三条院サンジョウイン
和歌・歌人103
心にもあらでうき世にながらへば
恋しかるべき夜半の月かな
三条天皇サンジョウテンノウ
976~1017
日本の第67代天皇
(在位:1011年7月16日~ 1016年3月10日
諱イミナは居貞オキサダ
冷泉天皇の第二皇子。
母は藤原兼家の長女超子。
花山天皇の異母弟。
写真は
七月の晴れた日に
撮った写真
蓮根レンコンは
蓮の地下茎が肥大したもの。
蓮の実も若いうちなら蓮の実ご飯。
葉も茎も食べられそうだ。
花言葉は「雄弁」
藤原道信フジワラノミチノブ
和歌・歌人102
明けぬれば暮るるものとは知りながら
なほ恨めしき朝ぼらけかな
藤原道信フジワラノミチノブ
972-994
平安時代中期の公家,歌人。
藤原為光の3男。
母は藤原伊尹(これただ)の娘。
備後,越前,丹後などの国守を歴任し,
没時は左近衛中将,従四位上。
一条朝の歌人として知られ,
中古三十六歌仙のひとり。
「拾遺和歌集」以下の勅撰集に48首がはいる。
正暦5年7月11日死去。23歳。
家集に「道信集」。
今日も雨だし
特に何もしない
写真は
書類を整理していたら出てきた
認定証と書いてある
花山院カザンイン
和歌・歌人101
秋の夜の
月にこころのあくがれて
雲ゐにものを
思ふころかな
花山天皇カザンテンノウ
968~1008
第 65代天皇 在位1年 10ヵ月,
(在位 984~986) 。
名は師貞。
冷泉天皇第1皇子,母は藤原伊尹の娘懐子。
永観2 (984) 年円融天皇の譲位で践祚,
次いで即位。
外戚 藤原義懐 (伊尹の子) と
右大臣藤原兼家の
勢力争いの余波を受けて
花山寺で落飾,
入覚と号し,花山法皇と称した。
出家後,諸寺を遍歴し仏道を修めた。
絵や和歌に巧みで,
『拾遺和歌集』は同法皇の撰と称せられる。
雨が降ったり止んだり
してる
藤原公任フジワラノキントウ
和歌・歌人100
朝まだき嵐の山の寒ければ
紅葉の錦着ぬ人ぞなき
滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれ
春来てぞ人もとひける山里は
花こそやどのあるじなりけれ
藤原 公任
フジワラノキントウ
966~1041
平安中期の公卿・歌人。
藤原北家小野宮流、
父は関白太政大臣・藤原頼忠。
母は醍醐天皇皇子代明親王の娘厳子。
官位は正二位・権大納言。
四条大納言。
『和漢朗詠集』の撰者。
藤原道長と親しく,
歌合に出席、999年秋には
大覚寺の滝がなくなったのを惜しみ,
「滝の音は…」を詠んだ
と。藤原行成の日記「権記」にある。
今日は日曜日
何も予定はなし
ゆっくり起きたが
二度寝してお昼を食べて
お昼寝
お陰で夜は寝つきが悪い
珈琲の飲み過ぎかしら
冷凍庫のお菓子ひとつ
すっかり忘れてた
藤原 義孝フジワラノヨシタカ
和歌・歌人99
君がため惜しからざりし命さへ
長くもがなと思ひけるかな
《後拾遺集》
藤原 義孝フジワラノヨシタカフジ
954~974
藤原北家、一条摂政太政大臣・藤原伊尹フジワラノコレタダの三男(または四男)。
中古三十六歌仙の一人。
子に藤原行成がいる。
オリンピック
スポーツ好きとは言えないが
思わず見てしまった
藤原長能フジワラノナガヨシ
和歌・歌人98
あられふる
交野のみのの狩衣
ぬれぬ宿かす
人しなければ
藤原長能 フジワラノナガヨシ、フジワラノナガトウ
949?-?
