名にめでて
折れるばかりぞ
女郎花オミナエシ
我おちにきと
人にかたるな
『古今集・巻四・秋歌上・226』
和歌・歌人44
遍昭ヘンジョウ
おまえの名に魅せられて、
ちょっと手折っただけなのだ。
女郎花よ。
私が女色に堕落したなどと
人に語ってはならないぞ。
詞書きには
女郎花を折ろうとして
落馬した時の作とある
遍昭ヘンジョウ
816~890
75歳
俗名は良岑宗貞ヨシムネノムネサダ
桓武天皇の皇孫
六歌仙のひとり
古今集仮名序に
「歌のさまは得たれども、まこと少し。
たとへば、絵にかける女を見て、
いたづらに心を動かすがごとし」
と評される
僧正遍昭は遍照とも書くようだ
仁明天皇の蔵人から、
承和12年(845年)従五位下・左兵衛佐、
承和13年(846年)左近衛少将兼備前介を経て、
嘉祥2年(849年)に蔵人頭に任ぜられる。
嘉祥3年(850年)正月に従五位上に昇叙されるが、
同年3月に寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家する。
最終官位は左近衛少将従五位上。
色みえで
移ろふものは
世の中の
人の心の
花にぞありける
『古今集・巻一五・797』
和歌・歌人43
小野小町オノノコマチ
小野小町オノノコマチ
生没年未詳
文屋康秀,僧正遍昭との間に
贈答歌があり、
仁明、文徳、清和朝(833-876)のころ、
後宮に仕えたと考えられる。
古今集仮名序に貫之は
「あわれなるやうにて、
つよからず。
いはば、よき女の
悩めるところあるに似たり」
と評されてる。
今日は病院へ検診
左膝の手術から一年経った
11:30の予約だが
レントゲンを撮るので10:30に行って待っていたが
整形外科は混んでる
番号をよばれたのは1時すぎ
家には2時頃ついた
お腹が空いた
病院はほんと疲れる
写真は以前のもの
高輪ゲートウェイにいるロボット
わが庵は都の辰巳しかぞ住む
世をうぢ山と
人はいふなり
『古今集・巻一八・983』
和歌・歌人43
喜撰法師キセンホウシ
私は都の東南に草庵を構え、
心安らかに暮らしている。
だが、
この世を辛いと嘆く世人は
ここを憂ウい宇治山と言うそうだ。
喜撰法師キセンホウシ
生没年未詳
宇治山に隠棲していたことは確かだが、
様々な伝説がつけ加えられ、
役行者エンノギョウジャ系統の道術士
という説まであるが、一切不明。
六歌仙の一人。
古今集の仮名序に
「宇治山の僧喜撰は、
言葉かすかにして、
はじめ終わり確かならず、
いわば、秋の月を見るに、
暁の雲にあへるがごとし」と紀貫之評す
金曜日はお謡なのに
たいしてお稽古してない
前回ひどかったので
ちゃんとお稽古しないと
明日と明後日に
少し頑張ろう
年ふれば
よはひは老いぬ
しかはあれど
花をし見れば
物思いもなし
『古今集・巻一・春歌上52』
和歌・歌人42
藤原良房フジワラノヨシフサ
長い年月を経たので、
歳老いてしまった。
しかしながら、
美しい桜の花を見ているので、
老いの嘆きも何もない。
詞書きは
「染殿后のお前に、
花瓶に桜の花を
ささせ給へるを
見て読める」
染殿后=
藤原良房の娘の明子アキラケイコのこと
藤原良房フジワラノヨシフサ
804-872
69歳
藤原冬嗣の次男
826蔵人、834参議
右大将、
大納言、右大臣等を経て
856従一位太政大臣、
承和の変を策謀し、
仁明天皇の后である
妹の順子の産んだ
道康親王(文徳帝)を皇太子に立て、
娘の明子アキラケイコを妃とし、
その間に生まれた惟仁親王(清和帝)が
即位するに及んで、
860摂政となり
藤原北家隆盛の基礎を固め、
