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インド思想 仏陀の真の教えは何か

『インド思想との出会い』より 仏陀の真の教えは何か

知性的な仏陀の教え

 人間生活の中心に心を置くことにより、仏陀は人間の知的探求に極めて深い奥行きを持たせることになりました。普通、我々は外部に客観的世界が存在していると信じ、自分の言葉や科学、哲学を通じてそれについて考察を加えます。しかし、仏陀の深い教えによると、それは幻想だというのです。深い意味において、外界は我々がそうであると考えているように存在してはおりません。般若心経の中で、仏陀はシャーリプトラに次のようにいいます。

  「この世で、形態は空である。空自体が形態である。形態は空と異なってしない。空は 形態と異なってはしぬい。およそ形態あるものはそれ自体空であり、空なるものそれ 自体が形態である。」

 心経の中心的命題は、存在と非存在の間には相違がないと言うことです。見える世界は空である。空なるものが、この見える世界である。

 しかし、それでは如何にすればこの事が分るのでしょう凱

 この質問への最も簡単な答は、仏陀によって提示された道を歩むことです。これは他者の言葉に依存することなく、何事も自分自身で直接体験することです。目を閉じて、心を完全に静めることが出来ると、頭には何の動きも無くなり、我々は空の状態になります。又目を開けると、我々は再び目で見える世界の中に戻ります。

 しかし、本当のところ、我々の大部分はシュンニャの世界に自由に没入することができません。目を閉じても、外的世界はイメージの形で我々の頭を一杯にしており、我々の心はそのイメージ世界の処理ににしいのです。我々の周りの世界の根底には大きなシュンニャがあります。その空から各人の心の働きに従って、様々な物や人間や出来事が不断に作り出されるのです。人間が自分の心を絶対的に静かにさせ、言葉もイメージも生じなくなれば、外界もその中における個人的存在も、その人にとって全く溶解してしまいます。すると、その人間はニルヴァーナの状態になるのです。人間の皆脳を終焉させ、救いを発見するために最も大切なことは、宗教教義を信じたり、宗教儀式を行うことではなく、心の働きを理解し心を完全に静めることです。

 しかし、残念なことに、仏教は仏陀の名においで贋緒主義的傾向を相当帯びるようになりました。シッダルタが悟りを開かれた時、サンスクリットで覚者、ブッデイ(純粋英知)のレベルに到達した人間を意味する仏陀として、人々が彼を認めたことを想起して下さい。仏陀の教えには神秘なものがありません。人々が彼を教師として認めたのは、仏陀が精神的真理を直接唐り、宗教の領域から虚偽を取除こうとされたからであります。彼の中に、人々は自分の宗教の体現者を見出したのです。ヒンズー教には十人のアヴァターラ即ち化身という概念がありますが、大事なことは仏陀がラーマやクリシュナとならんで神の化身として考えられていることです。

普遍宗教としての仏陀の教え

 仏陀の真の教えを理解するシナリオをここで描いてみましょう。

 一群の人々が地球から火星に移民すると仮定します。これらの人々は地球から移り住む時に、新天地に住むのに必要な全てのものを携えて来ました。新天地でも地球と同じように快適な生活をすることが出来るようになっているのです。しかし、ふとした手落ちで、宗教に関連した本は持って来ませんでした。又、地球上でどんな宗教があったか、誰も思い出せないでいます。

 そこで問題ですが、火星に移住した人間は果たして独自宗教を発達させることができるでしょうか。それとも仏陀やイエスやモハメットみたいな人が現れて宗教を授けるまで、無宗教で彼等は暮らすことになるのでしょうか。

 この問題に対する答えは宗教の真の始まりを理解することにあります。人間の宗教的精冲は様々な理由から生まれます。

  ①人間の様々な集団の問には軋陸が存在することを人間は見出しました。人は人間社会に平和と調和を打ち立てることを望むのです。

  ②人間は宇宙の巨大さとそれに比べ人間が全く取るに足らない存在であることに圧倒され、宇宙の性質とその創造者を理解しようと望みます。

  ③人間は内的混乱に悩み、心の平安を見出す方法を発見したいと思いま肌最後に

  ④どんなに快楽に取り囲まれていようと、人間にはそうした外的手段では満足できない渇きがあることを発見します。彼は自分の存在の源泉を知り、その究極の運命に到ろうと欲します。

