湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

吉凶両面の思惑違い・・・歴史の考察

2017-02-28 18:50:35 | Weblog
織田信長の戦前の予想では
今川軍団の先鋒は、松平元康(徳川家康)率いる三河衆だけであり
また、今川義元は、遙か後方にいるはずでした

実際の今川軍団の編成は
織田信長の予想とは少し違いました
松平元康(徳川家康)単独と考えていた先鋒には
朝比奈泰朝の軍勢も加わっていました

さすがに今川義元も
松平元康単独で先鋒としてしまうと
寝返りされる危険があると考えたのでしょう

信長が当初から考えていた
松平元康の率いる三河勢との戦闘回避は、失敗しました
丸根砦守備隊は、うまく退却することが出来ず
松平元康指揮下の三河勢と激闘になり
全滅させられてしまいました

織田信長の当初の思惑は、大きく外れてしまったのです

しかし、その一方で
信長の闘争意欲をかき立てる思惑外れもありました
なんと、今川義元が、先鋒のすぐ後ろまで来ていたのです
元々、先鋒との戦闘を回避し、迂回して後続を断つ作戦でしたが
なんと!、迂回したその位置に、今川義元の本陣があるのです

「手間が省けた・・・ここを一気に攻撃すればいい」

織田信長は、そう考えたはずです

中嶋砦まで来て、今川の動きを最終確認すると
信長は、出陣の目的を、あくまで救援作戦と見せかけるため
陽動作戦として、佐々政次、千秋四郎らの小規模の部隊を
丸根、鷲津両砦方向に向けました

佐々と千秋は、今川軍団の先鋒に討たれてしまいましたが
信長は、織田軍団の本体を逆方向に
今川善元の本陣に向かって、進軍させたのでした
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信長の戦略と演出・・・歴史の考察

2017-02-27 15:29:50 | Weblog
刀や槍が主力兵器である中世の戦いでは
兵士の数が戦いの勝敗を決します
敵が10倍いたのでは、野戦での勝ち目はありません
今川と織田の兵力差は、問題外と言うしかないものでした

尾張の清洲城での軍議は、籠城派が大勢を占めました
攻城戦では、攻撃側は、3倍から10倍の兵力を必要とすると言われています
守る側から言わせれば、十分の一の兵力でも、なんとかなるわけです

しかし
籠城が意味を持つのは、援軍が来る見込みのある場合と
攻城側の補給が続かなくなる場合だけです
清洲城に援軍が来る予定はありません
そして、今川軍団の背後には、東海道伝いに、三河、遠江、駿河と
今川の所領が続き、補給が絶えることはないのです

織田信長には、籠城の意思はありませんでした
今川善元を迎え撃つ作戦は
信長の頭の中だけにあったのです

先鋒の松平元康(徳川家康)率いる三河勢とは戦わない
迂回して後続を断ち、孤立させて、調略する
その後、尾張三河連合軍を形成し
今川勢に対峙し、戦線が膠着した状態に持ち込む
そこで、信長自ら精鋭部隊を率いて、今川義元本陣を急襲し
今川義元の首級をあげることだけに集中する

以上が
織田信長が考えた勝利の方程式でした
10倍の敵に、万に一つの勝利を得る方法は
これ以外に考えられませんでした

織田信長は、この作戦を誰にも明かしませんでした
激しい骨肉の争いを制して権力を得た信長には
味方の中に敵が居るのは、当然の前提だったからです
作戦に関する情報は、一旦漏れてしまえば
城の石垣すら簡単にすり抜けて、敵側に伝わってしまうものだからです

作戦が敵側に知られてしまえば、敗北と死につながります
敵を欺くには、まず、味方から欺かなければなりません
ただし、作戦を知らない味方を、いかに誘導するか?
その答が、幸若舞から戦勝祈願に至る、信長の演出だったのです