以後の摂関政治の緒を開いた。
忠仁公、染殿大臣、白河殿ともよばれる。
古今集に一首入集。
今日は袋物教室
数寄屋袋を作った
みんな上手だ
先生はサカチカさん
生徒さんは四名
私は
数寄屋袋は面倒なので
作りたくない
短歌を12首詠んで
手紙を三通書いた
わたの原
八十島かけて
漕ぎいでぬと
人には告ツげよ
海人の釣船
『古今集・巻九・407』
和歌・歌人41
小野篁オノノタカムラ
「隠岐国に流されける時に、
舟に乗りて出で立つとて、
京なる人のもとにつかわしける」
と詞書きがある
小野篁オノノタカムラは802-852
834遣唐副使に任じられたが
大使藤原常嗣と争い、
病と称して乗船を拒んだ為、
隠岐国に流された。
のち許され帰京。
蔵人頭、参議、左代弁を歴任、
仁寿二年従三位。
小倉百人一首に取り上げられている
歌番号11
参議篁
今日はどこへも出ない
近くのお弟子様が
葡萄を届けてくれた
秋は果物が美味しい
有難い
阿耨多羅三藐三菩提
アノクタラサンミャクサンボダイ
の仏たち
わが立つ杣ソマに
冥加ミョウガあらせたまへ
和歌・歌人40
『新古今集・巻二十・1921』
伝教大師
最上の知恵をお持ちになる仏たちよ。
杣木を切るために私が立つこの杣山(比叡山)に
冥加ミョウガをお与えください。
杣ソマ=樹木を植えて材木をとる山。
冥加ミョウガ=知らず知らずのうちに,
神や仏あるいは菩薩などから
加護をこうむることをいう。
仏は潜在的に,
衆生の能力に応じて冥加を与えるとされ,
その冥加に対する感謝の印として
神社や仏閣へ奉納する金銭のことをもいう。
慈円の
おおけなく
憂き世の民におほふかな
わが立つ杣に
墨染めの袖
はこの歌を本歌としたもので、
後世に大きな影響を与えた歌である。
と本にあった。
伝教大師
767~822
近江の人
僧名は最澄
伝教大師は謚オクリナ
延暦四年785比叡山に草堂を建て
のち延暦寺と称した。
延暦23年空海と共に入唐、
翌年帰朝して天台宗を開いた。
写真は昨日行ってきた渋谷の
東急プラザ
ここでソフトクリームを食べ
ポットできた紅茶を飲んだ
満足した
多摩川に
さらす手作り
さらさらに
なにそこの児の
ここだかなしき
『万葉集・巻十四・3373』
作者未詳
多摩川に晒す
手作りの布のように
さらさらに、どうして
この子はこんなにも
愛しいのか
今日は渋谷
ちょっとお昼でも
ひとりで食べよう
元の銀座線の所にあった
神戸屋ベーカリーに寄ったら
お店がなくなってる
じゃあと歩きはじめるが
東急東横店三月末で
閉店
駅のそばの軽くお茶飲むところ
知らないし
さすれば
新しくなった東急プラザへ
向かうしかないか
入口すら分かりにくいが
エスカレーターで二階へ
まず消毒してお店を探す
ロボットのペッパー君が
あちこちにいるんだけど
目を合わすとまずいような気がする
興味はあるけど
無いふりして通り過ぎた
今度時間があったら
話しかけてみようかな
入ったお店は六階のお茶屋さん
テーブルに白磁の急須と茶碗が置かれてる
お店の若い男性に
初めてかと聞かれた
何だろと思ったら
お湯のポットが運ばれ
自分でお茶を入れるのだとのこと
急須には既に
お茶のパックが入ってる
自分好みの
お茶をいれたが
パックだから限界はある
おばんざいを3種選ぶと
御飯と味噌汁と香の物がセット
で1,500円税抜き
外食は
いいね
ま葛原マクズハラ
なびく秋風
吹くごとに
阿太アダの大野の
萩の花散る
『万葉集・巻十・2096』
作者未詳歌
台風9号が来ている
九州の方は大変
今まで経験したことのない大型台風
その表現も恐い
写真は友人から頂戴した
