湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

言葉の力9ー作左衛門の晩年

2006-11-30 10:44:27 | Weblog
本多作左衛門は、晩年、一切の役職を解かれます
徳川家康が天下人となることだけを夢見た一生でしたが
ついに、その姿を見ることなく、さびしく人生を終えました

豊臣秀吉が徳川家康の上洛を促すため
自分の母親まで人質に出した時
監視役を務めたのが作左衛門でした
この時、作左衛門は薪を山のように積んで

「家康公にもしものことあれば、これに火を付け、生きたまま焼き殺す」

と、秀吉の老母を脅しました

このことを深く恨んだ秀吉は、ことあるごとに

「本多作左衛門を追放せよ」

と、家康に迫ったのでした

家康は作左衛門の一切の役職を解きます
作左衛門は、黙って城を出ていきました
ただの一言も家康の悪口は言いませんでした
田舎にうつり、日々、鳥や獣を追って暮らしたとのことです
下総国の井野(茨城県取手市)という小さな村で
不遇のうちに、その生涯を終えました

家康は豊臣を滅ぼすにあたり
突然、作左衛門の一人息子、仙千代を呼び出し、4万石を与えます

あの「・・お仙泣かすな・・」の”お仙”は
4万石の大名となったのでした
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言葉の力8ー記録と記憶

2006-11-29 18:59:42 | Weblog
自ら”鬼”となることを決意し
仏に背を向け
力の論理を推し進め
家康への忠誠心だけを心の支えに生きたのが
本多作左衛門の人生であったと思います

その作左衛門が
書いた手紙や、発した”言葉”によって
後世の人々に記憶されるというのも
なにか不思議な気がします

言葉によって自己を表現する現代の政治家は
記録としては、多くの言葉を後世に残すのでしょう
しかし、彼らの発した言葉のどれほどが
"記憶"として、人々の心の中に残るのでしょうか
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言葉の力7ー鬼作左

2006-11-28 10:44:25 | Weblog
三河一向一揆鎮圧の後も
本多作左衛門は諸合戦で一軍の将として、戦功を重ねました

家康が三河を統一した後は
高力清長、天野三郎兵衛らとともに、三河三奉行に任ぜられました
三河の人々は

「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛」

といって囃しました

作左衛門が”鬼”と呼ばれるのには、それなりの理由があります
一向宗の門徒を襲撃以来、文字通り、性格も容貌も”鬼”となりました
一向宗の門徒からみれば、作左衛門は「仏敵」です
しかし、そればかりではありません

百姓に法度を出す時には
わかりやすい仮名書きにして高札を出すのですが
その条文には

「なになにをすると、さくざが、きるぞ」

などと書いてあったりしたのです

実際、作左衛門は法度を破る者があると、その場で斬り殺しました
それも人に任せず、しばしば手打ちにしました
作左衛門は、自分の手で、罪人を斬り殺したのです
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言葉の力6-本多作左衛門

2006-11-27 10:27:13 | Weblog
本多作左衛門(ほんださくざえもん、1529~1596)とはいかなる人物か?

作左衛門は7歳のときから松平家に仕えています
若き日の作左衛門は、二つのものに、ひたすら献身しました
ひとつは松平家、もうひとつは阿弥陀仏、一向宗です
この二つのためなら、命を投げ出しても惜しくないと思っていました

ところが作左衛門が三十代も半ばになった頃、恐ろしいことが起きました
三河の一向門徒が一味して、家康に叛旗をひるがえしたのです
作左衛門が帰依している一向寺の僧侶は
「阿弥陀仏の御為に戦わば極楽往生、家康につかば無間地獄」
と言いました

作左衛門は意をかため、家康の御前に出て
熊野午王の誓紙に、忠誠二心なきことをしたため
作法どおり、左の小指の先を小刀で切って
いたたる血で、血判を押しました

阿弥陀仏に背を向け、無間地獄に堕ちることを、自ら決断したのでした

作左衛門は一目散に一向寺に向かって駆け
夜にはいると、闇にまぎれて、ひそかに一向門徒の居所に忍び入り
火を放って、逃げまどうかつての信仰の仲間を、思うがままに殺戮しました
寺を焼く猛烈な火炎のなかで、作左衛門は夢中で人を斬りまくりました
気が付くと、作左衛門の顔は、殺した老若男女の血しぶきで真っ赤でした
目の前では、地獄の業火のような炎がメラメラと燃えています

作左衛門の顔が鬼のようになったのは、この時からです
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言葉の力5ー信頼と真実

2006-11-26 10:00:18 | Weblog
これは人煎釜破壊事件より前の話です
本多作左衛門の強烈な忠誠心を示すエピソードがあります

ある時、徳川家康の家臣と織田信長の家臣がいさかい事を起こしました
こうした裁きは非常に難しい
双方が満足する解決策などあろうはずもなく
かといって、いい加減にすれば、織田と徳川の同盟関係にひびがはいります

