未唯への手紙
未唯への手紙
中国共産党の現実と、そのアキレス腱
『内心、「日本は戦争をしたらいい」と思っているあなたへ』より
例えば、医療保障制度一つとっても13億人という人口の中国では、一人一回風邪をひいて1万円使い、それを保険でカバーしようとすれば、その瞬間に13兆円の財源が吹き飛んでいく計算になるのです。いくら国家の歳入が180兆円を超える中国といっても簡単なことではありません。GDPで日本を超えたといっても、その日本より少し多いだけの経済規模のなかで、日本の10倍の人口に対する行政サービスを提供しなければならないのが中国なのです。
こう考えれば、いまさら生半可な所得再分配で大多数の国民が満足する社会が作り上げられると考えることがいかに幻想かがよく分かるはずです。
つまり中国という国は、少々オーバーな言い方をすれば、国民が先進国並みの権利を国に対して求めないことでようやく成り立っているフィクションだということです。
そしてもしこのフィクションを現実にするのであれば、もう一度みなが等しく貧しい社会主義へと向かうことになるのですが、これもまた別の意味でフィクションといわざるを得ないでしょう。
さて、こうした苦しい状況下にありながら共産党の指導部はさらに、日々政権の〝神通力〟を失ってゆくという危機にも直面しなければならなかったのです。というのは毛沢東や小平という、自ら銃を持ち国を打ち立てたカリスマ指導者を失ったことで、政権を握っている正当性が問われるという問題にさらされてしまうことになったからです。
もちろんこの問題の解決として選挙で民意を問う方向に向かうことはできません。私自身はたとえ普通選挙を行ってもやはり共産党政権になると思いますが、彼らは頑なにできないと考えているようです。
ではどうするのかといえば、経済発展を続け、国民生活が昨日よりも良くなったとアピールし続けるしかないのです。
ただ労働者の賃金が上がり、人民元も上昇傾向にあり、なおかつ欧米市場の低迷により輸出が振るわないなかでそれを続けていくためには、どうしても公共事業に頼るしかないのが実情です。そして、公共事業をやればやるほど格差を広げ、かえって国民の不満を高めてしまうという苦しい状況が続いているのです。
こうしたなか現指導部は「苛立つ民」を剌激しないことに汲々としています。汚職官僚の取り締まりに力を入れていることはこの典型ですが、同じように対日関係で「日本になめられている」と見られることも致命的なのです。国民の不満が「反日」の名を借りて爆発することは、2012年の反日デモのなかに毛沢東の肖像画が多数見つかったことでもよく理解できます。
つまり、彼らが街に出て反日を叫び、それがいつしか本当の彼らの不満である格差などの問題へと発展してゆく悪夢を、現指導部の面々は対日外交の向こうに見ているというわけです。
多かれ少なかれ現指導部の面々はみな文化大革命の被害者です。そして、一夜にして政権がひっくり返る現実も、昨日までトップに君臨していたリーダーが大衆によって路上に引き摺り出されて打ち据えられるという現実も被害者の立場から身に染みて知っている人々でもあるのです。
かつての日本と中国が国交を正常化したときには政治がリーダーシップを発揮することで国民の不満を抑えつけました。しかし、いまそうした選択ができる環境はどちらの国にもありません。それどころか、むしろ政治が国民の声に引き摺られて〝ルーズルーズ〟の選択をしかねない状況です。それは中国という顔は、その多くが民意に支配され始めているからです。
指導部の誰もが戦争になったときのリスクや、それによってどれほど大きな代償を支払わなければならないかを知っていたとしても、目の前で政権から引き摺り下ろされるリスクに比べたら目先の問題を優先せざるを得ない状況がそこにはあるということです。
ここで冒頭で触れたように、互いが知らないところで互いが被害者意識を膨らませてゆくとなれば、戦争は不可避です。
中国の「苛立つ民」が世の中を一回ひっくり返してやろうとするその動機に付き合って日本が中国と戦うことを避けられなかったとき、日本はその戦争で何を得るつもりなのでしょうか。
2012年9月、中国全土で荒れ狂った反日デモー。パナソニックの工場も破壊したデモ隊に対して日本のメディアは、「かつての恩も忘れて」と非難しました。それはまだ中国が貧しくインフラも不十分ななか、松下幸之助氏が日中友好のため敢然と工場を出したことを指していわれたものでした。
しかしデモ隊のほとんどは無職でその日暮らしの人々です。パナソニックの歴史どころか、日本の正確な位置さえ知らない人々だったはずです。それが理解できる人々はデモが行われていたときには家でテレビを見ていたはずです。そしてデモが収まったときに日系のスーパーで買い物をしたはずです。その違いを理解せず、猫も杓子も一括りにして中国と向き合えば、当然のこと、中国のなかで最も厄介な人々と向き合わざるを得なくなる。それが日本にとって得なことかどうかをよく考えるべきときを迎えているのではないでしょうか。
