村雨庵 茶の湯日記

日々是茶の湯

藤原基俊 フジワラノ モトトシ

2022-03-07 23:11:13 | 和歌と歌人

 藤原基俊 フジワラノ モトトシ
 和歌・歌人132
夏の夜の月まつほどの手すさびに
岩もる清水いくむすびしつ

契りおきしさせもが露を命にて
あはれ今年の秋も去ぬめり


藤原基俊 フジワラノ モトトシ
1060~1142
平安時代後期の歌人。
父は右大臣俊家。
母は高階順業の娘。
従五位上左衛門佐。
長治2(1105)年『堀河百首』,
元永1(1118)年『内大臣家歌合』などに出詠。
歌合の判者をたびたび務め,
私選集『新撰朗詠集』を編纂するなど,
源俊頼と共に歌壇の指導者的存在であった。
晩年の弟子に,藤原俊成がいる。
保延4(1138)年『本朝無題詩』に17首の漢詩を残す漢詩人でもあった。
(朝日日本歴史人物事典。)

写真は「都の春」
 花は紅
 柳は緑

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源 兼昌ミナモトノ カネマサ

2022-03-06 22:42:45 | 和歌と歌人

 源 兼昌ミナモトノ カネマサ
 和歌・歌人131
淡路島かよふ千鳥の鳴く声に 
幾夜寝覚めぬ須磨の関守
「金葉和歌集」

源 兼昌ミナモトノ カネマサ 
平安時代後期の貴族・歌人。
宇多源氏、美濃介・源俊輔の子。
官位は従五位下・皇后宮少進。
その後出家。
康和2年(1100年)の国信卿家歌合以下、
永久3年(1115年)、
元永元年(1118年)、
同2年(1119年)の
内大臣忠通家歌合などに出詠しており、
堀河院歌壇の下部集団である
忠通家歌壇で活躍した。
永久4年(1116年)の「堀河次郎百首」の作者の一人。
『金葉和歌集』『詞花和歌集』
『千載和歌集』『新勅撰和歌集』
『新千載和歌集』の勅撰和歌集に
和歌作品が計7首入集している。
家集は伝わらない。

今日はゴロゴロ
何もせぬ日
写真は昨日のお昼
ヨモギ豆腐と
どぶろくで
ちょっと一杯

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行尊ギョウソン

2022-02-28 22:21:15 | 和歌と歌人

 行尊ギョウソン
和歌・歌人130
もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし


行尊 ぎょうそん
1055-1135 
平安時代後期の僧,歌人。
天喜テンギ3年生まれ。
源基平モトヒラの子。
天台宗。
近江(滋賀県)園城寺で出家し,
各地で修行。
祈祷にすぐれ鳥羽天皇の護持僧となる。
園城寺長吏,四天王寺別当,天台座主をつとめた。
大僧正。
和歌が「金葉和歌集」以下の勅撰集に
多数おさめられている。
長承4年2月5日死去。81歳。
通称は平等院大僧正。
著作に「行尊大僧正集」など。
(デジタル版 日本人名大辞典ヨリ)

今日は寒くない
いい天気だ
炭を入れ替えたり
釣釜と透木釜にするので
前のと入替えた

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藤原顕季フジワラノアキスエ

2022-02-21 23:06:57 | 和歌と歌人

 藤原顕季フジワラノアキスエ
 和歌・歌人129
わが恋は吉野の山のおくなれや
思ひいれだもあふ人もなし
『詞花和歌集』

藤原顕季フジワラノアキスエ
天喜3 (1055) ~保安4 (1123)
平安時代後期の歌人。
春宮大進藤原隆経の子。
母は白河天皇の乳母親子。
白河天皇の寵を受け,
各国の国守を歴任。
累進して修理大夫,院の別当,
正三位に叙せられ,
天永2 (1111) 年には大宰大弐となった。
家が六条烏丸にあったので,
六条修理大夫とも呼ばれる。
歌道にすぐれ,
歌学六条家の始祖と仰がれ,
晩年にはしばしば歌会を催して,
その判者となった。
『後撰集』以下の勅撰集に四十数首入集。
家集『六条修理大夫集』。

今日は臨時のお茶のお稽古
お一人様がちょっと遠くからお見えになる
午前中にひと点前するとお昼だが
お昼はなんとパンひとつという少食
私目は食パン二枚にベーコンとジャム 
サラダの小鉢と
熱々インスタントのスープ
お昼だから
良しとしよう
あとは頭と身体を動かして
カロリー消費すれば