信長から事前に指示を受けていたのは
おそらく、騎馬の得意な5人の小姓達だけだったでしょう

「俺が城を出たら、直ちに、全力で後を追えるように・・・準備しておけ」

・・・たったそれだけの指示を、5人の小姓にしただけで
信長は、ひたすら、その”時”を待っていたのでした




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誰にも分からなかった信長の真意・・・歴史の考察

2017-02-26 13:42:20 | Weblog
織田信長が目指したのは熱田神宮でした
熱田神宮に着くと、ここで戦勝祈願をしました

熱田神宮を目指したのは
戦勝祈願をするためではありません
広い熱田神宮の境内であれば
2000程度の将兵は十分収容できるからです
信長は、ここに将兵を集結させたのです
戦勝祈願は、信長一流の演出でした

とにかく、主君が甲冑を身につけ
五騎の小姓を連れただけで、城を出て行ってしまったため
家臣達は、慌てて、後を追うしかありませんでした
すでに戦闘は始まっているのです
遅れをとるわけにはいきません

熱田神宮に将兵を集めると、善照寺砦に進軍させ
さらに、信長自身は、中嶋砦まで進み
佐々政次、千秋四郎らに命じて
丸根砦、鷲津砦の救援に向かわせました

佐々政次、千秋四郎らは
今川軍の先鋒に討たれてしまいました
実は、これは織田信長による陽動作戦だったのです
敵に、織田軍団が両砦の救援に向かうと見せかけるための
・・・佐々や千秋が
それを承知していたかどうかは、ともかく・・・

この時点で
織田信長が今川義元の本陣を目指すことなど
敵味方、誰も知りませんでした
慌てて信長の後を追った織田家臣団は
当然、両砦を救援し、大高城を攻めると考えたでしょうし
信長の出陣を知った今川義元も
同じことを考えていたはずです・・・



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信長疾駆・・・歴史の考察

2017-02-25 17:25:30 | Weblog
永禄3年5月19日
日本史上に残る有名な合戦が行われました

「桶狭間の戦い」

です

この日、午前3時
丸根砦を出ようとする織田軍と
砦を抱囲する松平元康(徳川家康)軍との間に
突然、激しい戦闘が始まりました
守將の佐久間盛重は、戦闘を避けるつもりでしたが
その時すでに、松平元康の軍勢が砦を抱囲していたからです

清洲城で開戦の報に接するや
織田信長は、幸若舞の”敦盛”を舞います
幸若舞とは、当時流行した語りを伴う舞です
信長は、一ノ谷の合戦で討ち死にした若き平家の武将
平敦盛を舞い、語ったのです

人間五十年
化天のうちをくらぶれば
夢幻のごとくなり
一度生を享け
滅せぬもののあるべきか

人生の短さと、生の儚さを
信長は、居並ぶ家臣団に語り聞かせ
これから戦闘に向かう、自身の覚悟を示したのです

舞の後、具足を身に付けると
信長は、立ったまま湯漬けをかき込み
すぐに馬を用意させ、わずか5騎の小姓とともに
清洲城を出て、疾駆していきました
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信長の迂回作戦・・・歴史の考察

2017-02-24 18:37:15 | Weblog
今川義元の大規模な尾張侵攻作戦を知ると
織田信長は考えました

10倍の敵が攻めてくる
その先鋒は、松平元康(徳川家康)だ
子供の頃、尾張に居た、俺が可愛がった松平の人質だ
あいつには別れ際に約束した

「また会おう、必ず生きていろよ!」・・・と

あいつとは戦わない
あいつと殺し合うことなど
絶対、しない!

そこで織田信長が考えたのが迂回作戦です

先鋒の松平元康の三河勢とは戦闘せず
後ろに回って退路を断ち、今川勢から孤立させ
調略して、味方に引き入れる
その後、織田・松平連合軍となって、今川と戦う

信長は、松平元康の調略には自信がありました
三河勢の過半数は、今川より織田との同盟を望んでいるし
松平元康自身が、信長のことを憶えているはずだからです

織田信長は、今川義元の狙いが分かっていました
先鋒に松平元康の率いる三河勢をあて
単独で尾張勢と戦わせて、両者相打ちとし
その後で、三河と尾張の両方を奪う
つまり、三河と尾張を戦わせて共倒れにし、漁夫の利を得る
それが、今川義元の狙いであると読んだのです

