うことがあります
国際情勢を見据え、平和と繁栄のために、心を砕いています

朝鮮出兵が、もし、小西行長を指揮官にしなければ
そして、秀吉が、あと10年ほど健康で長生きしたら
おそらく、秀吉は明国を征服し
ヨーロッパとの対決に備えたでしょう
そして、少なくとも、東アジア地域では、彼らを圧倒したでしょう

そうなれば、江戸時代の鎖国は別の形をとったでしょうし
近代における戦争の多くは、回避できたようにも思われます
日本が鎖国をしている間に
世界は、欧米の植民地となり、激しい搾取を受け
多くの民族が、虐殺、絶滅、そして奴隷とされました

日本が日露戦争に勝利してから
やっと、世界の植民地支配に変化が見えてきたのです
それまでは、欧米による世界征服は永遠に続くものと思われていました
日露戦争における日本の勝利が、世界中に植民地解放運動を起こし
さらに、大東亜戦争が、その流れを決定的にしました
日本は、戦争には負けましたが、大東亜戦争の後には
かつての欧米植民地のアジア・アフリカから、続々と、新興独立国が現れました

江戸時代の「鎖国」は
日本人は、日本だけの特異な政策だ思っていますが
あれは、あの時代の東アジアスタンダードでした
日本は、オランダ以外に、シナとも朝鮮とも貿易をしていました
日本、シナ、朝鮮の3国は、海禁策により、ヨーロッパの進出を抑えたのです

いわゆる「鎖国」は、国を閉ざしたのではありません
貿易と入出国を厳密な国家管理としたのです
つまり、近代国家なら、どこでもしていることを
東アジア三国は、いち早く、17世紀に実現していたというわけです
現代日本もまた、その意味では「鎖国」をしています
漁港から船に乗って外国に行ったり
外国で買った商品を、浜から直接荷揚げすれば”犯罪”です

海禁策は、東アジア三国が海賊行為を抑えるために採用した政策です
そして、その最大の狙いは
最悪の海賊、ヨーロッパ人の植民地政策を抑えるためでした
したがって、日本ではキリスト教禁教令とセットの政策でした
キリスト教の宣教師は、植民地支配の先兵だったからです
宣教師と、貿易商、海賊、海軍との間に、区別が無い時代でした

東アジア三国の海禁策が成功したのは、朝鮮出兵のおかげです
戦争は無駄ではなかったのです
小西行長の妨害工作にもかかわらず
日本軍は、朝鮮半島全域を一気に落としました
加藤清正は、満州地域にまで進出しています
この戦争は、16世紀における、世界最大規模の戦争でした
この結果に驚いたヨーロッパ人は、東アジアに手を出せなくなったのです
日本だけでなく、シナや、その属国の朝鮮に、うっかり手を出せば
日本は黙っておらず、恐るべき反撃をすることを悟ったのです

世界中がヨーロッパに支配され、搾取された17世紀、18世紀
取りあえず、アジア三国は、その難を免れました
そして19世紀・・・
東アジアの状況は、16世紀に酷似してきました
その結果、豊臣秀吉による朝鮮出兵の再現を
日本は、せざるをえなくなりました
やがて、シナ大陸も制圧し、最終的には敗れたものの
日本は、世界の植民地主義と人種差別を終了させました
豊臣秀吉が長命で健康であれば、17世紀に実現していたかもしれません



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平和をもたらす軍備と軍事バランス

2016-02-24 18:29:36 | Weblog
このところ戦国時代のことばかり考えていて
心が病んでしまいそうです
私は平和主義者であり、戦争は嫌いです
人に殺されるのは嫌ですし、人を殺すのも嫌です
そういうことをしなくてすむ時代に生まれたことを
心の底から感謝しています
できれば、この平和が、いつまでも続くことを祈ります

繰り返しますが、私は平和主義者です
戦争は、何が何でも、避けたいと思います
そのためには、私は、日本は強い軍事力を保有すべきだと考えます
日本の経済力と技術力をもってするならば
世界有数の軍事力を持つことが可能でしょう
そうすれば、どの国も
日本と戦争をしようなどとは考えないはずだからです

戦国武将達は、軍事力を整えました
あれは侵略のためではなく、侵略されないためでした
誰もが、心の底で
この戦国の世を、一日も早く終わらせようと考えていました
豊臣秀吉も徳川家康も、自分に服従する者には、寛大に対処しました
かつて自分を裏切り、戦った者の命すら助けています
彼らは、とにかく、平和の到来を望んだのです

日本が、江戸時代に、太平の世を迎えたのは
武士達の軍備は維持したまま、上手に軍事力のバランスをとったからです
こうなると、戦争をしても
得るものより、失うものの方が多くなるので、誰も戦いません
人は馬鹿ではありません
得をしない行為に、命は賭けません
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「朝鮮出兵」と小西行長の面従腹背