例えば、医療保障制度一つとっても13億人という人口の中国では、一人一回風邪をひいて1万円使い、それを保険でカバーしようとすれば、その瞬間に13兆円の財源が吹き飛んでいく計算になるのです。いくら国家の歳入が180兆円を超える中国といっても簡単なことではありません。GDPで日本を超えたといっても、その日本より少し多いだけの経済規模のなかで、日本の10倍の人口に対する行政サービスを提供しなければならないのが中国なのです。
こう考えれば、いまさら生半可な所得再分配で大多数の国民が満足する社会が作り上げられると考えることがいかに幻想かがよく分かるはずです。
つまり中国という国は、少々オーバーな言い方をすれば、国民が先進国並みの権利を国に対して求めないことでようやく成り立っているフィクションだということです。
そしてもしこのフィクションを現実にするのであれば、もう一度みなが等しく貧しい社会主義へと向かうことになるのですが、これもまた別の意味でフィクションといわざるを得ないでしょう。
さて、こうした苦しい状況下にありながら共産党の指導部はさらに、日々政権の〝神通力〟を失ってゆくという危機にも直面しなければならなかったのです。というのは毛沢東や小平という、自ら銃を持ち国を打ち立てたカリスマ指導者を失ったことで、政権を握っている正当性が問われるという問題にさらされてしまうことになったからです。
もちろんこの問題の解決として選挙で民意を問う方向に向かうことはできません。私自身はたとえ普通選挙を行ってもやはり共産党政権になると思いますが、彼らは頑なにできないと考えているようです。
ではどうするのかといえば、経済発展を続け、国民生活が昨日よりも良くなったとアピールし続けるしかないのです。
ただ労働者の賃金が上がり、人民元も上昇傾向にあり、なおかつ欧米市場の低迷により輸出が振るわないなかでそれを続けていくためには、どうしても公共事業に頼るしかないのが実情です。そして、公共事業をやればやるほど格差を広げ、かえって国民の不満を高めてしまうという苦しい状況が続いているのです。
こうしたなか現指導部は「苛立つ民」を剌激しないことに汲々としています。汚職官僚の取り締まりに力を入れていることはこの典型ですが、同じように対日関係で「日本になめられている」と見られることも致命的なのです。国民の不満が「反日」の名を借りて爆発することは、2012年の反日デモのなかに毛沢東の肖像画が多数見つかったことでもよく理解できます。
つまり、彼らが街に出て反日を叫び、それがいつしか本当の彼らの不満である格差などの問題へと発展してゆく悪夢を、現指導部の面々は対日外交の向こうに見ているというわけです。
多かれ少なかれ現指導部の面々はみな文化大革命の被害者です。そして、一夜にして政権がひっくり返る現実も、昨日までトップに君臨していたリーダーが大衆によって路上に引き摺り出されて打ち据えられるという現実も被害者の立場から身に染みて知っている人々でもあるのです。
かつての日本と中国が国交を正常化したときには政治がリーダーシップを発揮することで国民の不満を抑えつけました。しかし、いまそうした選択ができる環境はどちらの国にもありません。それどころか、むしろ政治が国民の声に引き摺られて〝ルーズルーズ〟の選択をしかねない状況です。それは中国という顔は、その多くが民意に支配され始めているからです。
指導部の誰もが戦争になったときのリスクや、それによってどれほど大きな代償を支払わなければならないかを知っていたとしても、目の前で政権から引き摺り下ろされるリスクに比べたら目先の問題を優先せざるを得ない状況がそこにはあるということです。
ここで冒頭で触れたように、互いが知らないところで互いが被害者意識を膨らませてゆくとなれば、戦争は不可避です。
中国の「苛立つ民」が世の中を一回ひっくり返してやろうとするその動機に付き合って日本が中国と戦うことを避けられなかったとき、日本はその戦争で何を得るつもりなのでしょうか。
2012年9月、中国全土で荒れ狂った反日デモー。パナソニックの工場も破壊したデモ隊に対して日本のメディアは、「かつての恩も忘れて」と非難しました。それはまだ中国が貧しくインフラも不十分ななか、松下幸之助氏が日中友好のため敢然と工場を出したことを指していわれたものでした。
しかしデモ隊のほとんどは無職でその日暮らしの人々です。パナソニックの歴史どころか、日本の正確な位置さえ知らない人々だったはずです。それが理解できる人々はデモが行われていたときには家でテレビを見ていたはずです。そしてデモが収まったときに日系のスーパーで買い物をしたはずです。その違いを理解せず、猫も杓子も一括りにして中国と向き合えば、当然のこと、中国のなかで最も厄介な人々と向き合わざるを得なくなる。それが日本にとって得なことかどうかをよく考えるべきときを迎えているのではないでしょうか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 超要約(2.... | 二極化する若... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |