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死の囁きと生命の震え--「マリーエンバートの悲歌」--

 『詩に映るゲーテの生涯』より 死の囁きと生命の震え--「マリーエンバートの悲歌」--
 まさに自分の必要としているものが、まさにその必要な時点で目の前に現れてくるのも、ゲーテの人生の秘密のひとつである。そしてゲーテはそれを決して逃さない。それともわれわれ自身もまた、いつも必要なものを目の前にしていながら、ただそれをそれと気付かず、無駄に見過ごしているだけのことなのであろうか。ともあれ一八二三年の晩春、旅の途上にあったエッカーマンと名乗るひとりの青年が「文学への寄与--特にゲーテを中心に」という論文を手に現れたとき、ゲーテは自分の親しい出版社であるコック書店に仲介の労をとり、そして言う。
  「あまり先をお急ぎになるのはよくない。もう少しここにいて、互いによく知り合うほうがよいのではないかね」(エッカーマン『ゲーテとの対話』一八二三年六月十一日)
 青年に尊敬する老巨匠の魅惑的な誘いを拒むことはできない。彼は計画を変更し、そのままヴァイマルに留まり、そして老ゲーテは自分の日々の言葉を後世のために記録する役割を彼に託する。エッカーマン『ゲーテとの対話』もまた、決して偶然の産物ではなく、ゲーテの強烈な自己記念碑化の意志の所産だった。
 もっとも、すべての青年が老ゲーテの誘惑に搦め取られたわけではない。才気に溢れ、既に自前の詩集一冊を持つ、ベルリンからきたユダヤ人の一青年は、おそらくは自分の老詩人に対する賛嘆の念を悟られるのを潔しとしなかったのだろう。エッカーマンがゲーテの引力圏に捉えられた翌年、一八二四年の秋、青年ははるばるヴァイマルにゲーテを訪ねながら、道中の様子を尋ねる老詩人に「イェーナからヴァイマルヘの街道に実っていたすももの味は抜群でした」と答え、そして「これから何を書くお積もりかね」とのご下問には、「ファウストでも扱ってみようかと思っています」と言ってみせる。
 「ふーむ」老ゲーテも低く唸って、そっぽを向く他なかった。
 やがて当代一の人気詩人として世に知られることになったその青年ハインリヒ・ハイネ、『西東詩集』の魅惑に美しい讃辞を贈ったあのハイネは、老詩人との出会いを回顧しつつ、「彼は美しいアポロのようだった。但し、それは生命を持たぬ、冷たい石造りのアポロだった」と述べる。
 ハイネの言う通りだった。この時期のゲーテは自らをアポロとして、それも時間の力によって決して浸食されることのない、不朽のアポロ像として刻み上げようとしていた。それが見る目のある若者の目に生命なき石像と映ったのもまた、人生とそこで得た認識を既に完成したものと見なそうとしていた以上、つまり変化を拒否していた以上、当然の結果だった。
 だが人生は変転する。人間が生き、生かまだ進行しつつある以上、たとえ老人となっても、そして自分を石像として刻み上げようとしても、なお人生は変転せずにはいない。生とは変転であり、そのことを誰よりもよく知っていたのもまた、ゲーテだった。いや、それをよく知っていたからこそ、彼は自分の人生をもはや何にも侵されえない記念碑として刻み上げることにあれほど執着したのではなかったか。だが、エッカーマンが訪ねてきて留まった一八二三年--それは、既に完成したものとゲーテが見なしたがっていた彼の生に一瞬の鋭い亀裂が走り、生命なき石像と化したかに見えていた存在の深部から命の炎が燃え立った年でもあった。
 シラーが死んだ一八〇五年に自分も生命の危機が案じられた大病を辛うじて切り抜けたゲーテは、それ以来、ほぼ二十年に近い年月を概して健康に過ごしてきた。もちろん年齢にふさわしい老人性の疾患と無縁でいられた訳ではない。痛風の痛みと結石からくる腎臓の疝痛がほとんど定期的に彼を苦しめ、動脈硬化の兆候も現れてきた。また青年期以来の、心理的動揺に過敏な体質は変わらず、一八一六年、予見されていた妻の死が近づくにつれ原因不明の高熱に襲われ、死別の日も終日ベッドから出ることができない。周囲の人々は、身体的不調からくる老人の我が倭と不機嫌にもしばしば悩まされている。しかし、それは妻の死をも含めて、言うなれば年齢相応の変化ないしは事件であり、その時期さえやり過ごせば、また元気な生活を楽しむことができた。
 だが一八二三年は、そうした老人の小春日和の終わりを告げる。この年の二月半ば、ゲーテは激しい忠寒と呼吸困難、不安感、そして強烈な心臓の痛みに襲われる。現代の専門家によれば、疑いもなく心筋梗塞の症状である。両足には浮腫が現れ、寝ることもできぬ苦痛と生命の危険は二週間にわたって続く。発病は二月十一日。十七日頃から急速に悪化し、二十四日、軽率なジャーナリストはまたもゲーテの死についての通信文を発信した。そこには、やがてゲーテの死後、十九世紀の後半に、西欧圏内後進国ドイツの市民イデオロギーとナショナリズムが作り上げるだろう退屈なゲーテ像と空疎なゲーテ崇拝の萌芽が既に見てとれる。
  「ドイツは、いや全世界は補うことのできない損失をこうむった。ただ、彼が長く苦しまなかったことは慰めである。一昨日重病の報が伝えられ、昨日午後五時には既に彼の精神はこの地上を去った。彼の精神? 否、死といえどもそれをわれわれから奪うことがあってはならない」
