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究極のコンピューター

『アレクサ VS シリ』より 究極のコンピューター
1990年代のインターネットは、閉鎖された世界だった。多くのューザーが、ウェブを管理するAOLのようなポータルサイトに頼っていた。ポータルサイトは情報を1ヵ所に集め、例えばスポーツや金融情報など便利なサイトの一覧を掲載していた。ューザーは囲い込まれているような状況だったので、こうした環境は「ウォールドガーデン(塀で囲まれた庭)」と呼ばれた。やがてグーグルがその塀をハンマーで叩き壊して、検索エンジンをつくり、人々がウェブページの宇宙を自由に飛び回れるようにした。
しかしここ数年の間に、奇妙なことが起きつつある。グーグルとアマゾンが再び塀を建てようとしているのだ。グーグルがインスタントアンサーを返してくれるので、ューザーはあちこち飛び回って検索する必要がなくなった。おまけにグーグルとアマゾンは、立派な音声アシスタントを持っている。デジタルマーケティング会社HUGEのクリエイティブディレクター、ソフィー・クレペールが言うように「アレクサは音声のAOL」なのだ。
グーグルアシスタントとアレクサのアプリの多くは、グーグルかアマソンがつくったものだ。それ以外のアプリを利用するには、グーグルアシスタントかアレクサを呼び出さなければならない。例えば、まず「起動フレーズ」でアレクサを呼び出し、それから、「アレクサ、ワシントン・ポストに今日の見出しを尋ねて」とか、「アレクサ、ジョパディ(クィズ番組)を見せて」などと言う。アシスタントの場合も同様に、「イェルプを開いて」とか「ESPNのニュースは何?」とアシスタントに言う。
このように使いたいアプリが決まっていて、質問やリクエストをする場合は特に問題はない。しかし、あなたがアプリを特定しないまま質問やリクエストをした時には、アレクサかアシスタントがその作業を代行する。つまり、音声でのやり取りの行き先をアマソンかグーグルが決めるのである。
この状況は、かつてのウォールドガーデンによく似ている。企業は、アマゾンやグーグルによる支配を求めているわけではないが、利益を得られるのなら、文句はないはずだ。アマゾンあるいはグーグルといった単一の事業体がまとめて面倒を見ようとする時、音声は最適の媒体になる。シリの最初の開発者は、確かにそう考えている。支配的な音声ヘルパーがなければ、様々な音声アプリが独自に開発され、独自の名前、得意分野、固有のコマンドを持つことになるだろう。「膨大な数にのぼる名前やコマンドを、人は覚えられないはずだ。したがって、このモデルは発展しない」とチェイヤーは言う。
チェイヤーとキットラウスがアップル退社後に立ち上げた会社「ヴィヴ」は、このモデルに代わる目標を掲げた。それは、唯一の、全能のアシスタントをつくることだ。門番になることを目指しながらも、そう見られたくないグーグルやアマゾンと違って、グィヴは、究極のコンピューターになりたいという野望を隠さない。もちろん、ヴィグのテクノロジーは、チェイヤーのこれまでの流儀に従って、第三者アプリと連携する。だがそれは表向きであって、実際には、ューザーはたった一つのアシスタントとやり取りしなければならない。ヴィヴの新世代AIは、2018年後半に全世界の何百万というサムスンの機器で公開される予定だ。
「これは競争だ」とキットラウスは言う。
「ユーザーの唯一のインターフェースになることを目指す競争だ」
ヴィヴは、この分野の先駆者がつくった強力な技術を持っている。しかし参入が遅かったので、支配的なインターフェースになるための競争ではダークホースと見なされている。この競争が始まったのはわずか数年前だが、いまや優勝候補が明らかになりつつある。
その会社を一つずつ見ていこう。まずはアップルから。同社のシリは、世界で最も広く使われているデジタル・アシスタントで、1ヵ月当たり100億ものリクエストを処理している。話せる言語は20を超す。