 宗教の始まりに関する、こうした理由は、特別な人間の集団に限りません。それは人間の本性に根ざしているのです。そこで、たとえ火星に暮らせるようになり、地球上の既成宗教を忘れても、いずれ彼等は宗教に近いなにものかを探し始めるでしょう。教条的キリスト教徒は、バイブルを忘れイエスキリストが教えてくれたことを忘れてしまったので、宗教がどんなものか決して知り得ないであろうというかもしれません。教条的回教徒はコーランが無くては、宗教については何も知り得ないであるうと言うでありまでしょう。しかし、仏陀ならば、次のように言うことでありましょう。

  「もし火星に移住する人々が知的で、真剣で注意深い人達なら、彼の悩みは自分では制御しえない心の動きに由来することを発見するであろう。そして、遅かれ早かれ、平和で調和ある生活をする道を見出せることだろう。まず、内なる実相の本院を瞑想して、心を完全に静めるならニルヴァーナに到達することは可能である。私がこの世に現れて真理を説くまで待つ必要はない。真理はすでに内在している。それを発見し、それにしたがって生活するだけで良いのだ。」

 仏陀が常に弟子に語っていたことは、

  アッパディーポバヴァ

  「自ら自分の光明となれ。」これが仏陀の真のメッセージです。

自ら自分の光明となれ

 自分の救いを見つけるのに、別に宗教的梅戎や神を信仰する必要はないのです。神とか魂とか、天国とか地獄だとかいう概念は全て人間の心が産み出したものです。心を超えたものに関する問題は心によって解答し得ないのです。人間にとって緊急問題は決して神の本性を知ることではありません。自分自身の本陛を知ることです。

 真剣に観察するなら自分の心が世界の全てを作り出していることを発見できます。外的な物質的世界も心の働きで作り出されたものです。心の統御されざる働きと、足ることを知らない欲望が人間の苦悩の根本原因です。人間は自分の心の主人にならなければなりません。自分の心を完全に鎮めた時、従って、個人的欲望に突き動かされた活動が全く無くなった時、初めて人間はプラディヤ・パーラミタの状態、超越的意識の状態に到達します。そこに人間の究極の救いであるニルヴァーナがあるのです。

 これは希望とインスピレーションに満ちたメッセージです。それは完全なる自由、心の頚木からの自由、ドグマ、儀礼、権威からの自由であります。

 普通の人間にとっては、この仏陀のメッセージを理解することが、若干難しいであろうことは認めます。普通の人々は日常の様々な問題を抱えた生活の中で、すがるべき具体的なものを望んでいるからです。その様な人達には、ある種の信仰、儀礼、儀式などが必要でしょう。これは極めて当たり前のことであります。宗教の始祖達の言葉を盲目的に信奉して、宗教的な儀式を行えば心を一時的に静めることが出来ます。

 しかし、ここではっきり理解しておかなくてはならないことは、これらの信仰や儀式は決して宗教の究極的な対象物ではないということです。これらは特定の宗教の信奉者にある種の内的な平和を与えますが、様々な宗教的な集団の間に不可避的に軋蝶を産み出します。またそれらの信仰や儀式を通じて心は静まるかもしれませんが、心がより高い理解力のレベルに成長することはないのです。人間は平和を見出すと共に、より高い精神的レベルに向って成長しなければならないのです。

 仏陀の教えに従がう限り、人間の精神的探求と知的探求との間には何の矛盾も生じません。その両面において、人間の心はその中心的地位を占めております。心の働きこそ文字どおり外的並びに内的世界を作り出すものであります。人間の心の本当の性質を知らなくては、我々は科学によって研究されている外的世界の究極的性質も理解することは出来ません。人間の内的な悩み、恐れ、不満、緊張、混乱は心の働きによって作り出されます。心の作用をよくよく理解し、心を鎮めて心の統率者ならない限り、内的世界の永続する平和は有り得ません。人間が将来進化しなくてはならないのはこの方向であります。

 現在人間の生活は、家族のレペルでも社会や国家のレベルでも全世界的規模のレペルでも混乱の極にあります。人間は現在、ドグマや儀礼から自由な、人間を精神的探求に導いて行く普遍的宗教を手探りの状態で求めています。個人と社会のレベルにおける今日の危機は人間が自分を変えより高い意識の次元に進化するための挑戦であり、好機でありま肌仏陀の教えは人間をより高い進化に向かわせるための大きな道標であります。
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