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トヨタ--無消費から世界へ

『繁栄のパラドクス』より
トヨタ--無消費から世界へ
 自動車メーカー、トヨタはどうだろう。低価格でコンパクトなトヨタカローラはつねによく売れている。トヨタに成功をもたらしたおもな要因は、安価な労働力や政府からの援助ではない。それらももちろん役には立ったが、トヨタは戦後、より重要で、より永続的な、ある要因によって成長した。
 1937年に創業したトヨタ自動車株式会社は、日本と東アジア地域の無消費に焦点を当てたプロダクト開発をおこなった。当時の人は誰も、トヨタが将来、世界第5位の収益を上げる巨大企業になるとは想像しなかっただろう。日本ではそのころまだ、31万輛近くの荷馬車と11万1000輛の牛車が行き来していた。道路の大半が未舗装で、そうした道を自動車で走行するのは不経済で危険な冒険でもあった。道が悪ければ車は故障しやすい。全長の5分の1しか舗装されていなかった戦後の日本では、動かなくなった車が道路脇のあちこちで見られた。トヨタはそうした国内事情を考慮して車をつくった。当時の社長、豊田喜一郎は言明している。「トヨタは、荒れた道路に耐えられ、東アジアの人々にとって実用的な、経済効率のいい車を開発しなければならない」
 当時トヨタが日本で生産していた車はアメリカの消費者が満足できるレベルのものではなかった。しかしトヨタにとってそれは問題でぱなかった。先進国への輸出を考えるまえに、日本と近隣アジア諸国の巨大な無消費をターゲットとする心構えだったからだ。トヨタが日本国内の販売台数と同数の車両を北米に輸出するようになるのは1980年のことだ。しかし北米への輸出を開始したあとも基本的な戦略を変えることはなく、ガソリンを大量に食うアメリカ車を所有できない、アメリカ市場の低所得層をターゲットとした。
 トヨタが、フオード、GM、クライスラーといった既存の自動車メーカーと競争するのではなく、まず、無消費をターゲットとするという戦略を取ったことは、日本の発展にとって大きな意義があった。その理由を大きく4つにまとめてみよう。
 第一に、トヨタは本拠地である日本に、マーケティング、販売、流通、教育、サービス、製品サポート等、自動車業界に付随するあらゆる職種を引き入れるローカル市場を創造した。一例として、卜ヨタは名古屋の中部日本自動車学校を設立している。これが他の自動車学校のモデルとなって、日本での自動車の普及に貢献するとともに、トヨタ車の販売台数も押し上げた。もしトヨタがたんに安い労働力を利用して自動車を生産し、外国に輸出するという低コスト戦略を取っていたなら、自動車学校には投資しなかっただろうし、その自動車学校に1958年、新入社員にトヨタのセールスメソッドを教育するための「トヨタ・セールスカレッジ」を設置することもなかっただろう(その後、「日進研修センター」を建設)。無消費をターゲットにするには、プロダクトの効果的な製造や出荷に関する専門知識だけでなく、その地域の実情に関する知識も不可欠となる。