ここまではよいニュースだ。悪いニュースは、アップルが開発者の理想に反して、シリを低レベルのアシスタントにしてしまったことだ。多くの技術評論においてシリは、サンドバッグのように叩かれた。例えば、シリは「へまばかりしてイラつく」(ワシントン・ポスト)、「アップル、最大の好機を逃す」(ヒューストン・クロニクル)、「あきれるほど低レベル」(ニューヨーク・タイムズ)など。技術アナリストのジェレミア・オーヤンはUSAトゥデイにこう語った。
「アップルは、シリのことをすっかりあきらめてしまったらしい」
こうした批判は大げさかもしれないが、音声AIの先鞭をつけたアップルが、その後、後手に回ったことは、批判されても仕方がない。同社は2018年2月になってようやくスマートスピーカーの「ホームポッド」を発表した。グーグルーホームが市場に出てから約1年半、アマゾン・エコーが出てから3年半たっていた。評論家はその音質のよさを称賛したが、それを聴くには初期費用349ドルが必要だと但し書きをつけた(エコーにかかる費用は99ドルだ)。さらに彼らの多くは、ホームポッド上でのシリの作動性が悪い、と批判した。2018年6月までに、アメリカの家庭用スマートスピーカー市場でホームポッドが確保したシェアは、わずか4パーセントだった。
アップルの音声へのアプローチは、「アップルは最初にして最高のパソコンメーカーだ」というプライドとつながっているようだ。したがってアップルは、シリをそうしたデバイスに組み込まれた魅力あふれる特徴と位置づけている。しかし、シリは販売を目的とした製品ではない。さらに言えば、グーグルやアマゾンが予測するように、やがてコンピューターが生活環境に溶け込むようになれば、音声はアップルの土台を揺るがしかねない。クラウドに生きる賢いAIが、安価な日用品を介してしやべるようになれば、高額なデバイスは不要になるからだ。
となると、どの指標から見ても、グーグルとアマソンが圧倒的な優勝候補となる。2018年、コルタナを搭載・サポートするデバイスはわずか39、アップルのシリは194だ。これに対し、グーグルアシスタントを搭載・サポートするデバイスは5000以上あり、アレクサのそれは2万にのぼる。アプリについて言えば、アシスタント向けのものは1700以上、アレクサ向けのものは全世界に5万も存在する。アメリカのスマートホームスピーカー市場でアマゾンは65パーセントのシェアを獲得した。グーグルのシェアは20パーセントだ。
グーグルとアマゾンがトップ2なのはわかった。次に、彼らの可能性を評価する最善の方法は、それぞれが音声からどうやって収益をあげようとしているかを見ることだ。2社の幹部に尋ねても、おそらく彼らは当惑気味に、この技術はまだ始まったばかりだ、と決まり文句を言うだけだろう。いまはまだューザーを満足させる方法を模索中で、それがわかれば利益は後からついてくる、と彼らは言う。当たり障りのない返事だが、嘘ではない。これまで両社はユーザーの争奪戦を繰り広げてきた。それは、多くのューザーを獲得したプラットフォームが最終的にこの賭けに勝つことを知っているからだ。
とはいえ、グーグルとアマゾンの幹部たちはすでに収益をあげる方法を探し始めている。最もシンプルな方法は、ホームやエコーなどのデバイスの売り上げから直接利益を得ることだろう。しかし、アップルと違って、この2社はその選択肢には興味がないようだ。むしろどちらも、市場シェアを上げることを第一として、デバイスの価格を抑えている。ある調査会社は「エコードット」を調べて、材料費をおよそ35ドルと見積もった。製造費や輸送費もかかっているので、実際のコストはもっと高いはずだ。それでもアマゾンはドットを29・95ドルという低価格で販売した。「わが社が利益を出せるのは、ューザーが私たちのデバイスを買うからではなく、私たちのサービスを使ってくれるからだ」と語るのは、アレクサの開発と販売を指揮したグレッグ・ハートだ。
収益をあげる方法として、次に挙げられるのは広告だ。企業が広告料を支払って、音声アシスタントが話す前後に広告を流すこともあり得る。いまのところ、グーグルもアマゾンもそれを認めていない。しかしいずれは両社とも広告を流すようになるだろう。問題はどちらが先に始めるかだ。「それに関して、彼らは一番乗りになりたくない。ライバルに『ほら、うちはまだやっていないのに、あっちはやってるよ』と言われてしまうからね」と対話型AIベンチャーの起業家アダム・マーチックは言う。