平安時代中期の官吏,歌人。
天暦3年?生まれ。
藤原倫寧トモヤスの子。
「蜻蛉カゲロウ日記」作者(藤原道綱の母)の弟。
従五位上,伊賀守となる。
中古三十六歌仙のひとり。
今日は土曜日
なにもない
用事がない
たんぱく質不足か
ゴロリゴロリ
藤原高遠フジワラノタカトウ
和歌・歌人97
逢坂の関のいはかど踏みならし
山たちいづる霧原の駒
藤原高遠 フジワラノタカトウ
949-1013
平安時代中期の公卿,歌人。
天暦3年生まれ。
藤原斉敏(ただとし)の子。
藤原実資(さねすけ)の同母兄。
大宰大弐(だざいのだいに),
正三位となったが,寛弘6年(1009)筑後(ちくご)国守の訴えで解任された。
中古三十六歌仙のひとりで,
「拾遺和歌集」以下の勅撰集に27首。
一条天皇の笛の師。
長和2年5月死去。65歳。
家集に「大弐高遠集」。
和歌は駒迎を詠んだもの
駒迎コマムカエとは
〘名〙 平安時代以降、
駒牽(こまひき)の時、
諸国から貢進される馬を
馬寮(めりょう)の使いが、
近江(滋賀県)の逢坂の関まで迎えに出たこと。
毎年八月中旬に行なわれた。
こまむかい。
近世には駒牽全体を指す語として用いられた。《季・秋》
陰暦八月十六日の宮廷行事とのこと
馬の掛軸つかえるかもね
忘れなければだが
藤原実方フジワラノサネカタ
和歌・歌人96
かくとだに
えやは
いぶきのさしも草
さしも知らじな
燃ゆる思ひを
かくと→このように
だに→~だけでも
えやは→言うことができようか、いやできない
こんなにあなたを思ってます
というそのことだけでさえ
私は言えないのだから、
いぶきのさしも草のように
燃えているこの胸の思いの火を、
あなたはそれとご存じないでしょうね
藤原実方
998~960
平安時代の歌人。
左大臣師尹の孫。
父は侍従定時,
母は左大臣源雅信の娘。
父の早世のためか叔父済時の養子となった。
侍従,左近衛中将などを歴任したのち,
長徳1(995)年に陸奥守となって赴任し,任地で没した。
『拾遺集』以下の勅撰集に67首が入集。
藤原公任や大江匡衡,
また恋愛関係にあった女性たちとの贈答歌が多く,
歌合など晴れの歌は少ない。
慣習にこだわらない大胆なふるまいが多く,
和歌のほか,
すぐれた舞人としても活躍,
はなやかな貴公子として清少納言など
多くの女性と恋愛関係を持った。
奔放な性格と,
家柄に比して不遇だったことから,
不仲だった藤原行成と殿上で争い,
相手の冠を投げ落として一条天皇の怒りを買い
「歌枕見てまゐれ」といわれて
陸奥守に左遷されたという話などが生まれ,
遠い任地で没したことも加わって,
その人物像は早くからさまざまに説話化された。
(朝日日本歴史人物事典ヨリ)
かくとだにの和歌は
小倉百人一首の歌番号51
藤原高光フジワラノタカミツ
和歌・歌人95
かくばかり
へがたく見ゆる世の中に
うらやましくも
すめる月かな
『拾遺集』
藤原高光は
?-994
平安時代中期の歌人。
藤原師輔モロスケの8男。
母は雅子内親王。
応和元年(961)右近衛ウコンノエ少将のとき,
比叡山で出家。
多武峰(とうのみね)に庵をむすんだ。
歌物語「多武峯少将物語」は
この名門貴公子の出家を題材とする。
三十六歌仙のひとりで,
「拾遺和歌集」以下の勅撰集に23首。
正暦5年3月10日死去。
法名は如覚。
家集に「高光集」。
【格言など】秋風にみだれて物はおもへども
萩の下葉の色はかはらず
「新古今和歌集」
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
今日は いや今日も
何もしない1日
天気が悪いから
寝ていた
藤原道綱母フジワラミチツナノハハ
和歌・歌人94
嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は
いかに久しき ものとかは知る
藤原道綱母フジワラミチツナノハハは
936- 995、
平安時代中期の歌人。
藤原倫寧の娘。
本朝第一美人三人内也とある
日本で最も美しい女性三人のうちの一人であると
(尊卑分脈)
他の2人は光明皇后と藤原明子 (染殿后)。
藤原兼家の妻の一人となり一子道綱を儲けた。
兼家との結婚生活の様子などを
『蜻蛉日記』につづった。
晩年は摂政になった夫に
省みられる事も少なく
寂しい生活を送った
と言われているが詳細は不明。
