湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

技術や実用性の裏付けによって科学は成立している・・・私の思想の基礎13

2014-01-31 13:04:26 | Weblog
科学は、独立した学問として成立しています
自然科学は、多方面の独立分野を包含しつつ、壮大な体系を築き上げています
分子生物学の発展は、医学から物理学までを一直線に結んでいます

科学は、不動の、人類の知の体系となりました

しかし、そこでもなお、未解明の問題は無限にあり
定説への異論も消えることはありません
科学は、けして、完結した体系ではありません

科学は、真理の探究という側面を持つものの
実際には、真理として評価されているのではありません
科学技術となり、人類の欲望や夢を実現する手段として、人々から評価されているのです

ここに、社会における科学の位置付けがあります
学者の中のは、科学に実用性を求めるべきではないと主張する者がいます
日本では、ノーベル賞の受賞者などに、そうした主張をする人がいます

実に愚かな主張というしかありません
技術の裏付け無くして、現代の科学は成立しません
自分自身が実用技術の手助けを借りながら
そのことへの感謝の気持ちを持たず
自分自身の理論面の国際評価だけに満足と自尊心を持つのです

まして、自分の研究予算や給与が
国民の納税した税金によって賄われているという意識がありません
こうした視野の狭い研究者が、科学への誤解を広めるのです

科学が真理の探究だと考えるから
実用を離れた科学的知識の探求に正義を感じてしまうのです

科学といえども、人間が創り上げた学問です
完璧などということはありません
実験や観測が厳密であれば、高い実用性があるということなのです
理論の正しさではなく、長い歴史を経た実用性の高さによって
科学技術は大衆の支持を得たのです

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科学は民主主義の文化・・・私の思想の基礎12

2014-01-30 10:39:06 | Weblog
自由が平等をもたらすことについて
もう一つ、科学技術の発達の歴史的役割があります

人類が重い肉体労働を強いられていた時代は
どうしても、力の強い者が有利でした

ところが、科学技術の発達により、力仕事が機械に置き換えられるようになると
体力があるということが、絶対的な優位とはならなくなりました
現代人に求められるのは、物理的な体力ではなく
実務に支障を起こさないための心身の健康です

科学技術の発達は
科学者や技術者、企業家・・・らの自由な発想によるものです
けして国家権力の強制によって発達したものではありません

共産主義国は、自由主義国の科学技術を盗むことで
かろうじて、科学技術の水準を維持していました

旧ソ連は、自動車も冷蔵庫も、原爆や水爆も作ることができました
ミサイルも、宇宙ロケットも、人工衛星も作りました
しかしCDラジカセを作ることはできませんでした
模倣には限度があるのです・・・自由には勝てません

ここで科学技術とは何かということを考えてみましょう

科学を

”自然の真理を探究すること”

と、考える人は多いでしょう・・・私は、その様には考えません

科学は

”人間的共通性を探求する学問であり文化”

なのだと考えます

その簡単な例が数学です
数学の答えは、王様が解いても乞食が解いても、同じなのです
科学の言語として、数学が重用されるのは
数学的厳密さは、人種や宗教の違いを超えて、人類共通だからです

科学的厳密さは、人間的共通性の探求の中で生まれたのです
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自由が平等をもたらす・・・私の思想の基本11

2014-01-29 14:30:42 | Weblog
社会に階級や差別があるのは、私も嫌いです

ところが
平等主義は、結果として、とんでもない差別や階級を作ってしまいます
これが、共産主義の実験によって、人類が知るところとなった現象です

平等社会は実現できないのでしょうか?

私は、そうは考えません
個人の自由が発達すれば、結果として、私達は平等を手に入れられます

人が自由に生きていると
結果として、階級や差別の無い社会が実現するからです

収入や所得の差にこだわる人は
お金で買える商品やサービスへのこだわりが強すぎます
愛情や家族は、お金では買えません

人と人との関係も、お金にこだわる必要はありません
そんなことに関係無く、人は仲好くなれるし
お金で人を見るような人とは、本当の友情も愛情も成り立ちません

確かに、収入が近い人の方が付き合い安い面はあります
それは、家が近い人の方が付き合い安いといったことと、本質的には、変わりありません
近所に友達がいれば、付き合い安いですけれど
近所に住んでいることを理由に友達になるということはありません

人の10倍の収入があるからとって
人の10倍のカロリーを摂取することはできません
10着の服を同時着ることもできません
それに、どんなに収入が増えても、1日は24時間しかなく
これは誰にとっても平等です

世の中は、案外、平等に出来ているのです
お金で買える商品やサービスにこだわり過ぎる人が、金銭的平等にこだわるのです
お金で買える商品やサービスは、他人が用意したものです
自分の喜びは、他人から与えられるのではなく、自分で創り出すものです

お金は大事です・・・しかし、お金で買えるモノには限度があるのです
お金を、絶対的評価の基準にするのは間違いです

どんな高額なレストランの料理にも満足できない人が
創意工夫をして、とんでもなく美味しい料理を作ったとしたら
そして、その人がレストランを開業するならば
お客さんがたくさん来て、結果として、お金持ちになれるでしょう