しかし、音声広告は、オンラインやモバイル端末での広告に匹敵するほどの収益を生むとは思えない。なぜなら広告スペースが狭いからだ。例えば、従来のグーグル検索で格安航空券を探すと、リンクリストの上に、関係のある広告が四つ並ぶことがある。しかし、音声で一つの答えを聞く前に、四つも広告を聞かされたら、ューザーはそっぽを向いてしまうだろう。
これはグーグルにとって大問題だ。グーグルはこれまで収益の大半を広告収入に頼ってきたが、そのモデルは人々が時間をかけて検索結果をチェックすることを前提としている。モバイル端末への移行に伴って、すでに、人々は検索結果を見るのにあまり時間をかけなくなった。この広告露出の減少は、音声検索の登場によって、さらに加速する。フォレスター・リサーチの市場アナリスト、ジェイムズーマキヴェイは言う。「もしあなたがグーグルだったら、『なんてことだ』と思うだろう。人々が音声検索を始めたら、従来のビジネスモデルは一掃される。音声ベースの広告モデルはほとんどないはずだ」

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ボスニア・ヘルチェゴヴィナの教育

『ボスニア・ヘルチェゴヴィナを知るための60章』より 教育 ★民族による分断を超えられるか★
ボスニア内戦が終結してから四半世紀近く経つが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはいまだに民族の分断が続き、二つの政体(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とスルプスカ〔セルビア人〕共和国)に分かれている。一つの国家としてEUに加盟することを最大の政治課題としているものの、統一の動きは遅々として進んでいない。そのために教育の果たす役割が大きいことは共通認識となっており、さまざまな教育改革が行われている。しかし、大きな権限をもつ教育の決定機関が各地域に分散されていて、統一的な決定ができない状態にある。国全体の教育を取り扱う政府機関はボスニア・ヘルツェゴヴィナ民政省であるが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦の10カントン(県)にはそれぞれ教育・科学省が、スルプスカ共和国には教育・文化省が、ブルチュコ特別区にも教育担当部署が置かれている。教育制度は共通だが、12の当該機関が独自の教育政策を実施しているといえる。
共通の教育制度として挙げられるのは、①6歳就学で15歳卒業の9年間の初等教育義務、②地域の環境にしたがって、ボスニア語、セルビア語、クロアチア語のいずれかの言語による教育、③9月初旬始業、6月終業の学事歴(高等教育機関の終業は7月)である。
初等教育の就学年限は、旧ユーゴスラヴィア時代を経て、1990年代の内戦を経たあとも7歳就学で8年間だったが、ヨーロッパの教育基準に合わせる必要性に応じて、2003/2004年度から9年間に変更された。1~6年生まではクラス担任が全教科を教えるが、7~9年生は教科ごとに専門の教員が担当する。中等学校(ギムナジウム、職業専門学校、宗教学校)の就学年限は4年であり、どのタイプの中等学校でも数学、言語(ボスニァ語かセルビァ語かクロァチァ語)、1~2の外国語が必修科目とされる。
ボスニア・ヘルツェゴヅィナの高等教育(大学と高等専門学校)機関は2015年時点で、国立大学が8校、高等専門学校が2校、私立の高等教育機関が38校設置されている。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦には6大学あり、1946年に設立されたサラエヴォ大学は学生数3万人でボスニア・ヘルツェゴヴィナ最大の学生数を誇っている。このほかボスニア地方には、トゥズラ大学、内戦後に設置されたゼニツァ大学、ビ(チ大学があり、ヘルツェゴヴィナ地方のモスタルには、モスタル大学と内戦期につくられたジェマル・ビイェディチ(社会主義ユーゴスラヴィァ時代のモスタル出身の政治家)大学がある。スルプスカ共和国には、1975年に創設されたバニャ・ルカ大学と内戦期に開校された東サラエヴォ大学がある。