「その手に乗るか!」

織田信長は、初めから、松平元康と戦う気はありませんでした
今川軍の先鋒をつとめる三河勢とは戦闘を避け
迂回して、後続を断ち、孤立させ、調略する
この作戦を真っ先に考えていたのです
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松平元康(家康)との戦闘を回避した信長・・・歴史の考察

2017-02-23 18:54:31 | Weblog
今川軍先鋒の松平元康(徳川家康)の最初の任務は
前線基地である大高城に、兵糧を搬入することでした

大高城は今川方の対尾張前線基地ですから
それに対抗して、織田側には、丸根砦と鷲津砦がありました
大高城に兵糧を搬入するためには
当然ながら、丸根と鷲津の両砦を攻撃しなければなりません
少なくとも、その準備は必要です

大高城に兵糧が運び込まれている情報は
直ちに清須の織田信長のもとに伝えられました
ところが、ここで信じがたいことが起きます
信長は、軍議を開いても、世間話をしただけで
すぐに解散してしまったのです

信長は、ここで松平元康と一戦を交える気が無かったからです
砦の守將・佐久間盛重だけには、それを伝えてありました
「砦を捨てて、信長本体に合流せよ」と
しかし、砦からの脱出が遅れてしまったのです

籠城を見越して
丸根砦を抱囲していた松平元康の軍勢の前に
突然、砦の守備隊が出てきたため
両者不意打ちで、戦闘が始まってしまいました

すでに鬼神となっていた松平元康は
敵を、徹底的に打ちのめします
丸根砦守備隊は、佐久間盛重以下、全滅しました
松平元康(徳川家康)にしてみれば
目の前の敵を一人一人倒したその先に
織田信長が待っているからでした

鷲津砦は、籠城策を取ったようですが
朝比奈泰朝が落としました
この、初戦の勝利を聞いて
今川義元は、大いに満足したのでした
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若き荒武者・松平元康・・・歴史の考察

2017-02-22 13:20:26 | Weblog
今川義元が尾張の織田制圧のために
大軍を率いて、尾張侵攻を決めた時
そして、その先陣が自分であると知らされた時
松平元康(徳川家康)は
つくづく自分の運命を嘆いたことでしょう

幼い頃から、悲しい運命に翻弄された徳川家康です
人質として過ごした少年時代は
記憶の底にある織田信長の面影だけを頼りに
日々の苦難に耐えて、生きてきたのです
信長との再会の日を夢見ながら・・・

それが、なんと!
夢にまで見た信長との再会シーンは
敵味方に分かれた戦場となってしまうのです
しかも、おそらく、生きて帰ることは難しい・・・
仮に自分が生きて帰れるとしたら、味方の圧倒的な勝利であり
それは即ち、信長の死を意味するのだ

松平元康は覚悟を決めました

それなら、それでいい
信長様の前で、あの三河の人質が
立派な若武者になったことを、お見せしよう!

死を覚悟した18才の松平元康は
鬼神のごとき若き荒武者になっていたのです




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家康が胸に秘めた信長への思い・・・歴史の考察

2017-02-21 16:16:47 | Weblog
竹千代(徳川家康)は、人質交換により
駿河に送られることになりました
私は、竹千代が尾張を離れる日のことを想像します

信長は竹千代に別れの言葉を掛けます

「また会おう、必ず、それまで生きているのだぞ!」

涙で潤む目をしばたたきながら
竹千代は、涙でかすむ信長を見て
ただ、頷くしかありませんでした
そして

「また会おう・・・  」

の言葉を、胸に深く刻みつけたのです

駿河での竹千代の人質生活は
豊かな今川義元のもとで
物質的には不自由はしませんでした
駿河から三河まで逃亡するのは困難ですから
監視も、さほど厳しくなかったはずです
しかし、精神的には辛いものだったようです
見下されたり、馬鹿にされたり
嫌がらせやイジメを受けていたのです

気性の激しい竹千代は
悔し涙に枕を濡らして、床につくこともあったでしょう
そんな時、尾張を離れる時の織田信長の言葉を
あの、自分を守ってくれた優しい兄さんの言葉を
じっと噛みしめて、耐えていたのです