中国のお土産
頂いたものは
忘れないものだ
見るたびに
その人を思い出す
振り放サけて三日月
見れば
一見し人の眉引き
思ほゆるかも
和歌・歌人38
『万葉集・巻六・994』
大伴家持オオトモノヤカモチ
振り放サけて=振りあおいで、遥か遠くを見やって。
眉引き=墨で眉を引くこと
大伴家持オオトモノヤカモチ
718~785
大伴旅人の長男
早くに父を失い叔母の
坂上郎女サカノウエノイツラメ
に養育された。
天平18年越中守エッチュウノカミになり、
多くの作品を詠み歌境を確立した。
後、少納言となって帰京。
小倉百人一首歌番号6
中納言家持
『万葉集』の編纂に関わる歌人として
取り上げられることが多いが、
大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、
祖父・安麻呂、父・旅人と同じく
律令制下の高級官吏として歴史に名を残し、
延暦年間には中納言にまで昇った。
今日もどこへも
一歩も外へ出ない
外は暑い
明日はお習字がある
みんなと会えるのは
お習字のお稽古より楽しみ
写真はうちの猫ミーちゃんに買った
おもちゃ
普通は抱きついて蹴飛ばすのだが
無視
マタタビをなすりつけても
無視してた
安積山
影さへ見ゆる
山の井の
浅き心を
わが思わくに
和歌・歌人37
『万葉集・巻十六・3807』
陸奥国前采女ミチノクノクニノサキノウネメ
安積山の山影までも見える
山の井のように、
浅い心を私は持っていませんのに。
陸奥国前采女ミチノクノクニノサキノウネメ
伝未詳。
この歌は私のブログで
「歌の父母」で書いた記憶がある
古今集仮名序に貫之が言う
歌の父母といえる歌
このふた歌は、
うたの父母のやうにてぞ、
手ならふ人の
はじめにもしける
王仁ワニの
難波津にさくやこの花冬ごもり
今は春べと咲くやこの花
陸奥国前采女ミチノクノクニノサキノウネメの
安積山影さへ見ゆる山の井の
浅き心をわが思わくに
この歌は木簡に書かれていた。
「平成二十年、
滋賀県甲賀市の
宮町遺跡(紫香楽宮跡)
で出土した木簡に
この歌が書かれていた。
天平十六年(744)から
十七年頃に廃棄された
木簡と推測された。」
万葉集以前に書かれた木簡というから
古くから歌われていたのだろう
覚えておきたい
写真はむくげ
今日咲いてしまったら
明日の分がないじゃないの
夕月夜
心もしのに
白露の
置くこの庭に
こほろぎ鳴くも
和歌・歌人36
『古今集・巻九・羈旅歌・406』
湯原王ユラハノオオキミ
心もしのに=心もしおれるくらい
湯原王ユラハノオオキミ
生没年未詳。
天智天皇の孫。
志貴皇子の第二子。
奈良時代前期から中期にかけての
歌人である。
秋の歌や鳴鹿メイロクの歌、
宴席歌、娘子オトメとの贈答歌、
蟋蟀コオロギの歌、月の歌、七夕の歌など、
『万葉集』の中に
短歌19首残す。
歌風は温雅で平淡に流れ、
趣味的抒情を技巧的に
まとめようとしている。
なお個性的な作品もある。
と本にあった。
今日もどこへも出ず
何もせず
クーラーかけて
ゴロゴロ
ナマケモノの日常
最高だ
天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
いでし月かも
和歌・歌人35
『古今集・巻九・羈旅歌キリョカ・406』
安倍仲麿アベノナカマロ
唐土モロコシにて月を見てよみける
安倍仲麿アベノナカマロ
698~770
19歳で遣唐留学生に選ばれ、
717年唐に入唐した。
入唐後は玄宗皇帝に仕え、
そのかたわら李白・大維らとも交わり、
文名を高めた。
30余年の滞在の後、
753帰国しようとしたが、