学部の卒業年限は教育学、経営学、社会科学の学部などは3年、その他の学部は4年となっていて、卒業論文は必修とされていない。修士課程の年限は学部と連動して2年か1年である。単位数や評価基準に関して、EU加盟諸国の教育基準であるボローニャ・プロセスに合わせる教育改革の努力がなされている。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナにとって、教育面の最大の問題は前述したように国レベルで共通の政策がとれないことである。内戦後、国際社会の暫定統治下に置かれていたボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、民族間の融和がさまざまな面から試みられた。教育面では、二つの政体だけでなく、県ごとに異なっていたカリキュラムや教科書を共通のものとすることが課題であった。2000年頃から、多くの国際機関がボスニア・ヘルツェゴヅィナに入り、この課題に取り組んだ。そのなかでも重要な役割を果たしたのは、ヨーロッパの47か国からなる欧州評議会、ユネスコ、欧州安全保障協力機構(OSCE)であり、これらの機関の要請を受けてドイツのゲオルク・エッカート国際教科書研究所や欧州歴史教員協会(ユーロクリオ)が協力した。
まず、民族融和にとってきわめて重要と思われる歴史教育や歴史教科書の共通化の試みを取り上げてみる。OSCEの要請で20世紀の歴史を扱う初等学校8年生と9年生の歴史教科書の内容を分析した国際教科書研究所の報告書によると、2006年にボスニア・ヘルツェゴヴィナの12の教育関連機関の合意のもとで、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナの初等学校・中等学校の歴史教科書の執筆と評価のガイドライン」が制定された。このガイドラインは共通のコア・カリキュラム作成のため2003年に制定された「初等・中等教育枠組み法」に基づいており、2007/2008年度からガイドラインに沿った新たな歴史教科書が使用された。ガイドラインが求めているのは、ヨーロッパ諸国の歴史教科者作成の経験や傾向を把握し、具体的には、バランスのとれた教科書の本文とそれを補う図版、写真、地図などの配置、批判的な思考を鍛える多様な授業方式の導入、歴史事象の発表と討論に際して多角的で比較の視点から歴史を見る方法を学ばせることなどである。
この報告書は、新たに出版された歴史教科書7冊を分析したうえで、ガイドラインに沿った内容になっているのは2冊だけであり、1冊は比較や多角的な視点に欠けており、その他はガイドラインに沿っているとは言いがたいと結論づけた。とくに、ユーゴスラヅィアの解体とボスニア内戦に関する叙述は微妙で議論の分かれる点である。欧州評議会は2000年に、ボスニア内外の歴史家がボスニア内戦(1992~95年)を教える共通のアプローチ方法を見いだすまで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの教育現場でこの事象を扱うことは避けた方がよいと提言していた。そのため、ボスニア内戦を扱う新教科書の当該の章での叙述については、事前に多くの提案がなされていたが、それらが新教科書に反映されることはなかった。これらの新教科書が出版されてからすでに10年以上が経過したが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの教育事情は現在も改善されているとは言えない。国際的な関心が急速に薄れるなかで、教育環境はむしろ民族色を強めている。
ボスニア・ヘルツェゴヅィナの教育は基本的に3民族ごとに行われる。多数民族が存在しない混住地域では、「同じ屋根の下の二つの学校」と表現されるように、異なる民族が同じ学校に通いながら、異なるカリキュラムと教科書で学ぶ方式をとるか、民族ごとに別々の学校をつくるかのどちらかである。2017年6月、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦の中部に位置しスルプスカ共和国と境界を接しているヤイツェのギムナジウムで民族ごとの教育に反対する生徒と教員の集会が開かれた。このギムナジウムは3民族が学んでおり、最大民族のクロアチア人のカリキュラムで教育が行われていた。この集会は、ボシュニャクのギムナジウムが新たに開校されたことに反対する動きであった。興味深いのはボシュニャクの生徒が、新たなギムナジウムの開校は民族の分断を上塗りするだけだと主張してこれに反対したことである。