 第二に、無消費をターゲットとした戦略が成功したことで、活気ある市場が生まれ、長期的な雇用を創出する土壌が形成された。トヨタが新しい工場を設立し、国内の消費者に向けてますます多くの車を販売するようになると、より多くの従業員が必要となった。たとえば、多くの会社が豊田市(豊田という市の名称は、トヨタがそこに会社と工場を置いたことに由来する)で自動車の製造にかかわるようになり、1962年には2・7だった求人倍率が、1970年には7・1にまで増加している。また、全国のトヨタの販売店数は1938年にはわずか29店だったが、1980年には300店を超えた。トヨタの成長を雇用面で見ると、圧巻としか言いようがない。1957年、トヨタの従業員数は約6300人だったが、10年後には5倍以上の約3万2000人となった。現在、トヨタは日本の7万人を含め、全世界で36万9000人以上の従業員を雇用している。トヨタの初代会長である豊田英二は、従業員の教育および育成に関する方針について、「物をつくるのは人だ。したがって、物づくりのまえに人を育てなければならない」と述べている。こうした方針が、専門の教育訓練部門の設置や、販売店で働く中堅従業員の教育を目的とした職業訓練学校の設立につながった。
 第三に、無消費をターゲットとした企業戦略は、地域の規制や制度の枠組みを、その地の実情に沿った、適切なものに変えていった。ジェフリー・アレクサンダーが著書“Japan's Motorcycle Wars”(日本のオートバイ戦争)のなかで述べている。「日本の道路を走行する車両の数が増加するにつれ、交通法や車両登録、運転免許制度、走行路の取り締まり等、一貫した政策の必要性が急速に高まった」。つまり、車両というイノベーションが普及したことで、日本特有の状況に適した政策が促されたことになる。このように、イノベーションは往々にして規制に先行する。存在していないものをあらかじめ取り締まることはできないからだ。
 第四に、とくに自動車産業の場合、無消費をターゲットとした戦略は日本経済に新たな産業を生み出した。車の販売やサービスに関連する仕事をはじめ、物流および輸送業界、安くなった交通費を背景に国内旅行業界も拡大した。学校や病院へのアクセスがよくなり、郊外の開発も進んだ。
片づいていないジョブから生まれたカローラ
 もし、トヨタが戦後、日本の無消費をターゲットにするのではなく、アメリカの三大自動車メーカー(フオード、GM、クライスラー)と競争する道を選んでいたらどうなっていただろう。それでもトヨタは成功し、日本は繁栄していただろうか? じつはトヨタはそのころ、ほんの短期間ではあったがアメリカ市場に打って出た時期がある。
 1958年、トヨタは日本国内で成功したあとに、主力車であるトョペット・クラウンを携えてアメリカ市場に乗り込んだ。クラウンは日本で非常によく売れた車種であったため、幹部陣はアメリカでも売れると考えていた。しかし結果は大失敗だった。ある観測筋はこうコメントしている。「クラウンは日本の荒れた道路に適合するよう設計された車であり、アメリカのなめらかで流れの速い道路には合わなかった。時速が60マイル(約96キロ)に達すると激しく振動し、ドライバーはバックミラーを見ることができないほどだった」。敗北を認め、トヨタの経営陣は1961年には撤退を決断した。しかし永遠に去ったわけではなかった。
 アメリカ市場について研究を重ね、現地の消費者の「片づいていないジョブ」を理解したあとで、トヨタはカローラを生み出した。のちに販売台数が世界一となる車だ。トヨタはビッグ3と競争するのではなく、異なる戦略を取った。トヨタの〝販売の神様″と称された神谷正太郎は、小型車は家庭の2台目、3台目の車として重宝され、ビッグ3とまともにぶつかることはない、と当時の戦略を振り返っている。
 トヨタの成功は、他の日本企業にも影響を与えた。日本最大の自動車メーカーであり、現在も世界のトップクラスを維持しているトヨタだけでなく、日産、ホンダ、三菱、スズキ、マツダ等、日本経済の形成に大きく貢献した自動車メーカーがほかにも数多く存在する。