 実際には二月二十三日が最大の危機だった。そして二十五日が転機になった。危機を脱したあと回復は徐々に、しかし順調に進む。浮腫が引き食欲が戻り、通常の眠りが疲れ切った老人を体ませる。三月の末には庭に出ることもできた。だがこの大患を経験したあと、ゲーテはもはや『西東詩集』でわれわれが出会った快活な老人、若やいだ恋を大胆に、ほとんど厚顔に楽しむあの老人ではない。しかしまた自分のために紙の記念碑の建立を目指した、誇り高き老詩人でもない。死の不安が、--彼が生涯、直視することを避けてきた死の不安が、老人の心にしっかりと食い込んでいる。死の囁きが日々耳元に聞こえてくる。ゲーテはいま疑いもなく晩年を迎えたのである。
 しかし人間にとって死とは、心を締めつける力であると同時に、それを解き放つ力でもあるのだろうか。死の予感は自己を記念碑化しようとしていた老人の凝固した心に亀裂を走らせ、その底に潜んでいた柔らかで傷つき易い生命の姿を垣間見させる。
  「長く生きるということは、多くのもののあとに生き残るということです。愛した人々、憎んだ人々、無関心に見過ごした人々が、みな去って行き、いくつもの王国、首都が変わり、自分で植え、育てた森や樹々も消えて、なおわれわれは生き延びているのです。われわれはわれわれ自身を越えて生き続けています。もし身体と精神にまだいくらかの余力が残されているならば、われわれは心からの感謝とともに、それを受け取るのです」
 漸く病の癒えたことを自覚したゲーテは、古い知人で敬虔主義的信仰に老いの日々を送るアウグステ・ツゥー・シュトルベルクに、そう書き送る(一八二三年四月十七日)。互いの思想的距離を慎重に測りつつも素直に記されたその言葉には、生き延びた生命への感動が震えている。
 更に夏、保養地マリーエンバートに居を移したゲーテは、もっとも心を許した友人、ベルリンの作曲家ツェルターに宛て、政治や文学芸術談義への嫌悪を述べたあとに、続けて書く。
  「しかし、何よりも奇蹟的なのは、ここ数日、私に働きかける音楽の恐ろしいばかりの力だ! ミルダーの歌う声、シマノフスカのピアノの豊かな響き、いやこの地の狩猟兵部隊の合唱でさえ、固く握りしめたこぶしのようだった私の心を優しく解きほぐしてくれる。そして私は自分を納得させようと、自分に向かって言ってみるのだよ。お前はこの二年以上の年月、何ひとつ音楽を聞いたことがなかったな。お前のなかの音楽への感受性は久しく閉ざされ、孤独へ追いやられていた。ところが今、その天上的な力が突然お前の上に降りてきて、そのすべての権能を振るって、眠り込んでいた思い出をすべて目覚めさせる……」(八月二十四日。マリーエンバートに近いエガーから)
 音楽への感受性だけではない。自己記念碑化への意志によって閉ざされ、孤独へ追いやられていた生への感受性が、いま死をくぐり抜けて甦ったのだった。久しく眠り込んでいた記憶、生の享受の思い出が目覚める。そしてそれは危険なことだった。同じこの年の夏マリーエンバートで、突然の恋の激情が老ゲーテを押し流した。
 ゲーテがウルリーケ・フォン・レーヴェツォーに出会ったのは、この年が初めてではない。ゲーテが夏の滞在地を、長年慣れ親しんだカールスバートから当時新しく開発されつつあった保養地マリーエンバートヘ移したのは二年前からのことだったが、そこでの宿はウルリーケの母親で、古い知人のアマーリエ・フォン・レーヴェツォーの父親の別荘だった。いや、事柄をより正確に言えぼ、それは最初の夫と別れ、次の夫とは死別したアマーリエが、愛人のオーストリア貴族に父親の名義で建ててもらった避暑客向けの滞在用高級旅館である。そこでゲーテはアマーリエの最初の結婚からの娘で、当時十七歳のウルリーケに出会った。
 ウルリーケが初めての夏からゲーテのお気に入りであったことは確かである。だがウルリーケは三人姉妹の長女で、その二人の妹もそれぞれにお気に入りだったし、またそれ以外にも、例えばヴァイマルの女官カロリーネ・フォン・エグロフシュタインを始め、老ゲーテがこの時期、自分の身辺に引き寄せていた少女たち若い女たちは相変わらず数多く、ウルリーケもまた、そのなかのひとり以上の存在ではなかった。
 だがそのウルリーケが、一八二三年の夏、老詩人の突然の恋の熱狂的な対象になった。ウルリーケは前の年と同じように、優しいが、人生についてまだ何も判っていない少女だったが、死をくぐり抜けた老人のなかで恋の陶酔の記憶が甦り、生あるうちにその最後の対象を探し求めていたのである。七十四歳の老人は十九歳のウルリーケに熱中し、結婚の可能性を模索する。それを察したカール・アウグストは旧友のために母親アマーリエと話し合い、老人の死で寡婦となったときにはウルリーケに年金を保障するとさえ申し出る。それが当時として、どのくらい常識の範囲内のことであり、どのくらい常識の外のことであったのかを今から正確に測ることは難しいが、ともあれ母親は問題の紛糾を避け、娘たちを連れてマリーエンバートからカールスバートヘ滞在地を移した。八月二十五日ゲーテはその後を追い、なお暫くの恋の仕合わせを享受するが、もはや希望はない。

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