湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

初島の朝

2013-08-31 06:05:26 | Weblog
今日帰ります。
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初島の朝

2013-08-30 06:02:31 | Weblog
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藤圭子の死

2013-08-29 18:58:27 | Weblog
藤圭子さんが亡くなりました
自殺とも言われています

藤圭子さんは、若い人には
宇多田ヒカルさんのお母さんとして知られています
しかし私達から上の世代にとっては
宇多田ヒカルこそ、藤圭子の娘なのです

私は書店の中で
宇多田ヒカルの歌が流れるのを、初めて聞いた時
なんだか、ゾクゾクするような、不思議な感覚を覚えました

「藤圭子の声だ!」

そう、心の中で、叫びました

藤圭子が、こんな歌を与えられていたら
どんなに素晴らしい歌手になっていただろうか?
ポップな歌を”女性の肉声”そのもののような藤圭子の声で歌われたら
日本的でありながら現代的でもあり、しかも情感に訴える
素晴らしい流行歌ができたのではないでしょうか?

藤圭子は、私より少し上の世代です
私は芸能界が彼女に与えたイメージに、いつも違和感を感じていました
才能あふれる歌手を、なぜ、あんなイメージの中に押し込めておくのだろう?・・・と

森進一は
若い才能ある作詞者や作曲者の歌で
イメージチェンジを図り、成功しました
美空ひばりも、そうです

才能ある一流歌手は、過去のイメージを変えても、十分通用するのです
藤圭子は、まさしく、才能ある一流歌手だったのですから・・・

私は、宇多田ヒカルの存在を
藤圭子の、日本の芸能界へのリベンジだとさえ感じていました
娘の活躍を通して、自身を生かすことのできなかった日本の芸能界を
藤圭子が、見返している様に感じたのです

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初島着

2013-08-29 14:34:45 | Weblog
初島の港にて
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初島へ

2013-08-29 13:38:10 | Weblog
初島へ向かっています
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結婚の意味

2013-08-28 16:53:18 | Weblog
私の幸せと、私の無気力
結婚以来、私が自覚する、それまでの人生に無かった感覚です
結婚というものが、欲望や不安から来る苛立ちを
見事に打ち消してしまったのです

結婚は、私に幸せをもたらし
同時に、独身時代に悩まされた多くの感覚を消しました
不安や孤独、苛立ち・・・です
満ち足りた感覚なるものを
私は、それまでの人生で感じたことがありませんでした

このことが、私には、とても意外でした
結婚というものを、私は
人間に、そこまでの変化をもたらすものだとは考えていませんでした

まして、自分が、結婚によって
そこまで変化するものとは考えていませんでした

私の人生は、結婚によって大きく変わりました
ものの考え方がしっかりし
建設的な発想と行動をとるようになりました
生半可な知識や発想を軽蔑し
現実的な裏付けのある考え方や、実際的なアイデアを好むようになりました
その一方で、宗教的なものを尊ぶようにもなりました

自分が”大人”になったのは、間違いなく、結婚が契機でした
私が独身者に結婚をすすめ、子供を持つことを勧めるのは
こうした自分の経験によるものです
結婚をし、子育てをする過程で、私は”大人”になったのです

時々、無気力に陥るのは
独身時代の情熱の対象と、結婚後のそれが、あまりに違うため
方向転換のための感情の空白状態なのだと思います
もう、独身時代の行為に情熱を感じない自分と
新しい情熱の対象を見出しかねている自分の戸惑いの時間なのです
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国を亡ぼす政治家の悲しき習性

2013-08-26 15:23:21 | Weblog
安部首相は日本の政治家の中では際立って優れた人だと思います
短かった第一次安部内閣では、防衛庁を防衛省に格上げしました
これだけでも、歴代内閣としては画期的な業績です

しかしながら、安部さんの気の弱さや決断力の無さ、人の善さ・・・
この人は本当に政治家が務まるのだろうかと思えるほどです
靖国神社の参拝にも行かず、消費税増税を拒否することもできず
憲法九条改正など、選挙ですら主張できませんでした

政治家がお人好しが増えたのは確かです・・・前任の野田さんも、そうでした

ただし、野田さんも安部さんも、人が良い様に見えるのは
頭の悪さや責任感の乏しさ、公共心や愛国心の欠落と無縁ではないでしょう
自分だけが、自分を取り巻く連中から浮き上がらないように
臆病にふるまっているだけだからです