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マスメディアからソーシャルメディアヘの「進化」

『ソーシャルメディアの生態系』より プラットフォームの生存競争
グーテンベルクが生み出した「マスメディア」
 そうした中にあらわれたのが、ヨハネス・グーテンベルクだ。彼が自身の発明品を使って最初に印刷した本は、聖書だった。これは非常に賢い選択だった。読者となる人々の大部分のパターン認識能力と、聖書というテーマはぴったり合致していたからだ。だが印刷技術が生まれたおかげで人々は、それまでローマ教会から押しつけられてきたのとは大きく異なる強烈な思想にも近づけるようになった。口頭によるコミュニケーションには当事者が距離的にも時間的にも接近していることが不可欠だったが、印刷技術はより広く速い情報の拡散を可能にし、口頭でのコミュニケーションにつきものの時間と距離の制約を徐々に崩していった。当時の社会における他の大きな発展的変化とともに--その一つが、最初は私立の、さらには公立の教育が導入されたことによる識字率の向上だ--印刷技術は、それまで教会がっくりあげてきた階級構造を壊す働きをした。印刷技術は中産階級に道を開き、教育を受けた新しい階層である彼らは、社会をいかに組織するか、そして世界をいかに理解するかについての、それまでになかった新しい考えへと通じることができるようになった。
 そして、そうした考えを求める人々に情報を提供するために、また別の強烈なアイデアが登場した。それはグーテンベルクによって解き放たれた強大で新しい出版の力を利用した、私たちが「マスメディア」と呼ぶ概念だった。皮肉にも、当時あらわれた最初の文学は消費や性愛や喜劇などの世俗的な喜びを扱ったものだったIそしてそのパターンは、インターネットの勃興期にも繰り返されることになる。
 社会のコミュニケーション構造の進化において訪れたこの新しい時代は、教会の唯一の教義から人々を解放し、情報共有の世俗的モデルをつくる手助けをした。文字の読める人々が増え、権威とは別に配信される情報が求められるにともない、新しい種類の書き手や編集者が登場するようになった。こうして誕生したのがジャーナリストだ。ヴォルテール、モンテスキュー、ロック、ジョン・スチュアート・ミルなどの進歩的な哲学者たちに触発された彼らは、権力者の世界観に沿っているかどうかに頓着せず、政治や文化についての新鮮な見解を自由に発表した。
 そしてメディアの組織は19世紀中ごろには、広告枠を製造者に売れば自分たちの事業の資金を得られることに気づいた。成長しつつある中産階級の消費者市場に手を伸ばしていた製造者は、そのために広告枠を必要としていた。こうして報道組織の規模や影響力は増大し、常駐の執筆者たちが非常に広範囲のテーマをカバーし、「スクープ」を書くようになった。イギリスでは、産業革命以降、出版物の数は急増した。アメリカでは19世紀に各地で新聞が誕生した。それらの新聞のアプローチは政治哲学的にも倫理的にも多様だったが、全般的にこのメディアという産業はジェファーソンの言う「自由な人間、自由な財産、自由か思想」の原則を体現していた。
 20世紀になると、情報を獲得したり配布したりする新しいシステムが生まれ、メディア産業は進化の新局面に突入した。写真や無線、映画やテレビ放送、そしてのちにはケーブルテレビなどの技術が、大衆により広く、より効率的にメッセージを送ったり思想を広めたりする新しいツールを提供した。20世紀を通じて西洋の文化を形成してきたのはこうした技術--つまり新聞、雑誌、書籍、ラジオやテレビなど--にほかならない。それらは20世紀のあいだ、人々の生活の中心に座を占めていた。アメリカ人がラジオで大統領の演説に耳を傾けたり、CBSテレビでウォルター・クロンカイトが「今日はこんなところで」という決まり文句を口にするのを見たりするとき、そこには目に見えないきずながたしかに生まれ、ともに番組に耳を傾ける人々は西海岸から東海岸まで一つに結ばれていた。共同体をつくりあげるうえで、放送メディアは過去のどんな技術もかなわない力をもった。
 そして、教会にも当局にも指図を受けることのないメディア業界は、大衆の思考形成に大きな力をふるうようになった。それは、露骨に行われることもあれば、ひそかに行われることもあった。たとえば、テレビ音声の調節のおかげで、間大西洋アクセントと呼ばれる話し方(訳注:アメリカ英語とイギリス英語の発音を混ぜ合わせて「標準的」にしたアクセント)が非公式にではあるが権威の座を得たことも、その一つだ。私のようなミシシッピ風のゆっくりした話し方が権威から遠ざかったのは、あるいはそのせいであるのかもしれない--。
マスメディアからソーシャルメディアヘの「進化」
 だが、影響力を拡大したとは言ってもマスメディアは依然、一つのクラブのような存在だった。メディア業界のオーナーの多くは配下の記者の仕事に干渉するのを控えたし、バランスの取れた報道原則を少なくともリップサービスとして口にしたりはしたが、それでも、こうした組織が行使する中央集権的な力を手放そうとはけっしてしなかった。編集委員会や番組プロデューサーは、いわばニュースの門番だった。大衆が何について知り、何について知るべきでないかを決めるのは、こうした人々だった。彼らはいわゆる「オヴァートンの窓」を定義した。「オヴァートンの窓」とはジョゼフ・P・オヴァートンの提唱した、政治家が自分たちにとって政治的に容認可能とする思想はごく限られているという考えだ。こうした組織が中央集権的に「メッセージング」を統制するとはつまり、ニュースのネタ元と書き手のあいだに緊密な関係が生じるということだ。
 ちょっと想像してみよう。ソーシャルメディアがより開放的になった時代でも、ホワイトハウスのジャーナリストたちは、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の身体障がいについて、あるいはJ・F・ケネディの性的奔放さについてはレポートで言及しないと同意していた。それは、「公衆の利益」を損なわないためだとされた。そのおかげでわれわれの暮らし向きが果たして良くなったかどうかはともかく、今やそうしたやりかたは競争原理からいって不可能になっていくだろう。
 ソーシャルメディアによって、メディアという産業は飛躍的な進化を遂げた。私の考えによればそれはこの先、グーテンベルクの印刷技術発明と同じほど大きな影響を社会にもたらすはずだ。だが、ここでもう一度言っておきたいのは、ソーシャルメディアの進化が必ず前向きな利益をもたらすわけではないことだ。しつこいようだが、もうI度言っておこう。進化と進歩はイコールではない。私たちが今ここで言っているのは、ソーシャルメディアとは社会の情報通信構造における、より進化した状態だということだ。そして、進化を逆戻りすることはできない。現在のソーシャル・オーガニズムをもたらしたのは進化のアルゴリズムであり、その中でいま私たちは、水平的に分散された巨大なネットワークで結ばれている。それによって私たちはかつてない高い情報処理能力を与えられ、以前よりもずっと速く何かを考えついたり、思考を複製したり解釈したりできるようになり、またそれらをずっと広範囲に広げることもできるようになった。

