goo

二極化する若者たち

『地方にこもる若者たち』より

普段、私は大学で教えているので、大学生の「バイト先」の話を聞く機会が多いのだが、現在の学生のバイト先の職場の様子は、1990年代に大学時代を過ごした私のころとはずいぶん変化している。それは二目で言うと、職場を構成している人々の多様性の高まりである。

私の学生時代を思い出すと、バイト先のファストフード店で働いているのは、多くが年齢層も同じくらいで境遇も似ている人たちだった。つまり、学生のバイト先には学生が多かった。

ほかにいるとしても主婦パートだが、彼女らは学生たちとは入る時間帯が異なる。その結果、主婦は昼間のシフト、夕方以降のシフトは学生たちで占められるといったことが多かった。学生同士なので、大学のサークルの延長線上のような感じで、割と楽しくバイトをしていた。

しかし、今の大学生たちの話を聞いていると、だいぶ様子が違う。まず、自分たちより年齢層がちょっと上の人が多い。これは、(元祖)就職氷河期世代である70年代生まれのいわゆる「ローストジェネレーション」のフリーターたちが非正規労働市場に滞留しているためである。また、リタイア後、またはリストラされた中高年もいる。さらに最近は外国人も増えた。それに対し少子化の影響で学生は少ない。働いていても「気の合う人が少ない」とぼやく学生の話をよく聞く。

私のころと比べ、職場が同質的なものでなくなってきている。それが、今の学生たちのバイト先の現状である。つまり、職場の状況を見ると、昔の学生よりも今の学生のほうが、多様性のなかでもまれていると言うことができる。

もうひとつ、若者たちが多様性の高い集団のなかで生きていることを示すものとして、一時期流行した「KY」という言葉に注目したい。これは「空気(K)を読めない(Y)」という意味で、「○○はKYな奴だ」といったふうに使われる。

それを見て、年長の世代が「最近の若いもんは人の目ばかり気にしてオリジナリティが失われている」と批判する--そんな「若者批判」が00年代の中ごろにはよく聞かれた。

そう批判する人は、たとえば会社で元気のない若い部下をもつと、〝空気を読まず、新しいことを提案しなさい。KYな奴になれ〟なんてことを言いながら叱咤激励することもあるかもしれない。しかしそれでは、「KY世代」の若者たちの心をつかむことはできないだろう。そんなオジサンと彼らの問では「空気」の見え方がまるで違うからである。

結論から先に言うと、彼らの周りには分かりやすい「空気」がない。だからこそ、集団でいるときに「空気を読む」ことが重要になってくるのである。

かつて、若者を含む集団が均質な成員で構成されている状態では、「空気」は常に一定なものとしてあった。だから、「空気を読む」なんてことはしなくてもよかった。しかし、集団の多様性、異質性が高まると、「空気」の恒常性が失われる。すると「空気を読む」ことが必要となってくる。

言い方を換えると、彼ら(若者たち)は、放っておけば「KY」になってしまう。これが、放っておけば自然と空気の読み方が身に付いていた上の世代と決定的に異なる点である。上の世代の「KY」とは、はじめから「空気を読んだうえでのKY」であって、それは実は空気を読んでいる。問題は、そもそも空気が読めなくなってきている、という点にある。だから、上の世代が若者に対して「KYであれ!・」と言っても、彼らからしたら、「空気読むだけで精一杯なんだよ」と言いたくなるわけである。

つまりこういうことである。

 ①集団の成員の多様性の高まりにより、「空気を読む」ことは次第に困難になりつつある。

 ②だから、若者たちは「空気を読む」ことに必死になる。

 ③すると「空気を読める」人間が優れているということになる(均質な集団では放っておけば空気は読めたわけだから、その人が優れていることにはならない)。

 ④その裏返しとして「KY(空気を読めない)」が蔑称として便われるようになる。

今の若者は、多様性の高まった、「決まった空気」がない状態を生きている。まずは、このことを理解しなくてはならない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 中国共産党の... アイデンティ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。