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源 俊頼 ミナモトノ トシヨリ

2022-02-18 23:45:27 | 和歌と歌人

 源 俊頼 ミナモトノ トシヨリ
 和歌・歌人128

山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる 滝の白糸
『金葉集』

風ふけば蓮はすの浮き葉に玉こえて涼しくなりぬ日ぐらしの声
『金葉集』

この里も夕立しけり浅茅生に露のすがらぬ草の葉もなし
『金葉集』

鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花なみよる秋の夕暮
『金葉集』

憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
『千載集』


源 俊頼 ミナモトノ トシヨリ
 [生]天喜3(1055)頃
 [没]大治4(1129)頃
平安時代後期の歌人。
経信の子で俊恵 (しゅんえ) の父。
従四位上木工頭。
藤原基俊と相対した歌壇の権威で,
寛治3 (1089) 年の『寛子扇歌合』以下多数の歌合に出詠したり判者となった。
『堀河百首』や『永久百首』の作者の一人でもある。
『金葉和歌集』の撰者で,
勅撰集に新風をもたらし,
歌学書『俊頼髄脳』の著述もある。
私家集に『散木奇歌集』があり,
『金葉和歌集』以下の勅撰集に 210首近く入集。
伝俊頼筆『古今集』断巻がある。
(ブリタニカ国際大百科事典 )

花の写真は若い友人が送ってくれたもの

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藤原資宗フジワラノスケムネ

2022-02-05 23:38:19 | 和歌と歌人

 藤原資宗フジワラノスケムネ
 和歌・歌人127
筏士イカダシよ待て言問はん水上は
いかばかり吹く山の嵐ぞ
『新古今集』

藤原資宗フジワラノスケムネ
生没年未詳。
後冷泉期の人。
摂政太政大臣藤原実頼の子孫で、
正三位参議資房スケフサの男。
母は三河守源経相ツネスケの女ムスメ。
少将・摂津守・右馬守を歴任、
正四位下に至ったが、
寛治元年(1089)に出家した。
歌人としては、
「新古今集」「続後撰集」に
各一首ずつ入集していることと、
永承元年(1046)五月五日に
後冷泉天皇が催した内裏根合ダイリネアワセに
宿侍シュクジを勤めたこと意外の事跡は明らかでない。

写真は

貴人点の菓子をのせる奉書の折り方

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裕子内親王家紀伊ユウシナイシンノウケノキイ

2022-01-24 23:08:03 | 和歌と歌人

 裕子内親王家紀伊ユウシナイシンノウケノキイ
 和歌・歌人126
音に聞くたかしの浜のあだ波は
かけじや袖の濡れもこそすれ

祐子内親王家紀伊 ユウシナイシンノウケノキイ
生没年不明。
平安時代中期-後期、平安時代院政期の日本の女流歌人。
後朱雀天皇の皇女祐子内親王の女房。
女房三十六歌仙の一人。
一宮紀伊、紀伊君とも呼ばれる。
従五位上民部大輔春宮亮平経方の娘とも、
藤原師長の娘である堀河院御乳母典侍紀伊三位師子
と同一人物ともいわれており
父親は定かではない。
母は「岩垣沼の中将」の作者
祐子内親王家小弁コベン。
紀伊守藤原重経(素意法師)は
兄とも夫とも言われている。
「堀河百首」の歌人のひとり。
「後拾遺和歌集」以下の勅撰集に31首がのせられている。


写真はうちの庭
貝母がもう芽吹いている

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永縁 ヨウエン

2022-01-23 23:47:03 | 和歌と歌人

 永縁 ヨウエン
 和歌・歌人125
きくたびにめづらしければ時鳥
いつもはつねの心ちこそすれ
「金葉和歌集」

永縁 ようえん
1048-1125 
平安時代後期の僧。
永承3年生まれ。
母は大江公資キンヨリの娘。
法相宗。
興福寺の頼信に師事。
維摩会,宮中の最勝会の講師をつとめ,
以後元興寺,大安寺,法隆寺などの別当をへて,
保安2年興福寺別当,
天治元年権僧正。
和歌にたくみで「金葉和歌集」などに詠歌がある。
天治2年4月5日死去。78歳。
俗姓は藤原。
通称は初音僧正。
「えいえん」ともよむ。
(デジタル版 日本人名大辞典)