お金というものは、人々が喜ぶ行為をした人に、社会が与える配当なのです
そういうことを学校で教えないから、子供達が努力の方向を見失うのです
学校教育の乱れも、背後には、共産主義思想の影響があるのです

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平等思想は絶望的な不平等をもたらす・・・私の思想の基本10

2014-01-28 14:10:53 | Weblog
日本人が共産主義思想に共鳴しやすい理由は
伝統的な日本の農村の生活形態が共産主義的だったからです

日本中を旅して、特に農村部を見てみますと
ほとんどの集落は、戸数10数戸から、せいぜい2~30戸が
肩を寄せ合うように集まっています
それが日本社会の基本的な生活単位であると言っても良いかもしれません

「共産主義は人口100人程度の村なら実現する」

・・・と言った経済学者がいるそうです
まさに、その、人口00人前後の生活単位が
日本の農村の基本だったのです

共産主義の基本である平等主義を
現代の日本人が、民主主義の原理のごとく思いこんでいる原因の一つです
すっかり文明化したように見える日本人ですが、伝統的な思考に囚われているのです

私自身、平等主義には魅力を感じます
しかし、現実に、それが不可能であることは、あまりにも明らかです
人間は生まれつき不平等ですし、生きている限り、そして自由があるかぎり
他人と同じにはなれるわけがなく、結局、それは不平等ということになってしまうのです

人間の平等なんて
頭上で水爆が爆発し、一瞬にして蒸発してしまうような状況でもないかぎり
死の直前まで、実現しません
一瞬にして蒸発してしまうなら
貧富の差も、男女の差も、人種や宗教、年齢の差も・・・関係ありません
才能や美貌も・・・関係ありません

平等思想を実現しようとすれば、人間の自由を奪い
行動の自由を規制する方法でしか実現できません
高額所得者に重税を課するのも、金銭を使う自由を制限すわけですから
自由を奪う方法の一つです

平等思想は、自由を奪う側と奪われる側という、絶望的な不平等を作りだすのです

平等思想は、人々から自由を奪い
緩慢な、あるいは権力による強制で、人々から生命力を奪うシステムを構築します
共産主義は、まさに、そういう制度であり
現代の日本の税制は、その方向に突っ走っています

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民主主義は多数決より「個人の自由」が重要・・・私の思想の基本9

2014-01-27 18:37:26 | Weblog
自由は土地の私有権が確立していなければ、担保できません
そして、自由の無いところに、民主主義は存在できません
一人一人の人間が、自由に見たり聞いたり考えたりできなければ
民主主義の原理である多数決は、間違った方向に進むでしょう

多数決が正しいのではありません
いくら考えても、正しい答えが出ない場合、多数決で決するしかないのです
なるべくなら、多数決など採らず、誰もが正しいと思われる決定がなされるのが望ましいのです
なんでも多数決が正しいとしたら、一種のニヒリズムです

科学的真理などは、初めは、少数者の主張から始まります
実験と観測を積み重ねながら、少しずつ賛同者が増えていき
やがて、多数の人々が信じるようになるのです
真偽を多数決で決めたら科学ではありません

私は民主主義の概念の中で、言論の自由を重視します
言論の自由が無ければ、多数の横暴がまかり通り
もはや民主主義ではなくなるからです
あくまで、個人の自由が確立した上での民主主義なのです

共産主義やファシズムは、多数決原理を盲信するニヒリズムです
彼らがそれを民主主義と呼ぶのは、とんでもない欺瞞です
科学の例が明らかにするように、多数決では真理に到達できません
多数決は、あくまで、最後の手段なのです

民主主義の根幹は個人の自由です
一人一人が、自由に行動し、思考するから、真実が見えるのです
真実や真理は、誰かから強制されて認識するものではありません
あくまで自由意志で、一人一人の人間が認識するのです・・・信じるのです

何よりも大切なのは”自由”なのです
そして”自由”を現実的に担保できるのは

”土地の私有制”

なのです
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安藤泉さんの訃報をうけて

2014-01-27 14:22:32 | Weblog
安藤泉さんが亡くなられたと、先程

「行動する大家さんの会(AOA)」

の下條さんから連絡がありました

突然のことで、言葉もありません

私と安藤さんはAOAの結成の時から関わっていて
二人で、顧問という形で、会に関係することになったのでした

私と安藤さんのお付き合いの始まりは
賃貸住宅新聞社の榎本(永井)ゆかりさんの呼びかけで
月村さんや落合さんと座談した時でした

その後、藤沢まで、私のマンションを見に来て下さったり
一緒に、鎌倉の小町通りの喫茶店で、何時間も話し込んだりしたことがありました
私も、安藤さんのマンションを見せていただきましたし
AOAの結成にも、一緒に、立ち会わせていただいたわけです

安藤さんが出席する会では
私は、いつも彼女の側にいて、自分ではボディーガードのような気分でいました
私よりは年長でしたが、頭の働きがシャープな方でした
また、童女のような可愛らしさがありました