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ハイデッガー 存在の本来性とは

『一冊で学び直せる哲学の本』より
フッサールの現象学
 現象学の誕生
  フレーゲは、論理学の刷新によってラッセルらに分析哲学を創始させると同時に、認識の客観性に関する厳密な考え方によって、ドィッのエドムント・フッサール(1859~1938年)に影響を与えました。
  19世紀、特にその後半の哲学では、カントの認識論が批判されてきました。カントの認識論では、外界にある物自体を正確に認識することは、原理上不可能です。すると、ある認識が正しいという客観性は、保証されないことになってしまいます。これでは、学問をしようにも、足もとがいつもグラグラしているような状態です。
  この問題を乗り越え、学問の基盤となる確実性を得るために、フッサールが構築したのが現象学の方法です。
 現象学的還元と本質看取
  現象学は、「主観の外側に、客観的世界が実在するはずだ」という日常の思い込みを、いったん判断停止(エポケー)してカッコに入れます。
  こうして純粋な意識の内面に立ち戻ると、たとえば目の前のコップを見たとき、「コップが、私の主観的な意識の中に現れてきた」というふうに感じることになります。あらゆる対象が、j王観の意識の中に現れてくるもの〃として認識されるのです。このように、主体が向き合うすべての対象を、主観の体験の中に回収する手続きを、現象学的還元といいます。
  さて、この意識に現れた世界(現象)を、ありのままに見つめれば、ものごとの本質を直観的に察知できるとフッサールは述べます(本質看取)。つまり、コップの(客観的な)「物自体」にはふれられないけれど、「コップとはどういうものか」について、何らかの(主観的な)了解は得られるのだ、といっているのです。
  そして、この直観された本質は、他人とも共有できるものであり、学問の確実な基盤にしてよいのだと、フッサールは主張しました。学問的な確実性を、〝客観性〟から〝主観が直観する本質〟へと置き換えたのです。以後、多くの哲学者が「思考の原理」として、現象学の方法を採用することになります。
ハイデッガー 存在の本来性とは
 存在論的差異
  ドイツのマルティン・ハイデッガー(1889~1976年)が、主著『存在と時間』(1927年)で打ち出した思想は、それまでの哲学にはない問いを含んだものでした。彼は、「従来の西洋哲学は〝存在するもの〟を問うことはあるが、〝存在そのもの〟への問いを忘れている(存在忘却)」と批判し、存在についてダイレクトに問い直すことが必要だと説いたのです。
  ハイデッガーのこの問いを可能にしたのは、存在論的差異という独自の発想でした。これは、存在者(存在するもの)と存在(存在しているというまさにそのこと)を区別する考え方です。ハイデッガーの「存在」は、個々の事物ではなく、存在すること自体なのです。
 現存在と世界-内-存在
  この存在論的差異のアイデアと、師であるフッサールの現象学の方法にもとづき、ハイデッガーは人間の存在を分析していきます。
  理性をもった人間は、「存在とは何か」と問う能力をもちます。つまり人間は、ひとつの存在者でありながら、存在について考えることができる、特殊な何者かなのです(だからこそ、存在への問いは、人間の分析を通して考察されます)。ハイデッガーはこうした人間のあり方を、「現に存在することが明らかになる場」といった意味で、現存在と名づけました。
  また彼は、人間を実存として見ます。キルケゴールのところにも出てきましたが、実存とは、当の主体に固有の生を生き、固有の関心からものごとをとらえるものとしての人間のことです。
  さらにハイデッガーは、人間は世界-内-存在であるといいます。これは「人間は世界の中に、ほかの存在者とかかわりをもちながら存在している」という意味ではありません。人間は、まわりの事物を固有の関心でとらえることによって、自分が現に生きる世界を開いている、ということです。つまり、もともと客観的に世界があるのではなく、人間が実存的にものごととかかわるときに、その人の世界が開かれると、ハイデッガーは考えているのです。これは、主観の外側に客観性を想定するカントの認識論を乗り越えようとする、現象学的な発想です。
 本来性と非本来性
  さて、本来は存在について問う能力をもつ人間ですが、普段は自分の存在を忘れ、日常生活に没頭しています(頽落)。このような非本来性の中にある人々を、ハイデッガーはダスーマン(世人)と呼びました。ダス・マンとしての人間は、存在への問いをあいまいにし、軽薄な好奇心から空談(どうでもいいおしゃべり)ばかりをくり広げ、周囲の人にまぎれてそれなりに楽しく暮らしています。
  しかしハイデッガーは説きます。実存としての人間は根本的に孤独であり、また、死への不安に取りつかれた存在者だと。そして、ほかのだれでもない自分の死の可能性と向き合うとき、存在の本来性に目覚めるのだと。自らの最期を見据える死への先駆的覚悟を通じて、日常生活への埋没から抜け出し、かけがえのない人生を真剣に生きられるというのです。
 現代思想の源流
  『存在と時間』の哲学は、キルケゴールの実存をふまえ、現象学的方法によってデカルトからカントに至る認識論の超克をめざし、ニーチエ的な〝あるべき人間の姿〟を模索する、というふうに、近代西洋哲学の問題意識をすべて引き受けた上で存在の意味を問い直す、野心的なものでした。よるべない孤独の中に生きる近代人の不安が、見事にすくい取られてもいます。
  ハイデッガーの思想は、現代思想の出発点ともされます。