そして誓ったはずです
卑屈にならず、自暴自棄にもならず
武術の稽古にも学問にも精を出し

「いつ信長様に会っても、恥ずかしくない武将になろう!」

・・・と

徳川家康は、武術にも学問にも秀でた武将です
そして堪忍(怒りをこらえること)を極めて重視しました
いずれも、人質時代に形成された、能力と思想だったのです



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家康人質時代にできた信長との絆・・・歴史の考察

2017-02-20 14:57:36 | Weblog
織田信長と徳川家康との間に
深い強い絆が存在したことは確かです

私は、家康が尾張で人質として過ごした幼年期に
信長と家康の絆が出来たと考えています

信長は、家康から見ると、8才年上の兄さんです
家康が人質になった6才の時は
この兄さんは、14才か15才です
それから2年間、幼い竹千代(徳川家康)は
ティーンエイジャーど真ん中の
織田信長と過ごしたことになります

この頃の織田信長は

「尾張の大うつけ者」

と呼ばれていて、奇抜な格好をしながら
身分にかかわらず、同世代の若者達とつるんで
バカをやっていたのです

好奇心旺盛な信長は
三河から奪った幼い人質に興味を示し
すぐに見に来たはずです
そして、このチビが気に入ってしまったのです

竹千代は、人質とはいえ、実の母は離縁されているし
父の後妻の父親に尾張に売られてしまったわけで
実際には、捨てられたようなものでした
父の後妻に男子ができれば、竹千代がいない方が
松平家の収まりが良くなるからです
実父は織田側に「殺してもいい」と言っています

この可哀相な子供の人質に
若き信長は、興味を示し、可愛がったのです
おそらく、殺されることからも
いじめられたり、粗雑に扱われることからも、守ったのです

8才離れた二人の少年の間に、心の絆が生まれました
ティーンエイジャーの信長は、幼い竹千代(徳川家康)の中に
自分と共通する何かを、感知していたのです

織田信長と徳川家康という二人の英傑が
このタイミングで出合っていたことは
その後の歴史に、決定的な影響を与えました
私はこれを”歴史の奇跡”だと考えています



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信長と家康の間には謎の関係があった・・・歴史の考察

2017-02-19 13:57:23 | Weblog
戦国時代のことを学び始めて
実に解せないことが、織田信長と徳川家康との関係です

この二人は、信長が「本能寺の変」で亡くなるまで
一度として、戦ったことは勿論、裏切ったこともありません
若い時に同盟を結んで、それがずっと守られたからです
所領は地続きで、祖父の代からの仇敵同士だったにもかかわらず・・・

当時の同盟は、簡単に反古にされてしまいました
人質を取るのは当たり前ですが、信長は、それもしていません
後に、家康の長男と信長の娘が結婚しています
この結婚は、不幸な結末になりましたが・・・

「桶狭間の戦い」で、織田信長が今川義元を討った時も
今川方の最前線は松平元康(徳川家康)でした
信長は、最前線の家康とは戦わず
迂回して、今川義元の本陣を狙い、義元の首を取りました

従来の歴史解釈では
大軍の今川に対し、寡兵の織田信長が取った
見事な奇襲作戦だと考えられてきました

その通りだとは、私も思うのですが
もしかしたら、信長は、家康と戦うのが嫌で
いろいろ悩んでいるうちに
この作戦を思い付いたのかもしれない・・・
とも、考えたりするのです

なぜなら
織田側は、丸根砦を家康に落とされているにもかかわらず
反攻もせず、さらに
三河に逃げ帰った家康を、追撃してもいないのです

おかしな点は、まだあります

岡崎城に戻った家康は
まだ、妻子を駿河の今川の元に残した状態で
もう、反今川の姿勢を明らかにしています
これには、善元の後を継いだ今川氏真も驚き

「松平蔵人逆心」、「三州錯乱」

などと言っています
「気でも狂ったか!」といった感じです

三河から、東の今川領を攻めるには
西の尾張の織田から、攻められる心配が無いことが条件です
まだ「清洲同盟」は結ばれていません
家康が岡崎に戻るとすぐに、事実上
信長と家康の間には、盟約関係があったとしか考えられないのです



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