「安藤さんは、女性ですけれど、理数系が得意ですね」

と、申し上げると
にっこり微笑んでいらっしゃいました
その情景が、今でも心に浮かびます

もっと頻繁に交流をしたかったのですが
震災があってから、しばらく後のこと
安藤さんが御病気になられたということをお聞きし
こちらからのアプローチは控えさせていただいておりました
お元気になられるのを、お待ちしていたのです

まさか・・・突然の訃報は、私に深い悲しみと落胆をもたらしました

安藤さんは、すでに著名人でしたし
大家さん達の間では、象徴的な存在でした
まさに今、最前線で御活躍していただきたい人でした・・・残念でなりません
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相続税廃止は私のライフワーク・・・私の思想の基本8

2014-01-26 15:49:49 | Weblog
私は相続権を民主主義の根幹であると理解しています

民主主義は素晴らしいものです
民主主義国家は素晴らしいものです・・・守らなければいけません
この素晴らしい制度を持つ国を守るためなら
私は、命を賭けてもいいと考えています

しかし
せっかく民主主義を守るために命を捧げたのに
自分の死後、国家が家族から財産を巻き上げてしまうとしたら
とても安心して戦うことはできません

私は、誰に会っても

”相続税廃止”

を主張しています

いつもの私の持論ですから、皆、聴き飽きていて
誰も大真面目に取り上げてくれません
何故、私が、そこまで強く主張するのか理解できないようなのです
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相続権が家族を存続させる・・・私の思想の基本7

2014-01-25 11:14:45 | Weblog
武士達は、死後、確実に土地の権利が家族に相続されることをもって
家族を形成することができました
封建制が一般化した民主主義社会では、普通の人々が同じ制度の恩恵に浴しています

現代の日本では、相続税が課されるため、土地の権利の相続が難しくなっています
このことは、現代の日本では

”民主主義が弱まっている”

ことを意味します
その背景にあるのは共産主義思想です・・・人類奴隷化思想です

私は、人生のある時期から
共産主義こそ、私が戦うべき本当の敵である自覚しました

日本では、教育とマスコミが、強い共産主義思想の影響下にあるため
その恐ろしさを、多くの人々が自覚していません
それどころか、共産主義に反対する者を
”保守反動”と呼んで罵倒するのが常識になってしまっています






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封建制が確立した家族制度・・・私の思想の基本6

2014-01-24 16:13:51 | Weblog
封建制の特色としての土地の私有化
それによって、人々は、はじめて安全と自由を手にしました
公的に認められた安全と自由です

この安全と自由には義務が伴います
命がけで守る義務です
日本の場合は、将軍と幕府のために戦う義務です

ここで命を落としても”土地の権利”は保証されます
ここで”名誉ある死”を遂げれば
既存の権利を保障されるだけではなく、新たな権利が追加されます
そのことで家族の生活が未来にわたって保証されるのです
ただし不名誉行為があれば、そうはいきません

「名こそ惜しけれ」

という武士の心情は
家族を守るための、当然の心構えだったのです
武士が名誉を重んじたのは、体面を気にするといったような表面的な理由ではなく
家族を守るという実質的な理由があったからなのです

土地私有化が”家族”を誕生させました
それまでの自然発生的な家族ではなく
社会制度としての、公認された”家族”です
現代の核家族よりは意味が広い一族郎党としての家族です

武士は”名誉ある死”により、土地の権利の遺族への相続権が認められました
家族が相続するわけですから”氏”や”姓”が重要になります
ファミリーネームの発生です
そのことから、家族(氏族)を象徴する家紋や旗印も発達しました
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土地の私有制は自由の砦・・・私の思想の基本5

2014-01-23 17:01:22 | Weblog
土地の私有制は、今では当たり前の制度ですが
歴史的には、土地は誰のものでもない
すなわち、実行支配した者の所有物
つまるところ、その土地で一番強い者の所有物だったのです
野生動物のテリトリーと同じです

土地は、自分で占有し、自分で守るしかなく
結局、弱い者は、自分の土地を持つことはできませんでした

日本でも、土地と人民は「公地公民」とされ
土地は公有地であり、そこに住む住民は権力者の奴隷でした
それを、幕府や将軍への忠誠と引き換えに所有することを許されたのが封建制です
少なくとも、日本の封建制は、そのようなものでした

土地の私有制を否定することは
土地の権利を、人類が封建制を持つ以前の
古代の王制に戻すか、野生動物のテリトリーのごときものにすることを意味します

共産主義とは、まさにこのような制度です

土地の私有制を否定する共産主義社会では、表向きの平等とは別に
独裁者である共産党幹部には、豪華な別荘をはじめ
一般労働者とは隔絶した贅沢が与えられました

今の北朝鮮には、そうした共産主義の遺産がよく残されています
国民が飢餓線上にあっても、最高権力者と、それに連なる人々は贅沢が許されるのです
現代の王制と言っていいかもしれません・・・金王朝です
国民は奴隷状態に置かれています

政治制度が、土地の権利を否定したり、弱めたりすると
確実に、民衆は自由を失います
最高権力者と、それに連なる人々が特権階級となり
苦しむ民衆を尻目に、自分達だけは安楽と贅沢をむさぼることになるのです
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