織田信長は、冷酷な策を示しました

「鉄火をとらしめ、その理非を決すべし」

神前で、真っ赤になるまで加熱した鉄棒をつかませろというのです
正しい方は、焼けた鉄棒をつかんで、神前の棚に置くことができるはず
織田家から一人、徳川家から一人、それぞれ選んで
神前で、鉄火をとらせようというのです

家康はこの役目を本多作左衛門に頼んだのです
作左衛門は、この恐ろしい役目を見事にやり遂げました
織田の者は手を焼けただれさせて、鉄棒を投げ捨て、絶倒しました

家康には作左衛門への、強烈な信頼と、若干の負い目がありました
そうでなければ、自分の命令を妨害する家臣など許すはずがありません
即座に処罰したでしょう

家康は作左衛門を信頼するがゆえに、彼の言い分を聞きました
そして作左衛門の言葉に、真実と未来への指針を知らされたのです
家康は作左衛門の行為を不問に付したばかりでなく
感謝の言葉さえ口にしたのでした
作左衛門の持つ真実と信頼が、家康の心を動かしたのです
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言葉の力4ー天下人

2006-11-25 18:31:10 | Weblog
家康から煎人釜を運ぶことを命じられた奉行は
手ぶらで浜松に到着し、恐怖にふるえながら、家康の御前に出ました
切腹を命じられるかもしれません
そうでなければ改易、地位や俸禄を失うのです
奉行にとって唯一の望みは本多作左衛門から与えられた言葉だけでした

家康から煎人釜の件を問いただされると
奉行は本多作左衛門に釜を破壊されてしまった顛末を報告し
さらに、作左衛門に命じられた言葉を付け加えました

奉行の報告を黙って聴いていた家康は
怒りを露わにした表情のまま沈黙してしまいました
・・・・・突然、家康は立ち上がり
小さな声で

「奉行、大儀なり。」

そう言うなり、横を向いて奥にはいってしまいました

翌日、今度は作左衛門が家康の御前に呼び出されました
今度ばかりは、ただではすまない
これが作左衛門の見納めになるだろうと、人々はうわさしました

浜松城の広間で、家康と面と向かって、作左衛門は沈黙を通している
両脇には、徳川家の老臣達が並び、固唾をのんで、事態の推移を見守っています
家康は口を開き、次のように言いました

「作左衛門、安倍川の釜を運べと言ったのは私の間違いだった。昨日、その方が釜を壊した理由は奉行から聞いた。」
「私の間違いに気付いたことを、ありがたく思う。今後もよろしく頼む。」

家康の言葉に、作左衛門は、顔を上げ、ふかぶかと頭を下げると
「ありがたき上意をこうむり、面目、身に余る・・・」
「かかる尊慮にあらせられなば・・・国家は万代不易に候・・・」
大きな声で、城内に響き渡るほどの声で、叫んだのです

釜を壊した時、作左衛門が奉行に言ったのは
釜で人をじわじわ熱して殺し、その断末魔の様子を群集に見せ
その恐怖でもって国を治めるのは、天下人を目指す者の仕置きではない
という意味のことでした

作左衛門の言葉に、家康は天下人を目指す者の自覚を持ったのでした
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言葉の力3ー煎人釜

2006-11-24 10:18:21 | Weblog
天正10年(1958)、本能寺の変で織田信長が没すると
徳川家康は、あっという間に、甲斐、信濃、駿河を支配下に置いてしまいました
この時の家康は生涯最高の満足感にひたっていたかもしれません

思えば、本能寺の変の折、自身わずかな手勢で京に滞在していたため
命からがら京を脱出し、三河に逃げ帰ったのでした
後年、その時のことを振り返って、生涯最大の危機であったと述懐しています
その直後に、東海地域全域及び、甲斐,信濃を手にしたわけです
目の上の瘤ともいうべき織田信長は死に
背後を脅かす武田は滅びました
徳川家康は、ついに”東海の覇者”となったのです
文字通り”海道一の弓取り”になりました

満足気に新たな領地を検分する家康は
安倍川のほとりで大きな鉄の釜を発見します
煎人釜です
家康はこの釜を浜松に運ぶよう、駿府の奉行に命じました

家康の命を受けた奉行は、大きく重い鉄の釜を
東海道を西へ西へと運んで行きました
そこへ突然、恐ろしい人相をした武士が現れ「待った」をかけました
現れたのは本多作左衛門です
あの「お仙泣かすな、馬肥やせ」の手紙を書いた本多作左衛門です
鬼作左と呼ばれ、恐れられ、この辺りでは知らぬ者のない本多作左衛門です

作左衛門に抵抗できる者はいなかったようです
なんと、作左衛門は、その場で、煎人釜を破壊させたのです
放心した奉行に、作左衛門は、周囲の誰にも聞こえぬ小さな声で
家康への申し開きの口上を伝えました
「一言一句たがえてはならぬ」と念をおして

