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未唯への手紙

未唯への手紙

ムハンマドの神

2013年11月28日 | 2.数学
『神』より

ドリュケール イスラム教は紀元七世紀に、アラビア半島の荒涼とした砂漠地帯に誕生していますね。そういう宗教がいかにして歴史に名を残し、しかも一神教〔ユダヤ教、キリスト教〕の流れを汲むことになったのか、その経緯を教えてください。

ルノワール アラビア砂漠は、孤立した地域であるどころか、むしろ逆だったのです! とりわけメッカは、経済の中心地であると同時に交通の要所で、インド、イエメン、エチオピア、シリア、メソポタミア、パレスチナの間の交易を担う隊商たちが、盛んに行き交っていました。国際都市の原型とも言うべきメッカでは、ありとあらゆるものが影響を及ぼし合っていたのです。この都市についてはすでに二世紀に、ギリシャ人のプトレマイオスが、「マコラバ」という地名で言及しています。「神殿」を意味する古代エチオピア語「ミクラブ(mikrab)」が、その語源とされているように、メッカはもともと、「神殿」〔カアバ神殿を指す〕で名高い町でした。「ザムザムの泉」の近くに建てられたその神殿には、当初からあの「カアバの黒石」が安置されていました。今日でもイスラム教徒たちは、メッカ巡礼の際に、カアバの周りを巡回する儀式〔タワーフ〕を励行していますね。

この都を支配していたクライシュ族は、早くから厳格な中立性の原則を採用していました。まず政治的中立性ですが、周辺の国家間で対立や戦争が起ごった場合でも、メッカはどちらにも与しない中立の立場を保ってきました。そして宗教的中立性も維持していたので、異教徒、マニ教徒、さまざまな宗派のユダヤ教徒とキリスト教徒たちは、そこではまったく自由に、それぞれの礼拝を行なうことができたのです。メッカの中心をなす神殿には、カアバの他に、三百六十体の神々の像が祀られ、その中には都市の主神であるアッラート、マナート、アル・ウッザーの三女神も含まれていました。

大規模な定期市が開かれるたび、メッカは遠方から来た商人たちや、大巡礼に訪れた人々で賑わい、それがこの都に比類ない繁栄をもたらしていました。しかし、ここでもご多分に漏れず、社会は富の公平な分配からは程遠く、財力を手にしていたのは、主に権力を握る氏族たちでした。したがって、メッカの住民のかなり多くが、この経済的繁栄とは無縁の貧しい暮らしを続けていたのです。

ドリュケール マホメットはそういう社会背景、つまり非常に「国際的な」社会環境の中で、生まれ育ったわけですね。このイスラムの預言者は、どういう人だったのですか。

ルノワール モハメットは、メッカの名門クライシュ族に属してはいたものの、彼が生まれたハーシム家は、クライシュ族の中ではさほど恵まれた家系ではありませんでした。父親は五七〇年頃、彼が生まれる前に亡くなり、母親もまだ五、六歳だった時に他界しています。彼の養育を引き受けた父方の伯父アブー=ターリブ〔五四九-六一九〕は、質素に暮らすラクダ隊商の商人でした。モハメットは幼くしてこの仕事を覚え、伯父に同行してダマスカスまで行くようになったのは、九歳か十歳の頃です。

ダマスカスは、当時はキリスト教徒が多数派を占める大都市でしたが、住民の中にはユダヤ教徒も少なからずいました。隊商の商人たちが皆そうするように、少年モハメットも宿泊先で、現地の人たちと親交を結ぶようになります。その中でもキリスト教の修道士で、隠遁生活を送るバヒラとの出会いは大きく、モハメットの伝記によれば、バヒラは少年がもつ預言者の天皇を見抜き、アブー=ターリブに彼を大切に見守るよう忠告したそうです。


成人したモハメットは、裕福な未亡人ハディージャのもとで働き始めます。隊商の雇用主で、ラクダの所有者だったハディージャ〔五五五?-六一九〕は、清廉潔白な人として知られていたモハメットを信頼し、隊長の任務を彼に委ねるようになります。二人が結婚したとき、彼は二十五歳、彼女は四十歳でした。そして二人の間には、何人かの娘が〔四人の娘のほか、幼くして亡くなった息子も二人〕生まれています。

この時代のメッカでは、「ハニーフ」と呼ばれる人たちが、新興勢力として台頭していました。多神教徒ではあっても多神教に疑問を抱き、ユダヤ教ともキリスト教とも距離を置く彼らは、唯一神であるアブラハムの神を探し求めていました--その信仰は、「原始一神教」に近いかもしれません--ハニーフは少人数のグループで、メッカ近郊のヒラー山の洞窟に籠もり、数日から数週間にわたって瞑想するのを習慣としていました。

ドリュケール マホメットもその中の一人だったのですか。

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