「同じ屋根の下の二つの学校」方式は、2004年にボスニア連邦のヘルツェゴヴィナの中心都市モスタルのギムナジウムで始められた。この学校では、ボシュニャクとクロアチア人の生徒がIT教育とフランス語の授業を一緒に受け、生徒会活動をともに行っているが、大部分の授業はそれぞれのカリキュラムに沿って別々に行われているのが現状である。国際協力機構(JICA)は2006年からモスタルのギムナジウムで、民族を意識せずに進められるIT教育を通じて民族融和を進めるプロジェクトを支援した。この試みはボスニア・ヘルツェゴヴィナ全土のギムナジウムにも拡大し、一定の成果をあげたと言える。民族の分断を嫌う若い世代が育っていることは確かだが、民族融和は政治状況と密接に絡んでおり、「同じ屋根の下の一つの学校」の実現にはまだ時間がかかりそうである。

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ゴルバチョフヘのノーベル平和賞授与

『ゴルバチョフ』より 一つのドイツヘ 一九九〇年
西側の指導者たちは、ゴルバチョフに大きな借りがあった。ゴルバチョフはもっと強力な支援を引き出せなかったのだろうか? ソヴィエト軍の東ドイツ撤退費用に関して、サッチャーは「もっと多くを獲得できたはずだ」と語っている。冷戦史家へ転じたイギリスの諜報専門家の見方によれば、ゴルバチョフは「[ドイツのNATO加盟問題」でもっと強硬な立場を貫けば、はるかに多額の資金をNATOから搾り取れたはずなのに、報酬を当て込んであらかじめカードを切ってしまった」。
ゴルバチョフがヨーロッパの戦後復興を支えたマーシャル・プラン並の大規模支援を期待していたとすれば、見通しが甘すぎた。加えて国内の圧力が彼を蝕んでいたのも事実である。ゴルバチョフはアルフーズにコールを招いた際、ドイツをNATOへ「売った」とみられたくない、と告白した。「ゴルバチョフがドイツのNATO加盟に同意したと[我々が発表すれば]何と言われるでしょうか?…… 我々の合意は、金融支援を得るための取引とみなされ、非難の的となってしまう」。ブッシュは投資と貿易について協議するため、商務長官のロバート・モスバカーと財界の幹部から成る代表団をモスクワヘ派遣した。ゴルバチョフの指示で国家計画委員会のユーリー・マスリュコフが対応し、投資が可能な企業と今後の交渉を担う連絡委員のリストを提供する、と約束した。だがマスリュコフはどちらのリストも遂に示さなかった。ゴルバチョフが主導する市場経済への移行に、マスリュコフが否定的であったためであろうか? それとも市場経済が是正すべきソヴィエト特有の官僚主義の弊害が出たのであろうか? マトロックによれば、大使館はリストの提示を幾度も督促したが、いつも「数日後に用意すひ」との答えが返ってくるだけだった。
年末にかけて三つの出来事が、ゴルバチョフの国内基盤と海外での評価が、いかにかけ離れているかを見せつけた。市場経済へ迅速に移行する期待が消えて間もなく、ゴルバチョフ夫妻はスベインを訪問した。群衆の歓迎を受け、王室と新たな親交を結んだ。独裁者のフランシスコ・フランコの死後に民主化を定着させたフアン・カルロス国王の手腕を、ゴルバチョフは高く評価していた。社会主義者の首相フェリペ・ゴンサレスとは、長い時間をかけて話し合った。チェルニャーエフによれば「資本主義と社会主義かたどる運命の本質」や「新しい時代と世界の行方」をめぐり、「刺激的で理論的にも最高水準」の対話が交わされた。ペレストロイカがソヅィエトのみならず、全世界にとっても重要であるとの認識を共有して話がはずんだ。ライーサは訪問について、「多くの理解、多くの友人が得られた」と回想している。