2016-02-24 11:44:00 | Weblog
昨夜NHKテレビを観ていたら
小西行長の特集をしていました
テーマは「交渉人」です
小西行長は、豊臣秀吉の家臣として
「交渉人」として抜群の能力を発揮し、出世したというのです

私は、まったく別の角度から、この番組を観ていました

小西行長は「朝鮮出兵」の指揮官です
自ら志願して指揮官になったのです
「朝鮮出兵」にもっとも積極的に賛成していました

小西行長は、キリシタンでした
親もキリシタンであり、幼時に洗礼を受けた正真正銘のキリスト教徒でした
豊臣秀吉により、キリスト教の禁教令が出された後も
自藩の中に、キリスト教徒や宣教師を匿い続けました
秀吉は、こうした事実を掌握していましたが、小西行長を重用し続けました
当時のヨーロッパとの貿易は宣教師が窓口となっていたため
小西行長により、秀吉は、対ヨーロッパ貿易の大きな利益を得ていたからです

秀吉は、貿易の利益は得たいがキリスト教は禁じたい
小西行長は、秀吉の庇護は受け続けたいが、キリスト教は守りたい
二人の二律背反の思いが、小西行長の面従腹背を生みました

秀吉の「朝鮮出兵」の意図を最もよく理解していたのは小西行長です
秀吉は、シナ大陸を支配し、その後はヨーロッパと対決し
キリスト教及びキリスト教徒の諸国を圧倒しようと考えていました
ヨーロッパキリスト教諸国による世界支配を打破するためです
小西行長としては、なんとしても、やめさせたい戦争でした

いくら反対しても、秀吉がこの戦争をやめることはあり得ない
そのことが分かっていた小西行長は
自ら指揮官となって、戦線を混乱させ、秀吉の意図を挫くことにしたのです
朝鮮側にも通じ、作戦を失敗させるべく動いたのでした
小西行長は、キリシタンであり、無自覚ながら
ヨーロッパ植民地政策のアジア側協力者になってしまっていたのです

小西行長は
朝鮮側に、50艘の軍船を出して、数艘は日本軍の前を横切れと指示を出し
日本側には、朝鮮は千艘の軍船を用意し
大軍をもって、日本軍を待ち構えているとデマを流します

こうした謀略により
小西行長は、ヨーロッパ植民地勢力の利益を守り
秀吉の構想を妨害し続けたのでした

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豊臣秀吉の特異性

2016-02-23 19:14:03 | Weblog
豊臣秀吉について考える度に
この人は特異な人物だと思わざるを得ません

戦国時代は下克上の時代であり
足軽から大名に出世することも出来たと言います
しかし、そんな事例は、秀吉と彼の家臣くらいしかありません
ほとんどの大名は、織田信長、徳川家康、伊達政宗・・・
皆、それなりの武将の子であり
彼らの家臣もまた、武士の子です

豊臣秀吉だけが、彼自身も、彼の家臣も
武士の子ではない者が出世しているのです

そして・・・
豊臣秀吉の発想もまた、飛び抜けています

あの時代に
スペイン王や明の皇帝に、臣下の礼を要求するなど
世界中で、豊臣秀吉以外、誰も、思いつかなかったでしょう
しかも、誇大妄想ではなく、実力の裏付けもありました
スペイン王も明の皇帝も
秀吉とは、まともに戦うことなど出来ませんでした

秀吉が、あと10年、健康で長生きしたら
明を征服し、東アジアの盟主になっていたかもしれません
そうなれば、その後は、スペインやイギリスと対決したでしょう
豊臣秀吉の後継者達が、秀吉の遺志を継いだら
世界史が、まるで違ったものになっていた可能性があります

その後の世界史を思うと
もし秀吉が健康で長命であったなら
アジアや南北アメリカの原住民、そして中東やアフリカの人々も
ずっと幸せな数百年間を過ごすことが出来たでしょう
ヨーロッパ列強の過酷な植民地搾取の犠牲になることはなかったからです

戦国時代の最中は、豊臣秀吉も徳川家康も
商人、宣教師を問わず、ヨーロッパ人と付き合っていました
情報や物資を得るためです
しかし、秀吉も家康も
ヨーロッパ人、そしてキリスト教徒を嫌っていました
彼らが人身売買をするからです
いずれ、この悪習は絶ち切らねばならないと考えていました

戦国時代のことですから
日本国内でも、人権など顧みられることはありませんでした
しかしながら、人間を動物のごとく扱う人身売買は
日本人には理解を超えた世界だったのです
東南アジアで、日本人の少女が、裸のまま檻に入れられて
売買されているのを見た当時の日本人は、大きな衝撃を受けたのでした
豊臣秀吉も徳川家康も、こうした状況を許しがたいことと考えていたのです

秀吉も家康も、他の有力大名も
ヨーロッパ諸国の世界侵略を明瞭に理解していました
対抗策も、それぞれ考えていたのです
その中でも、豊臣秀吉の考えは頭抜けていました
彼らと軍事的に対決し、抑えつけようとしたのですから・・・