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新しい魔方陣

新しい魔方陣ができた。8個を表現する。
 ○○○
 ○ ○
 ○○○
1章から10章までの表現
 ①⑦⑩
 ③⑨
 ⑤⑧
 ②④⑥

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豊田市図書館の30冊

312.1『令和の日本革命 2030年の日本はこうなる』
159『人生の100年時代の稼ぎ方』
335.15『「未来市場」のつくり方』サステナビリティで変わる企業の常識
675『ブランド・コミュニティ』同一化が結びつきを強化する
778.06『NETFLIX コンテンツ帝国の野望』GAFAを超える最強IT企業
210.04『日本史100人の履歴書』家康の趣味はプロ級藥作り!
134.96『存在と時間6』
319『地球社会と共生』新しい国際秩序と「地球共生」へのアプローチ
335『創発型責任経営--新しいつながりの経営モデル』
366.89『日本のグローバル化は“日本語”からはじめなさい』
709.35『遺産の概念』
302.53『大分断--格差と停滞を生んだ「現状満足階級」の実像』
332.06『欲望の資本主義3 偽りの個人主義を超えて』
104『図説 一冊で学び直せる哲学の本』大人として、これだけは知っておきたい哲学教養
336.49『Think CIVILITY 「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である』
019.12『神・読書術』10倍速で読んで、要点だけ記憶する
210.77『平成史全記録 chronicle 1989-2019』
215.5『シリーズ藩物語 三河吉田藩』
761.9『指揮者は何を考えているのか』解釈、テクニック、舞台裏の闘い
023.1『ベストセラー全史【近代篇】』
007.3『ソーシャルメディアの生態系』
672.1『47都道府県・商店街百科』
310『14歳からの政治入門』
378.28『手話言語白書 多様な言語の共生社会をめざして』
290.93『モロッコ2019~20』
372.1『教育格差--階層・地域・学歴』
516.1『ふしぎな鉄道路線 「戦争」と「地形」で解きほぐす』
002『何のための「教養」か』
535.4『タニタの働き方革命』
404『日本人にとって自然とは何か』
 
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