歌人の永縁ヨウエン、エイエン
のこと
知らなかった

今日は日曜日
何の用もない日

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藤原 通俊フジワラノミチトシ

2022-01-22 23:36:34 | 和歌と歌人

 藤原 通俊フジワラノミチトシ
 和歌・歌人124
あなじ吹く瀬戸の潮合に舟出して
はやくぞすぐる佐屋形山を

あなじとは=あなし,あなぜとも。
主として西日本で冬の北西季節風のことをいう。

藤原通俊 ふじわらの-みちとし
1047-1099 
平安時代後期の公卿,歌人。
永承2年生まれ。
大宰大弐藤原経平の次男。
母は高階成順ナリノブの娘。
白河天皇の近臣として活躍。
応徳元年(1084)参議兼右大弁。
のち権中納言,従二位。
礼部納言とよばれる。
小野宮流の有職家。
歌人としての才もあり,
「後拾遺和歌集」を撰進した。
承徳3年8月16日死去。53歳。
(デジタル版 日本人名大辞典)

今日は
何もない日
オミクロンも爆発感染とかだから
外出しないにことに限る
体重計の電池がなくて
最近は計っていなかったが
暇なので電池を入れ換えてみた
想像より2キロ増えていた
最近はお茶の日以外は
好きなだけ寝て
好きなものを
好きなだけ食べてるのだから
仕方ないかも

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大江匡房オオエノマサフサ

2022-01-18 23:44:21 | 和歌と歌人

 大江匡房オオエノマサフサ
 和歌・歌人123
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり
とやまの霞 立たずもあらなむ
百人一首73番
『後拾遺和歌集』

大江 匡房オオエノマサフサ
平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。
正二位・権中納言・大蔵卿
大学頭・大江成衡の子。
江帥ゴウノソツと号す。
藤原伊房・藤原為房とともに
白河朝の「三房」と称された。

今日は一日のんびりして
短歌を詠んで
謡本を眺めて
朝寝と昼寝
眠たくて寝ていた
わするなよ のブログを書いたが
昨日は書くのを忘れて
いつの間にか寝てしまった

写真は
かつて紫兎先生に頂戴したもの
愛嬌がある

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周防内侍スオウノナイシ

2021-12-29 22:45:04 | 和歌と歌人

 周防内侍スオウノナイシ
 和歌・歌人122
春の夜の夢ばかりなる手枕に
かひなく立たむ名こそ惜しけれ

周防内侍
スオウノナイシ
1037年(長暦元年)頃 ~ 1109年(天仁2年)以後 1111年(天永2年)以前)
平安時代後期の歌人である。
女房三十六歌仙の一人。
本名は平 仲子タイラノチュウシ。
掌侍正五位下に至る。
父は「和歌六人党」の一人、
桓武平氏の周防守従五位上平棟仲。
母は加賀守従五位下源正職の女で、
後冷泉院の女房となり
小馬内侍と呼ばれた者だという。
はじめ後冷泉天皇に出仕、
治暦4年(1068年)春の崩御後は家でふさぎこんでいたが、
後三条天皇即位により
7月7日から再出仕せよとの命を受け、
以後白河天皇、堀河天皇に至る4朝に仕えた。
歌合等にも度々参加し、
公家・殿上人との贈答歌も残されている。
『後拾遺和歌集』以降の勅撰集、
家集『周防内侍集』等に作品を残す。
天仁元年(1108年)以後、
病のため出家、
天永2年(1111年)までの間に没したようである。
(ウィキペディアより)

今日は片付けの一日
成果が見えず
たいして変わらず
ただ疲れた
写真は昨日の茶会

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源義家ミナモトノヨシイエ

2021-11-29 22:42:29 | 和歌と歌人

 源義家ミナモトノヨシイエ
 和歌・歌人121
吹く風を 
なこその関と思へども
道もせに散る 
山桜かな 

源義家 ミナモトノヨシイエ
1039-1106 
平安時代中期-後期の武人。
長暦3年生まれ。
源頼義の長男。
前九年の役で父とともに活躍。
のち陸奥守兼鎮守府将軍となり,
後三年の役で清原氏の内紛を鎮圧,
東国に源氏の基盤をきずいた。
天下第一の武勇の士とされ,
衣川の合戦での歌のやりとり,
雁(かり)の列の乱れに
伏兵をみやぶるなど
伝説がおおい。
嘉承元年7月4日死去。68歳。
通称は八幡太郎。
(日本人名大辞典)

