『ケルトを知るための65章』より
カエサルとの対決 ★ガリア戦争の顛末★
紀元前58年、ガイウス・ユリウス・カエサルは属州ガリアの総督となった。カエサルは、ミトリダテス戦争や海賊討伐で武功をあげながら、元老院から冷遇されていたポンペイウス、富豪で政界進出をもくろむクラッススと密約を結び、富と名声への足掛かりとしてこの職を手に入れた。その機会はすぐにやって来た。現在のスイスに居住していたケルト人部族ヘルウェティイ族が、より豊かな土地を求め、西方のガリアヘと移動し始めたのである。当時ローマの属州ガリアは現在のリヨンの南方まで広がっており、ヘルウェティイ族は移動距離を短くするため、ローマの領土を迂回せず、通り抜けることにし、その許可をカエサルに求めた。カエサルはこれを拒否し、武力で阻止するため、まずゲネウァ(現ジュネーブ)で準備を整え、ヘルウェティイ族を打ち破った。
カエサルがヘルウェティイ族を破ると、ガリアの諸部族はカエサルのもとへ祝賀の使者を送り、さらにゲルマン人スエビ族の王アリオウィストゥスを撃退してくれるよう頼んだ。ケルト人たちは、はじめゲルマン人を傭兵としてガリアに招き人れたが、逆にゲルマン人は雇い主を服従させて、次第に勢力を伸ばし、手に負えなくなったからであった。そこで、カエサルはガリアの人々との関係を重視し、またゲルマン人が将来災いの種になりかねないと判断したため、アリオウィストゥスと戦い、ゲルマン人をライン右岸へと追い払った。
翌紀元前57年、カエサルは、ガリア北東部ベルギカ地方の部族が結託し、ローマに対して陰謀を企てているとの情報を得て、機先を制し、ベルギカ地方へ遠征し、ベルギカの諸部族を打ち破り、屈服させた。同時に部下に別働隊を指揮させ大西洋沿岸へ派遣し、ガリア西部を平定させた。カエサル勝利の噂が広まるとガリアだけでなく、ゲルマニアからもカエサルに服従を申し出る使者が訪れ、この年の終わりにカエサルは「全ガリアを平定」したと考えた。
ところが、冬になりカエサルがガリアを留守にしていた間にガリア北西部、大西洋沿岸に住む人々が、ウェネティイ族を中心にローマとの対決姿勢を明らかにし、ローマ軍に襲い掛かった。この報せを聞くと、カエサルは急ぎガリアヘ引き返し、海戦でウェネティイ族を打ち破った。さらに部下をガリア南西部アクイタニアヘ派遣し、ガリアの大西洋沿岸を制圧した。この過程で、カエサルはゲルマン人やブリテン島の諸部族がガリアの人々を支援していることに気付き、紀元前55年、まずライン川を渡ってゲルマン人を攻撃し、それからブリテン島にも遠征した。しかし、ブリテン島への遠征は準備不足もあり、十分な戦果があげられなかったので、紀元前54年に再度ブリテン島へ遠征したが、この遠征中にガリア北東部へ残していた部隊が、アルビオリクス率いるエブロネス族によって全滅した。これに勢いづき、エブロネス、アトゥアトゥキ、ネルウィイ、セノネス、トレウェリといったガリア北東部の諸部族がローマに対し蜂起した。カエサルはこれらの部族を各個撃破していったが、反乱の口火を切ったアルビオリクスはライン川を渡り、ゲルマン人のもとへ逃れたため、カエサル率いるローマ軍は、紀元前53年、再びライン川を越え、ゲルマン人を攻撃し、エブロネス族を壊滅させたが、アルビオリクスはカエサルの手を逃れ、行方をくらました。
この北東部で起こった反ローマの動きは他の地域にも広まっていき、紀元前52年、ケナブム(現オルレアン)でのローマ人虐殺を契機に、カルヌテス族、アルウェルニ族が蜂起し、さらにこの動きはガリアほぼ全土に広まり、ガリア諸部族の総決起へと発展していった。そして、ガリア軍はアルウェルニ族の指導者ウェルキングトリクスに総指揮を委ね、口ーマと戦うことを決意した。カエサルは、このようなガリアの動きを聞くと、冬営地の北イタリアから進軍し、すぐにウェラウノドゥヌム、ケナブム、ノウィオドゥヌムを陥落させ、鎮圧に乗り出した。
ウェルキングトリクスは、ローマ軍に連敗したことで、作戦変更の必要性を感じた。そこでローマ軍と正面から戦うのを避け、補給を断ち、ローマ軍をイタリアヘ追い返す策を提案し、各部族にそれぞれの城塞や町を破壊するよう指示した。しかし、ビトゥリゲス族は、自分たちの町アウァリクム(現ブールジュ)の破壊に抵抗し、アウァリクムは川と沼で囲まれた天然の要害となっており、守るに容易であるから例外として認めるよう懇願した。ウェルキングトリクスは反対したが、根負けし、渋々これを許可した。しかし、ガリア軍の必死の防戦にもかかわらず、ローマ軍の攻囲の前にアウァリクムは陥落した。