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秀吉の行動から見える世界戦略

2016-02-22 16:35:27 | Weblog
私は徳川家康が好きです
ところが豊臣秀吉は、どうも好きになれずにいました
「朝鮮出兵」のことも、その理由の一つだったかもしれません

最近、戦国時代を勉強し直して
豊臣秀吉へに意識が変わり始めています
彼が国際情勢を正確にとらえていて
超大な構想の持ち主であったと考えるようになったからです

豊臣秀吉にとって、天下統一は最終目的ではありませんでした
その先に、世界を植民地化するヨーロッパとの闘いが構想されていました
そう考えることで、彼の行動の意味が理解できるのです

小田原攻めについて考えてみます
この城は、武田信玄も上杉謙信も落とせなかった堅城です
だから秀吉も力攻めをせず、城側が降伏するのを待った
そのように考えることが妥当でしょう

しかし、私の考えは少し違います
すでに天下統一が見えていた秀吉は、次の段階を考えていたのです
すなわち「朝鮮出兵」を考えていたのです
ともに日本軍として戦うのですから、双方の損耗は少ない方がいい
感情的対立も最小にしたい、ということです

伊達政宗をはじめとして、東北の諸将を呼び寄せたのも同じ理由です
力攻めにする気が無いのですから、戦力は不足していません
秀吉は、すでに腹案として
小田原北条氏滅亡後、関八州を徳川家康に与えることを決めていました
徳川家康の関八州統治が上手くいくように
東北諸将の服属を確実にしておきたかったのです

もし、秀吉が、日本の天下統一だけが目的であったなら
最大のライバルである徳川家康と、東北諸将を争わせ、双方を疲弊させ
漁夫の利を得る戦略をとるべきでした
そうしなかったのは
秀吉は、小田原攻めで、国内問題を終わりにするつもりだったからです

秀吉は臣下に気前よく領地を与える武将です
これは、秀吉の生来の気前良さばかりが理由ではありません
秀吉の頭の中には世界地図があり
日本は小さな島国であることを明瞭に認識していたからです
そんな小さな土地は、秀吉にとっては、さほど重要ではなかったのです


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戦国大名の国際感覚

2016-02-21 16:33:00 | Weblog
数年前、東北のある市の関係者から
震災復興事業をしたいので、参加して欲しいと要請があり
東日本大震災の被災地を視察したことがありました

津波の被害状況とは別に、私には忘れられない思い出があります
石巻の月浦にある支倉常長遣欧使節の記念碑を見たことです
驚きました・・・400年も前に、自前の船で
東北の港を出港し、太平洋を横断した人々がいたことを

支倉常長は、伊達政宗の命により
太平洋を横断し、メキシコのアカプルコに至り
そこからは、陸路で大西洋側に進み
スペイン艦船に乗ってスペインに渡りました
さらに陸路で、ローマまで行き、ローマ法王に謁見したのでした

勝海舟や福沢諭吉が咸臨丸に乗って太平洋を横断する250年も前です!
勝や福沢は、自分達の関わった、日本人による太平洋横断の快挙を
偉大な大事業であると、後々まで語っています
彼らは支倉常長の事績を知っていたのでしょうか?

私が驚いたのは、伊達政宗の発想です
国際情勢を踏まえた上での、徳川幕府に対する対抗策です
もし徳川が、伊達をつぶしにかかるなら、あえて戦う覚悟だったのです

徳川家康の外国人ブレーンは
ウイリアム・アダムスはイングランド、ヤン・ヨーステンはオランダ人であり
どちらも新教(プロテスタント)です
これに対し、伊達政宗は
旧教(ローマ・カトリック)勢力を味方に付けようとしたのです

伊達政宗は、もし存亡の危機に立たされたならば
日本を舞台に、旧教と新教の代理戦争に巻き込んでも
戦い抜くつもりだったのです

伊達政宗の、徳川に対する恐れは強く
考えられる限りの、あらゆる方策に手を付けていました
たとえば、大阪の陣の後、真田幸村(信繁)の遺族を匿っています
彼の頭の中には、国内国外問わず、ありとあらゆる情報がインプットされていて
打てるだけの手を打っているのです

私が最も感銘を受けたことは
私には、東北の有力大名という認識しかなかった伊達政宗が
国際情報に通じ、地球的規模で物事を考えていたことです

あれ以来、私の戦国大名達への認識が変わりました
彼らは、日本地図ではなく、世界地図を見ながら、戦略を練っていたのです
そして”やらなければ、やられる”という「弱肉強食の論理」を
地球規模で考えていた人々だったのです

私が、豊臣秀吉の朝鮮征伐を考える時
真っ先に思い浮かぶのが、伊達政宗の遣欧使節のことなのです
ちなみに、支倉常長は天皇家の血を引く名門の出身であり
しかも、朝鮮征伐にも参戦しています







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