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分裂したコンプレックスを癒すことによって良い形で老いを迎える

 『老いること』より 分裂したコンプレックスを癒すことによって良い形で老いを迎える
 ある若い女性が心理療法を受けるために私のオフィスにやって来た。スザンヌは仕事生活に満足していなかった。何か問題なのかははっきりしていなかったが、彼女は教師そしてカウンセラーとして勤めている学校に行くことが憂うつだった。最初、私は彼女の自己認識と落ち着きにとて恚感心した。この女性の落ち着きはどこから来るのだろうと思った。彼女は容姿端麗で、一緒にいて心地よかった。
 私は二回目のセッションで、彼女の物語から耳障りな音調を聞いた。彼女はこれまでの人生にまったく幸せを感じていなかった。そして、語りの中に切り離されて散らばっているたくさんの感情や将来の計画が見えた。彼女は私が最初に思ったほど、自己認識があったわけではなかった。
 もうすぐ五十歳になるスザンヌは、年齢にプレッシャー・を感じていた。彼女は変化しなければならないと思っていたが、どの方向に向かえばよいかについて手がかりを持っていなかった。私は彼女が五十歳よりずっと若く見えたので、どのような若さが彼女の性格を彩っているのだろうと思った。もしかしたら彼女は個人的な経歴のどこかで行き詰まったのかもしれない。あるいは、彼女の若さは今も内面で活発なのかもしれない。
 前面に浮上した課題はシンプルだった。しかし、私はそれが彼女の幸せの鍵だと感じた。彼女は周囲の人たちに対してノーと言ったり、傷つけたり、批判したり、失望させたりすることがまったくできなかった。彼女は好感の持てる、理解のある人物であろうとしていた。私たちは彼女の愛らしさの背景について話し合った。彼女は、ときどき自分がひどい言葉を投げつけて、周囲の人たちが傷ついてしまうことを語った。周囲の人たちは柔らかい物腰の女性が突然意地悪になることに驚いた。
 私はどのようにそれが起きるかを整理した。物腰の柔らかさは本物ではなく、感情生活の表面に自動的かつ強迫的に貼りついている。一方、その対極に辛辣さが隠れていて、どちらも同じようにコントロールできない。感情におけるこの分裂は、感情コンプレックスを示唆している。スザンヌは自分の人生の喜びも個人的な影響力も自分のものにしていない。結果として、スザンヌはその両面に翻弄されている。
 そして、ものすごく重要というわけではないが、とても興味深いことが起きた。彼女がオフィスを出るとき、私は「あなたはもうすぐトイレの夢を報告することになるかもしれませんね。そうなっても驚きませんよ」と言った。次のセッションに来た彼女は目を丸くしていた。どうして先生はトイレの夢を見ることが分かったのですかと聞いてきたのである。彼女は困惑しながら、排便の夢を語ってくれた。それは表面的な愛らしさとコントロールできない辛辣さで分裂している多くの人たちからよく聞く種類の夢だった。たいてい、夢見手は卜イレがあふれて立ち往生する。そして、夢見手は周囲にあふれた汚水の価値を何かつかまなければならない。スザンヌの場合、夢で排泄物にまみれて、汚れたと感じて、困っていた。彼女はその姿を見られたくなかった。
 この種類の夢は、イニシエーションの夢といえる。夢見手は自分自身の汚い部分そして不快でさえある部分とつながることを求められている--スザンヌの場合、ノーを言えるようになること、そして、もっと強い人物になることを意味するのだろう。彼女があらゆる内なる可能性を自分のものにするプロセスを始めることができるならば、彼女は変化するに違いない。彼女の表面的な愛らしさは確固たる気品そして善意となり、辛辣さはノーと言うことが必要なときにノーと言える能力になるだろう。トイレは彼女の変容にとって完璧な場なのである。
 このイニシエーションは老いの文脈で起きている。彼女は五十歳を迎え、更年期の最初のサインを感じていた。それは人生のある段階を通過し、より十分な人物になるための、完璧な時である。スザンヌの夢は、嫌悪感を掻き立てるものだったかもしれないが、彼女が今、老いに向かい始めているという希望をもたらしてくれた。もし彼女がここで変容しないならば、彼女は歳を重ねるだけだろう。しかし、私は彼女の人生に対する欲望を強く信頼していた。彼女がより賢明で、より魅力的な人物になることは確信できた。
 それから数か月をかけて、言うまでもなく、スザンヌは生活面で注目すべき変化を遂げた。彼女は人と関わるときのスタイルにおいて神秘的な錬金術的変容を見せたのだ。彼女は実りの少ない仕事を辞め、自分の能力を活かすことのできる、自分の気質にあっている別の仕事に就いた。彼女は自分自身のオリジナルな方法で教えたり、執筆したりして、自分自身を外の世界に表現した。彼女がそうした変化を遂げるにつれて、彼女の雰囲気も変化した。彼女は不必要な愛らしさを賢明で現実的な女性の輝きに変化させようとしていたが、確実にその方向で進歩を遂げた。