アウァリクムの陥落は痛手ではあったが、ウェルキングトリクスの作戦の正しさを皆に納得させ、またウェルキングトリクス自身も士気の鼓舞に努めた結果、彼の敗北にめげない姿勢が共感を呼び、かえってガリア側の結束は強まった。
次の戦いの場は、ウェルキングトリクスの出身部族であるアルウェルニ族の主邑ゲルゴウィアであった。カエサルはゲルゴウィアの補給線を絶つために、ここを包囲し、西に囮部隊を派遣して、陽動をかけ、その隙に反対側からゲルゴウィアに攻撃をかけ、これを奪取する作戦を立てた。しかし、戦いの物音を聞きつけてガリア軍が駆けつけ、またローマ軍は援軍を敵と勘違いしたため、作戦は失敗に終わった。
カエサルはゲルゴウィアから撤退した後、ガリア各地の鎮圧に向かわせていた部隊と合流し、ガリア東部のセクアニ族の方へと進軍した。ウェルキングトリクスは、この動きをローマ軍が撤退準備を始めていると解釈し、幅重隊を襲い追撃を加えようと目論んだ。カエサルは輜重重隊を部隊の内側に入れて守りながら戦い、ガリア軍の撃退に成功した。ウェルキングトリクスは、近くの町アレシアヘ逃げ込み、ここが両者の決戦の地となった。
カエサルはアレシアを包囲し、ウェルキングトリクスは包囲網完成前に援軍を要請していた。ウェルキングトリクスは援軍と呼応してローマ軍を挟撃し、包囲を脱しようとしたが、果たせず、ガリアの援軍は、ローマ軍に背後を取られ、奇襲をうけ、敗走した。ウェルキングトリクスは、予定になかった寵城戦で食糧の蓄えも尽き、敗北の翌日、会議を開き、その結果、ガリア軍は使者をカエサルのもとに送り、武装解除とウェルキングトリクスら指導者の身柄の引き渡しを行った。こうして、ガリアはカエサルに征服され、残されたガリア軍はローマ軍に編入され、カエサルの下、地中海を転戦していくことになるのである。
『ガリア戦記』の記録 ★カエサルが見たケルト人★・
カエサルが著した『ガリア戦記』は、現存するギリシア・ローマの古典文献のなかで、ケルト人に関する最も重要な史料の一つである。『ガリア戦記』は、カエサルが紀元前58年から行ったガリア遠征について書き記したもので、一つの巻に1年分の出来事を記録している。全8巻構成であるが、カエサルが筆を執ったのは7巻までであり、最後の8巻はカエサルの部下であったヒルティウスによるものである。
『ガリア戦記』第6巻ではガリアとゲルマニアの民族誌がまとめられている部分がある。それによると、ケルト人の間ではどこでも党派争いが存在しており、ガリア全体の部族も二つの党派に分かれていた。紀元前1世紀の半ばには(エドゥイ族とセクアニ族がそれぞれの党派の中心であった。
ガリアで重視されていた階級は騎士とドルイドであり、その他の人々はほとんど奴隷と変わらないとされている。カエサルは騎士については戦争に関することを司っていることと、財産が許す限り、庇護民を抱えており、その数がその人の勢力を表していることを述べているにすぎない。それに対し、ドルイドには関心を持っていたようで、役割などを詳しく記している。
カエサルによれば、ドルイドの主な役割は、神々への生贅を司ることと裁判であった。ドルイドは魂の不死を信奉しており、この教えをケルト人の間に広めている。ドルイドは戦闘には加わらず、税金も免除されており、その特権に惹かれて多くのものがドルイドになることを目指して、弟子入りするが、人によっては教えを学ぶのに20年かかることもある。その他に、ドルイドは天体とその運行、世界と大地の大きさ、事物の本質、不死の神々とその権能について、考察し、若者に教える。ドルイドの間にも階級があり、最も勢力のある者が部族を超えて長として君臨していた。長が死ぬと、2番目に勢力の強い者が後継者になるが、候補者が複数いる場合には選挙を行ったり、武力で争うこともある。全ガリアのドルイドが毎年カルヌテス族の領地にある聖域に集まって、集会を行う。争い事の裁判を求める者はこの集会に行き、ドルイドの裁定を待つ。ドルイドの起源はブリテン島であり、本格的にドルイドの教えを極めようとする者はブリテン島へ修業に行く。宗教的な教えは文字に記さないが、他のことの記録にはギリシア文字を用いる。ギリシア文字を用いることに関しては、別の箇所でもカエサルは、ケルト人の人口などがギリシア文字で記された木の板を発見したことを記している。
ケルト人は宗教に熱心であり、特に危険に身をさらすものは人間を生贄として神に捧げる。神々のなかではメルクリウス、アポロ、マルス、ユピテル、ミネルウァを信仰している。メルクリウスは全ての技術の発明者であり、道と旅行者を導き、金儲けや交易に対して、最も大きな力を持っており、アポロは病気を追い払い、ミネルウァは工芸や技芸の基礎を伝え、ユピテルは天の支配権を持っており、マルスは戦争を支配していると信じている。また、ケルト人はディス・パテルの子孫と主張しており、ディス・パテルは冥界の神であり夜を司っているので、全ての時間の経過を、日の数ではなく、夜の数で計算する。誕生日や一月や一年のはじめも、昼が夜に続くと考えている。