野田さんは、経済のことがまったく分らずに財務大臣をやり
分らないから官僚の言い分を丸呑みにし
その結果、総理大臣への道がひらかれ
彼としては、この上も無い幸運に恵まれ、総理大臣の地位を得ました

もう、後は、何も要らなかったのでしょう
でたらめな政権運営をし、公約破りの増税を決定し
最後は、事実上、政権を投げ出しました
負けるための総選挙をし、内閣も政権党も崩壊しました
彼の政権は、ただの財務省の玩具となってしまったわけです

自民党が、選挙もせずに首相の地位をたらいまわしにし
呆れた国民に見放されると、代わりに政権についた民主党も同じことをしました
日本国民は、これを許しませんでした

政治家は皆、大臣や総理大臣の肩書が欲しいだけで
国民のために何かをやるという意志は乏しいようです
政権が代わっても、これだけは変わりません
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靖国神社再参拝

2013-08-25 17:03:09 | Weblog
今日は、家族と靖国神社に行きました。
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8月の特別な感覚

2013-08-24 13:51:20 | Weblog
夏は、特別な季節です
特に、8月は、お盆があるせいもありますが
私にとって、特別な季節です

毎年、この時期になりますと
私は時間が止まったような気分になります
子供時代に戻ったような気分です
夏休みだけが、自分らしく生きられた時間だったからでしょうか
どうも、そんな気がするのです

自分らしく生きるということは
私の場合、あまり何もせず、自己の妄想に耽溺することかもしれません
私は、旅をして、見聞を広めることも好きですけれども
いつも旅をしているほどの余裕はありませんから
家の中で、心の旅をしている時間が、自分らしい時間なのです

昨日、犬の骨を庭の片隅に埋葬しました
すると、1匹だけ残った飼い犬が、その埋葬場所の横に座っていました
分るのですね・・・犬畜生などと言ってはおれません

写真を撮ろうとして構えると、その場所から動いてしまいました
そして、その後は、いくら呼んでも、元の場所に戻りません
なんだか、悪いことをしてしまったみたいです
写真を撮るのはやめました

4年前、飼い犬を埋葬した時、埋葬の後で雨になりました
昨日も、埋葬の後、少しだけ、雨が降りました
涙雨は、我が家の葬儀に付きものです

幼いころを思い出すと
家の中には、私の知らない祖先達の霊がいて
私を見守っていてくれていたような気がします
そんな感覚を、子供時代の私は、当たり前に持っていたように思えるのです

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難しい言葉や外来語を多用する人

2013-08-23 12:16:58 | Weblog
難しいことを言う人は頭のいい人だという誤解があります
でも、私に言わせれば、そういう人は、どちらかと言うと、頭の悪い人です

例えが汚くて申し訳ありませんが
胃腸の悪い人が、食べたものを上手く消化できず、そのまま出て来てしまうように
難しい言葉を使う人は、そのことを正しく理解できていない場合が多いのです

日本の知識人の伝統として
難しい言葉や外来語を多用する傾向があります
私の見るところ、これは仏教伝来以来の伝統です

未だに、日本のお寺では、日本語訳をしないお教を読んでいます
坊さんの解説がなければ、何を言っているのか分りません
しかし、人々は一応、お教を有り難く拝聴するふりをしています
本当は、意味を知りたいとも思わないらしいのです
あまり関心がないのですね

仏教界は、僧侶の権威を守るため
民衆にお教の意味を教えず、ひたすら有り難がらせることを伝統としました
死者の霊を冥土に旅出させるための言葉が、外国語であるというのも
思えば、奇妙なことです

自分が分らない言葉で、あの世への道筋を示されたところで
霊達は、本当にあの世に辿りつけるのでしょうか?
そんな疑問を、多くの人は、思いもしないのです
おそらく、人々は、お教も僧侶も信じていないのでしょう

死後の世界のことは、どんなに考えても分りません
どうせ分らないことなのだから、分らない言葉で唱えられた方が抵抗がないわけです
お教が、千年以上も翻訳されること無く、現代まで続いている合理的根拠でしょう
葬式が終わってしまえば、もう用はないからです

お教はそれでいいのですが
実用の世界で、これをやられては困ります
現実には、無内容なくせに権威を守りたい人達が
仏教界の手法を援用しています・・・困ったものです

難しい言葉や外来語を多用し、人に分るような解説を出来ない人は
馬鹿で不誠実な人ですから、あまり信用しないようにすることが肝心です

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