一一月下旬、CSCEはパリで首脳会議を開いた。東西ヨーロッパ諸国の指導者に加え、アメリカ、カナダ、ソヅィエトからも首脳が出席した。会議は新しいヨーロッパのためのパリ憲章」を採択し、「民主主義、平和、統一の新時代」をうたいあげた。ゴルバチョフは憲章を、NATOとワルシャワ条約機構に「変革」をもたらすと評価した。「変革」は決して彼の期待に沿うものとならなかった。それでもパリの主役は、やはりゴルバチョフだった。チェルニャーエフによれば、各国首脳はごく短時間でも「彼と私的な会話を交わそうと望んだ」。会議の席へ向かう時、コールはいつもゴルバチョフに道を譲り、「身を寄せては何かをささやいた」。二人が席を外して話し合うと、「会議場全体が息をひそめた」。二人がヨーロッパヘ向けて、「ヨーロッパのために事を成し遂げたのは我々である。全ては我々しだいなのだ」と、メッセLンを発しているかのような印象を与えた。
一〇月一五日、ゴルバチョフヘのノーベル平和賞授与が発表された。アメリカ国防長官のディック・チェイニーがモスクワを訪問したのは、まさにその翌日だった。チェイニーはその晩、ソヴィエト国防相のヤゾフ元帥が催した歓迎の夕食会に出席した。チェイニーはゴルバチョフの受賞を祝って乾杯の音頭を取った。ヤゾフも国防省の幹部たちも沈黙した。チェイニーは「テーブルの真ん中で、私が何かとんでもない粗相をしたような感じだった」と振り返っている。
ゴルバチョフ自身は「複雑な気持ち」だった。アルペルトーシュバイツァー、ウィリー・プラント、アンドレイ・サハロフ(!)の偉大な系譜に連なるのは「もちろん嬉しかった」。だが多くのソヴィエト国民は、ボリース・パステルナークやアレクサンドル・ソルジェニーツィンヘ授与されたノーベル平和賞を「ソヴィエトに対する挑発」とみなしていたので、今回も同様の干渉であると受け止めた。ゴルバチョフは自分の業績が世界で高く評価された結果に陶然としながらも、国内の冷たい目に悄然とした。彼は国内から殺到した批判の手紙と電報に目を通した。その姿をチェルニャーエフが目撃している。ゴルバチョフが声に出して一通の手紙を読み上げた。「書記長殿! ソヴィエト連邦を荒廃させ、束ヨーロッパを売り渡し、赤軍を破壊し、我々の全資産をアメリカに引き渡し、マスメディアをシオニストに奪われた功績に対して、帝国主義者から賞を授けられた慶事にお祝いを申し上げます」。別の手紙は「ノーベル平和賞受賞者殿へ。この国全体を貧乏にして、世界の帝国主義とシオニズムから賞をもらい、レーニンと一〇月革命、マルクス・レーニン主義を裏切った功績に感謝致します」と呪誼の言葉を連ねていた。
「これらの手紙を集めて机の上へ置いた」のはKGB議長のクリュチコフである。チェルニャーエフはゴルバチョフに、なぜクリュチコフがそのような真似をするのか、と尋ねた。普通なら国民の九〇パーセントが受賞を歓迎しないという調査結果を報告するだけで事足りるはずだった。
「私がそのことを考えなかったと思うのかね」とゴルバチョフは言いながらも、その視線は手紙の山に釘付けとなったままだった。
チェルニャーエフは言葉を継いだ。「ミハイル・セルゲイエヴィチ、こんなゴミの山のために時間と神経を費やすっもりですか? このような無知な連中に対しては、大統領として〝超然として〟いるべきです」
ゴルバチョフは黙って答えなかった。
授賞式は一二月一〇日と決まった。ゴルバチョフは晴れの舞台で写真を撮られたくなかったので、第一外務次官のアナトーリー・コワリョフを代理でオスロヘ派遣した。ノーベル賞の授賞式では異例の出来事だった。何カ月も難色を示した挙句、一九九一年六月五日に記念演説に臨んだ。翌日には演説の権利が消滅する最後の機会だった。ゴルバチョフは演説で、今の針路を変えるつもりはないと述べた。「はるか以前に、最終的で後戻りもできない決断を下しています。何ごとも、何びとも、いかなる圧力も、それが右からであっても左からであっても、ペレストロイカを推進し新思考に依拠する立場を、私に放棄させることはできません。私は自分の考えや信念を変えません。私の選択は最終的なものです」

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危機感の欠如

C中京は変わった意識がない。心配すらもしていない。

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