朝が寒くなった
一昨日頼んだ椿が届いたので
大きなシャベルで土を掘って
植えた
大きな苗は深く掘らないと植えられない
到底無理なので
抵当な植木鉢に入れてみた
いくつも蕾がついているが
ちゃんと咲くかは不明
寒いところを裸足で作業していたら
膝が痛くなった
多分冷えたからか
自分でちゃんと注意しないと
いけない
と思うけど
忘れちゃう

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かく玉章タマズサとみゆるかな

2021-11-28 20:54:40 | 和歌と歌人

 津守国基ツモリノクニモト
 和歌・歌人120
薄墨に
かく玉章とみゆるかな
霞める空に
かへるかりがね

津守国基ツモリノクニモト
1023‐1102
(治安3‐康和4)
平安期の歌人,住吉社39代神主。
基辰の子。
1060年(康平3)神主となるが,
後三条・白河親政に接近して
69年(延久1)従五位下に叙され,
住吉社の興隆に尽力し,
中興の祖といわれる。
和歌を好み,
橘俊綱,良暹(りようせん)法師らと交流,
表現面での新しさを求めて
《万葉集》の用語を使用した歌を詠み,
和歌史上注目される。
《後拾遺和歌集》に3首入集したが,
これは撰者に
小鰺(あじ)を贈ったため
とうわさされた。
他の勅撰集に17首入集。
(世界百科事典ヨリ)

写真は稽古用の炭

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源 経信 ミナモトノツネノブ

2021-11-07 21:47:07 | 和歌と歌人

 源 経信 ミナモトノツネノブ
 和歌・歌人119
夕されば 門田の稲葉 おとづれて
芦のまろやに 秋風ぞ吹く

源 経信 ミナモトノツネノブ
平安時代後期の公家・歌人。
宇多源氏、権中納言・源道方の六男。
官位は正二位・大納言。
桂大納言と号す。
小倉百人一首では大納言経信。
三河権守・ 刑部少輔・左馬頭・少納言などを経て、
康平3年(1062年)右中弁に任ぜられ、
以後蔵人頭などを経て、
治暦3年(1067年)参議として公卿に列す。

承徳元年(1097年)大宰府で没している。
82歳。

詩歌・管絃に秀で、
有職故実にも通じ、
その多芸多才は藤原公任に比較された。
長久2年(1041年)の
「祐子内親王家名所歌合」をはじめとして、
多くの歌合に参加している。
当代一の歌人とされたが、
経信をさしおいて
藤原通俊が撰集した
『後拾遺和歌集』に対して
『後拾遺問答』・『難後拾遺』を著して
これを批判した。

『後拾遺和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に87首が入集。
家集に『経宣集』、
日記に『帥記』がある。

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源 頼実 ミナモトノ ヨリザネ

2021-10-30 21:52:48 | 和歌と歌人

 源 頼実 ミナモトノ ヨリザネ
 和歌・歌人118
このはちる宿はききわくことぞなき
時雨する夜も時雨せぬ夜も

源 頼実 ミナモトノ ヨリザネ
没年:寛徳1.6.7(1044.7.4)
生年:長和4(1015)
平安中期の武官で歌人。
頼国と播磨守藤原信理の娘の子。
従五位下,左衛門尉。
一時,罪を得て土佐国に流されたことがある。
若くして歌人としての才能を現し,
長元8(1035)年,
関白藤原頼通邸で催された
「賀陽院水閣歌合」に
蔵人所雑色で参加したのをはじめ
多くの歌会に出席。
歌道に熱心で,
住吉社(大阪市の住吉大社)に参詣して
1首の秀歌を詠むことができたなら
命を召されてもよいと祈っているほどだ。
その歌が『後拾遺和歌集』に採られた
「木葉散る宿は聞きわくことそなき
時雨する夜も時雨せぬ夜も」である。
和歌六人党のひとりである
和歌六人党とは
藤原範永・経衡,
平棟仲,
源兼長・頼家、
源 頼実の六人
(朝日日本歴史人物事典の解説)

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