暴風にあい安南に漂着。
後、唐に帰り、その地で没した。
唐名を朝衡チョウコウと称した。
百人一首歌番号7
仲麻呂の子である満月丸が
後の安倍晴明の先祖にあたるとされる。
写真は金曜日の会食
美濃吉の前菜の写真だ
京懐石「花」朝顔
季節の彩り 前菜七種
椀物 鯛真丈 水菜 柚子
向付 本日のお造り
旬菜 甘鯛唐揚げ 南瓜ズッキーニ
強肴 胡麻豆腐 ラシン 山葵
鉢物 山科茄子揚煮
焼手毬麩湯葉 赤万願寺 生姜あんかけ
ご飯 とうもろこし御飯 香の物 赤出汁
水物
甘味
抹茶
外食は楽しいが
コロナは怖い
佐保川サホガワの
小石踏み渡り
ぬばたまの
黒馬クロマの来夜クヨは
年にもあらぬか
和歌・歌人・34
『万葉集・巻四・525』
大伴坂上郎女オオトモノサカノウエイツラメ
佐保川の小石を踏み渡って、
あなたをのせる黒馬の来る夜は、
一生に一度でもあってほしいものだ。
大伴坂上郎女オオトモノサカノウエイツラメ
生没年未詳
大伴安麻呂の女。
大伴旅人の異母妹。
はじめ穂積皇子ホヅミノミコの妻となり、
皇子の死後、藤原麻呂の愛を受け、
のち異母兄大伴宿奈麻呂の妻となって
坂上大嬢サカノウエノオオオトメ・二嬢を生む。
旅人の死後、
大伴氏の中心となって
大伴氏の栄光を支えた。
家持に与えた影響も大きい。
万葉集中代表的な女流歌人として注目される。
歌風は理知的、技巧的である。
素敵な歌で気に入ってしまった。
もう一首
夏の野の
繁みに咲ける姫百合の
知らえぬ恋は
苦しきものそ
『万葉集・巻八・1500』
写真は
時期遅れの
金魚鉢
人が来ないから
飾り物も
適当になってるんだ
写真は藤原 敏行フジワラノトシユキ朝臣
岡田華郷筆
秋来ぬと
目にはさやかに
見えねども
風の音にぞ
おどろかれぬる
(古今和歌集・秋歌上169)
藤原 敏行フジワラノトシユキは、
平安時代前期の貴族・歌人・書家。
藤原南家巨勢麻呂流、
陸奧出羽按察使・藤原富士麻呂の長男。
官位は従四位上・右兵衛督。
三十六歌仙の一人。
(ウイキペディアヨリ)
想望庵様からラインが来た
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
敏行
その後具合はいかがですか?
日中はまだまだ厳しゅうございますので
どうぞお大事に❣️」
流石です
今日笹雪さんから電話があった
最近のブログが陰鬱な書きぶりで
心配してくれたようだ
声は元気だし
何処も悪く無い
久しぶりに
お茶の話し
各服点て
茶会のこと
茶事のこと
これからどうなるの茶道界
心配しても仕方ないが
不安はいっぱいだ
通話時間はついつい102分48秒
お喋りは楽し
若の浦に
潮満ち来れば潟をなみ
葦辺アシベをさして
鶴タヅ鳴き渡る
和歌・歌人・33
山部赤人ヤマベノアカヒト
『万葉集・巻六・919』
山部赤人ヤマベノアカヒト
生没年未詳
聖武天皇の吉野、難波、
紀伊への行幸に従ったり、
東国や四国にも赴いており、
作品の多くは従駕や旅の途中の作である。
史書に記載のないことから
下級官人と推定されるが、
柿本人麻呂と同様、宮廷
儀礼歌については、
人麻呂の継承者と言われているが、
人麻呂の歌に見られる迫力はない。
赤人の本領は
洗練された清澄な自然詠を
ものした点に求められる。
この自然美の世界は
後世に大きな影響を与え、
古今集の序では
人麻呂とともに大歌人として崇められている。
今日は朝日カルチャーに予約をしてあったが
念のために
外出しない
人と会わない期間なので
家で寝てる
今日は良く寝られた
朝寝坊して
昼寝した
果たして夜は寝れるだろうか
ちょっと心配