 魂のある老熟は、長期間にわたって分裂と向き合うことを求めてくる場合がある。不満足という原材料を拾い上げ、深みのある人格そして自己理解という洗練された素材へと変容させる手助けが必要とされる。あなたには自己分析と勇気のある変化の時期が求められるかもしれない。
 スザンヌと私が彼女の夢について話し合っていると、両親のイメージが彼女の心に浮かんできた。彼女は自分の課題のルーツを見抜いた。彼女は自分自身の人生が母の未解決の課題や父の短気と関連していることを理解した。彼女は様々な解決策や希望を整理し、それを実行することが必要と思った。私の考えでは、スザンヌは、自己一致した人物になるという意味で、老いに向かっていた。彼女は自分の人格やライフスタイルと深層にある永遠の魂を調和させようとしていた。
 老いることはチャレンジである。それは自動的な活動ではない。あなたはある段階から次の段階へと通過していく。あなたは何者かになる。チャレンジに直面したあなたは、その障害を避けるのではなく、その障害を通過する人生を選択しなければならない。あなたはプロセスに参入し、積極的に参加する決断を下さなければならない。
 しばしば、そのプロセスは、克服されていない若さと再び出会うことを求めてくる。それは中途半端な認識や隠された思い出を手放す時であり、すべてを明るみにして、一つずつ、許し、受け入れ、安らかに寝かせる峙である。蛇は自らの尾から養分を得ることによって、すなわち頭が尾を消化することによって、時間の輪の円環を完成させる。
 老いることは、生々しい記憶や人格特性をリアルな自己に変容させる勇気のいるプロセスである。あなたはもはや原材料ではない。あなたの分裂は人格のクオリティ、そしてライフスタイルの一側面になる。老いという単語を別の意味で捉えよう。それは歳を重ねるだけでなく、人生経験を振り返りながら、自己一致した人物になり、自分自身の運命を受け入れていくことである。
 現在の瞬間に生きるべきだと言っているのではない。それは別の考え方である。私が提案しているのは、あなたが自分自身そして周囲の人たちに、自分が何者であり、何歳であるかを正確に伝えるべきということだ。年齢を伝えるのである。そうすると、あなたはそこから自分の老いを深めることができる。語源に従えば、魂は呼吸と共に始まる。あなたは今どこにいて、何者だろうか。資格は必要ない。防衛的な「しかし」や「もし」は必要ない。老いることは、より複雑な人物になることだが、常にありのままの自分と関連している。あなたは自分の若さを感じ取り、それを磨くことができる。あなたは過去が違っていたらと願い、別の未来を期待することができる。しかし、自分の年齢をごまかしてはいけない。ありのままの年齢を生きることは、若く見えるように無理に試みるという神経症的なあり方を防ぐ。
 この点における秘訣は、あなたの願望と実際を明確に区別するということである。願望はありのままの自分の否定になる。それはあなたを自分の自己、あなたの魂から遠ざける。多くの人たちは年老いたくないと願うことで、老いのポジティブな利点を無駄にしている。
 願望のための心の空間も残しておこう。もっと若かったらよかったのにと願うことは、人生に対する愛情の表現であり、決して終わらない人生を望むことや、少なくとも終わりに近づきたくないという気持ちである。あなたは、現実の否定としての神経症的な願望と、人生に対する愛情としての美しい願望の区別を知らなければならない。本当に老いたときに、私たちの多くが感じる悲しみの背景にあるのは、人生に対する愛情である。私は、避けられない死を受け入れることはよいことだと思うが、同時に、生きるために最後まで闘うこと、簡単に諦めたりしないこともよいことだと思う。
 そう、私たちは逆説の逆説で終わることになる。あなたは、適度なもの悲しさと共に、自分の年齢を受け入れることによって、同時に、あなたに奮い起こすことができる最大限の喜びと共に、年齢を気にせずに生きることを選択することによって、良い形で老いを迎える。そのためには、あなたが、自分は身体ではないこと、自分の経験の合計ではないこと、自分が考えているように時間に制限されているわけではないことを理解する必要がある。あなたは魂を持っている。それは活力の源であり、そこからあなたの生命は流れている。それはより大きな世界の魂の支流である。あなたの魂は、時間の中の経験のあらゆる瞬間にある。しかし、それはまた永遠でもある。あなたは両方の場所で生きることを学ばなければならない。フィチーノは「魂は、半分は時間の中に、半分は永遠の中にある」と述べている。永遠性とつながりをもって生きることは、科学技術や時刻重視の現代社会においては難問である。しかし、老いに対する諦念と喜びを同時に持つことがベストではないだろうか。

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