『蜻蛉日記』は没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。
現在ラジオの古典講読で
蜻蛉日記を放送中
ラジオ第2 毎週土曜 午後5時 |
再放送 毎週日曜 午前6時
「王朝日記の世界Ⅱ 蜻蛉日記」
電気通信大学名誉教授、国文学者…島内景二,
【朗読】加賀美幸子
私はラジオで聞かずに、
ユーチューブで寝る前に聞いている
写真は青梅
恵慶 エギョウ
和歌・歌人93
八重むぐら繁れる宿のさびしきに
人こそ見えね秋は来にけり
恵慶 エギョウ とは
生没年不明
平安時代中期の日本の僧、歌人。
恵慶法師とも。
中古三十六歌仙の一。
出自・経歴は不詳。
播磨国分寺の講師をつとめ、
国分寺へ下向する際に
天台座主尋禅から歌を送られた。
歌人としては『拾遺和歌集』に初出する。
962年(応和2年)ごろより歌合などで活動し、
986年花山院の熊野行幸に供奉した?記録がある。
また、大中臣能宣・紀時文・清原元輔など
中級の公家歌人と交流していた。
小倉百人一首にも歌が取られている。
家集に『恵慶法師集』がある
写真は
昨日のふくもとでの煮物椀
銀椀に 鱧ハモと青梅
夏だ
壬生忠見ミブノタダミ
和歌・歌人92
いづかたに
なきてゆくらむ時鳥
淀のわたりの
まだ夜ぶかきに
『拾遺集』
恋すてふ
わが名はまだき
立ちにけり
人知れずこそ
思いそめしか
『拾遺集』
壬生忠見 ミブノタダミ
平安時代中期の官吏,歌人。
壬生忠岑タダミネの子。
三十六歌仙のひとり。
官位はひくく,
摂津大目ダイサカン。
天徳4年(960)の内裏歌合で
「恋すてふわが名はまだき立ちにけり
人知れずこそ思ひ初めしか」の作が,
平兼盛の「忍ぶれど色に出でにけり
わが恋は物や思ふと人の問ふまで」
に敗れた話が有名。
家集に「忠見集」。
(日本人名大辞典ヨリ)
昨日の夜からスマホが容量いっぱいで
全く使えなくなった
電話やメールの受信
充電もできないことになり
時間もわからずの状態
今日はワクチン接種の一回目
なおのこと不便だった
夕方に機種変更して
今度は容量スピードとも高性能の
ハイスペックのものにした
快適だ
曽根好忠ソネヨシタダ
和歌・歌人91
わぎもこが汗にそほつる寝より
雷夏の昼間はうとしとや思ふ
『曾丹集』
山城の鳥羽田の面を見わたせば
ほのかに今朝ぞ秋風は吹く
『詞花集』
鳴けや鳴け蓬が杣のきりぎりす
過ぎゆく秋はげにぞ悲しき
『後拾遺集』
由良の門を渡る舟人梶を絶え
ゆくへも知らぬ恋の道かな
『新古今集』
曽禰 好忠
(そね の よしただ、生没年不詳)は、
平安時代中期の歌人。
出自については未詳。
中古三十六歌仙の一人。
官位は六位・丹後掾。
長く丹後掾を務めたことから
曾丹後(そたんご)とも
曾丹(そたん)とも称された。
(ウィキペディアより)
やっと植木屋さんが来て
綺麗になった木戸の紅葉
スッキリした
源重之ミナモトノシゲユキ
和歌・歌人90
音もせで
思ひに燃ゆる蛍こそ
鳴く虫よりも
あはれなりけれ
『後拾遺集』
風をいたみ
岩うつ波の
おのれのみ
くだけてものを
思ふころかな
『詞花集』
源 重之ミナモトノシゲユキ
平安時代中期の貴族・歌人。
清和源氏、上野太守・貞元親王の孫で、
三河守・源兼信の子。
伯父の参議・源兼忠の養子。
官位は従五位下・筑前権守。
三十六歌仙の一人。
今日も寝てる
斎宮女御サイグウノニョウゴ
和歌・歌人89
琴の音に
峰の松風かよふらし
いづれのをより
しらべそめけむ
斎宮女御サイグウノニョウゴは
徽子女王キシ(ヨシコ)ジョオウ
延長7年(929)~ 寛和元年(985)
平安時代中期の皇族、歌人。
式部卿宮・重明親王の第1王女
(醍醐天皇の皇孫)。
母は藤原忠平の次女・寛子。
朱雀天皇朝の伊勢斎宮、
のち村上天皇女御。
斎宮を退下の後に女御に召されたことから、
斎宮女御サイグウノニョウゴ
と称され、
また承香殿女御ショウキョウデンノニョゴ、
式部卿の女御とも称された。
三十六歌仙。
女房三十六歌仙の1人。
今日は
暑くも寒くもない
写真は五月の薔薇
薔薇を詠んだ私めの短歌
身の内に
明かりが点る
薔薇咲くを
去年と同じ
場所に見いだす
駐車場の
フェンスをつたう
薔薇の蔓
紅紫の
花に照らさる
五月の風
大輪の薔薇に纏マツわるを
われは見守る
夢のごとくに
叶わぬこと
すでに願わざるわれが
一輪の薔薇の
香をかぎにゆく
とき満ちて
薔薇の蕾はかたくなに
打ち畳たる
花びら抱く
村雨庵