湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

巨大古墳を作る土木技術が計画都市としての奈良や京都を作った・・・歴史の考察

2021-08-25 17:29:53 | Weblog

飛鳥時代とか奈良時代と呼ばれる時代は、いかなる意味があったのでしょうか?
飛鳥や奈良に都が置かれたから、そう呼ばれるわけですが
この時代には、より本質的な意味と性格があります
首都が人工的な計画都市だったことです

前方後円墳は、水田の大規模開発にともない
初めから計画的に作られた要塞であるというのが私の説です
実際には、大規模な水田開発に伴う人口増加と専門的な戦闘集団によって
周辺部族からの攻撃を受けることはほとんど無く、要塞としての意味が形骸化し
開発時の王や、その一族の墓となったわけです

大規模な水田開発には高度な土木技術が必要です
水田は、平らに見えても、必ず勾配があり、給排水が出来るようになっています
大規模開発であればあるほど、精密な測量や綿密な計画が必要です
それが出来る技術者集団がいなければ、大規模水田開発は不可能なのです

大阪湾に近い平地部分には巨大な前方後円墳が多数存在します
これら古墳群を作った技術者集団なら、難波宮を作ることなど造作もなかったはずです
この時代の本質を解く鍵は高度な土木技術なのです
やがて、舞台は奈良京都へ移り、平城京平安京となったわけです
そこが千年を超える天皇の都となったわけですから
日本国の基礎を作ったことにもなり
古墳時代から、天皇が日本の中心に位置していたことの証拠でもあります

ところで、その高度な土木技術の持ち主は誰だったでしょう?
それが大陸から渡来したユダヤ人達だったのです!
千葉や茨城辺りにいた当時の人々は
自分達のために大規模な水田を開発してくれたユダヤ人達に感謝を込め
彼らを象った埴輪を前方後円墳に埋設したのです
それには、感謝だけではなく、守り神として意味もあったのでしょう・・・



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1 コメント

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Unknown (sekoisyougioyaji)
2021-08-25 21:03:19
縄文末期から寒冷化が進んで大阪湾が後退。干上がった陸地を開墾して残土が古墳。古墳がなくなったのは、残土がなくなった。
と仮定すると説明が出来てしまうのですよね。ユダヤ人の技術もありますが、後にポルトガルから鉄砲が伝来して数十年余りで世界一の鉄砲大国になる日本には元々素養があったのではないでしょうか?
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