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言葉の力2ー戦国時代

2006-11-23 09:15:04 | Weblog
戦国時代というのは、どんな時代でしょう
一言で言えば、力が全ての時代です
この場合の力とは武力、つまり人を殺す能力です
戦国時代の日本は現代の日本とはちがい
政治家が、演説や議論という、言葉の力で戦う時代ではありません
あくまで、刀、槍、鉄砲を使い、武力を競う時代でした

弱肉強食の時代です、戦いに勝つことは、生き残るために必要です
しかし、ただ生き残るためばかりではなくて
日本全国に、自分が強いことを示すためにも、戦に勝つ必要がありました

勢力を拡大するためには、戦に勝つだけではなく
自分に従う者を増やし、自分に歯向かうものを減らす必要があります
そのためには、戦闘に勝つだけではなく
自分が強いということを、常にアピールしておく必要があります
強い軍事力を維持しなければなりません
その裏づけとして、強い経済力も持たなければなりません

強い経済力をもつためには、戦に強いだけでは駄目です
百姓を従わせ、よく働かせなければばりません
これは簡単なことではありませんでした
この時代の百姓は、しばしば反乱を起こしました
宗教団体としての反乱が多く、武士ですら、対処に手こずりました
代表的なものに、一向宗の門徒による、一向一揆があります
宗教団体の反抗の怖さは、現在のイスラムテロリストを思えば、分かるでしょう

戦国時代、武士は百姓を”恐怖”によって統治しました
反抗する者を斬り殺すのは当然のこととして
しばしば、残虐な刑罰を公衆の面前で行うのです
そうした刑罰の道具の一つに煎人釜(いりひとがま)がありました
直径4尺の鉄の釜です
これに生きたまま人を入れ、茹で殺すのです
あるいは焼き殺すのです
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言葉の力

2006-11-22 12:19:07 | Weblog
私の子供達は、どういうわけか国語が苦手です
他の勉強も得意ではないのですが、特に国語が苦手なのです
塾に通わせても、成果が芳しくなくて
小学5年の娘には、市販のドリルなど買ってきて
私が教えたりしております
私がすぐ怒るものですから、娘は泣きながら勉強しています
これでは逆効果となりそうですが、どうにもしようがありません

思い起こせば、私も国語が苦手でした
どうやって勉強すればよいのかさえ、わかりませんでした
国語の得意な人は、自分とは別人種のように感じていました

国語が得意であることは、人生を生きる上で、大いに役に立つものです
読み書きの能力の重要性は、どんな仕事に就くにしてもかわりありません
上手な手紙文を、さっと書ける人など、それだけで、私は尊敬してしまいます

上手な手紙文といえば

一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ

簡潔な手紙文の傑作として、上記の文を知る人も多いかと思います
皆さん、どこかで読んだか、聞いた記憶があるのではないでしょうか
それでは、この手紙文の作者をご存知でしょうか?

作者は、徳川家康の家臣、本多作左衛門です
この手紙は、戦場から、妻に書き送ったものです
お仙というのは、作左衛門のたった一人の男の子、仙千代(成重)のことです

本多作左衛門は鬼のような形相の人物でした
人々は彼を鬼作左と呼びました
見た目ばかりでなく、彼の性格もまた
鬼と呼ばれても、やむをえないものでした
戦国武士ですから、気性が激しいのはやむを得ないのかもしれませんが
作左衛門の性格は、そんな中でも、さらに異彩を放つものでした
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言葉の危険

2006-11-21 11:29:09 | Weblog
文字を書きながら言うのもなんですが
文字というものを、あまり信じるのは危険です
同じく、人の話す言葉というものも、あまり信じてはいけない

話している現実と、実際の現実は違います
文字に書かれた事実と、実際の事実は違います
そんなことは、はじめから分かっているはずなのですが
人は案外、事実とは違う事実を、信じてしまうものです
それというのも、人の経験は限られたものであるし
私達は多くの知識を、経験によってではなく、言葉によって知るからです

学校教育とは、言葉による、知識獲得の組織化されたものです
学校で秀才とされる人々は、言葉による知識獲得に優れた人々です
こうした人々は優れた人々なのかもしれませんが
見方を変えると、だまされやすい人々ということもできます
一流大学の学生でありながら、オウム真理教の信者となる人がいるのも
けして不思議なことではないのです

言葉を信じ過ぎる危険は他にもあります
現実を見なくなることです
言葉の上だけで決着を付けようとすることです

”いじめ”が問題になれば
文部科学省の役人は「”いじめ”を無くせ」と言います
そうすると学校関係者や教育委員会は
「”いじめ”は無い」という報告書を出します
言葉だけで”いじめ”問題は決着がついてしまいます
結論として、はじめから”いじめ”は無いとしてしまうのです

言葉だけでなく、テレビやインターネットによる映像も
それ自体は、けして経験でも事実でもありません
多くが事実であったとしても、全てが事実であるとは限りません
真実は事実を見極めることで、明らかとなるのです
事実を見極めるためには”経験”が重要で
自分の目、自分の感覚を信じることです
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