夫が妻や子どもの生殺与奪の権を持っており、葬儀は火葬で、死者が生前愛していたものも一緒に火にくべた。動物や、かつては奴隷なども一緒に燃やしたという。
6巻以外でも『ガリア戦記』のいたるところで、ケルト人の習慣や制度についての言及がある。例えば、政治制度については、数多の王についての言及があるところから王政がとられていたのであろう。多くの王たちのなかで、カルヌテス族の王タスゲティウスとセノネス族の王モリタスグスについては、祖先も代々その部族の王位を占有していたことが述べられているが、別の個所ではガリアでは人々を集めることができる有力者が王位につくとも記されており、王位は必ずしも世襲制ではなかったらしい。また、全ての部族が王政をとっていたわけでもなく、ハエドゥイ族に関しては、ガリア語で「ウェルゴブレトゥス」と呼ばれる政務官が毎年一人集会で聖職者によって選ばれ、部族を支配していた。この政務官は、一年任期で、任期中は自国の領土から出てはならず、一つの家族から二人が政務官に任命されることも禁止されていた。このようにケルト人は部族ごとに異なる政治制度をとっていたようである。
また、部族民の集会が重要な意味を持っていた。(エドゥイ族で政務官が選ばれるのは集会においてであり、王が部族民に武装して集会に集まるよう命じるのは、ガリア人の習慣では戦争の開始を意味する。また、この集会に最も遅れてきたものは殺されるという。ウェルキングトリクスもアレシアでローマの包囲網突破に失敗した後、自分の身柄をどうするか、会議の決定に委ねている。
ケルト人の性格については、変化と自由を好み、気まぐれで戦争好きであり、体格は大柄で、小柄なローマ人を馬鹿にしている。旅人や商人が来ると、周りを囲んだり、引きとめたりして、話を聞きたがるほど好奇心旺盛であった。その一方で、カエサルのブリテン島遠征の計画が商人によって漏れていたことも述べられており、商人がスパイを兼ねていた、あるいは情報も取り扱っていたのかもしれない。また、ケルト人の船は樫の木と鉄釘を用いて造られており、帆には獣の皮、錨は鉄製の鎖が使われていた。形状は竜骨が平たく、船首と船尾が高いものであったという。このため、浅瀬や干潮など水深の浅い場所でも航行することができ、暴風でも帆が破れず、頑丈で大波にも耐えられる耐久性があった。ただし速力はローマの船に劣っていた。
これらの記述はどのくらい信用できるものなのだろうか。カエサルはケルトの民族誌を記述するにあたって、主にギリシア人の残した記録を参考にしたと推測されるが、それらを孫引きするのではなく、自身の遠征中の見聞をもとに修正を加えて記述していると考えられている。フランス南部を中心に、ケルト人がギリシア文字を使って書き残した碑文が発見されており、そのなかにはウェルゴブレトゥスという官職名が書かれた碑文もあり、カエサルの記録しているウェルゴブレトゥスという役職が確かに存在していたことが確認できる。このことからはカエサルの記述の正しさが窺われる。
カエサルとの対決 ★ガリア戦争の顛末★
紀元前58年、ガイウス・ユリウス・カエサルは属州ガリアの総督となった。カエサルは、ミトリダテス戦争や海賊討伐で武功をあげながら、元老院から冷遇されていたポンペイウス、富豪で政界進出をもくろむクラッススと密約を結び、富と名声への足掛かりとしてこの職を手に入れた。その機会はすぐにやって来た。現在のスイスに居住していたケルト人部族ヘルウェティイ族が、より豊かな土地を求め、西方のガリアヘと移動し始めたのである。当時ローマの属州ガリアは現在のリヨンの南方まで広がっており、ヘルウェティイ族は移動距離を短くするため、ローマの領土を迂回せず、通り抜けることにし、その許可をカエサルに求めた。カエサルはこれを拒否し、武力で阻止するため、まずゲネウァ(現ジュネーブ)で準備を整え、ヘルウェティイ族を打ち破った。
カエサルがヘルウェティイ族を破ると、ガリアの諸部族はカエサルのもとへ祝賀の使者を送り、さらにゲルマン人スエビ族の王アリオウィストゥスを撃退してくれるよう頼んだ。ケルト人たちは、はじめゲルマン人を傭兵としてガリアに招き人れたが、逆にゲルマン人は雇い主を服従させて、次第に勢力を伸ばし、手に負えなくなったからであった。そこで、カエサルはガリアの人々との関係を重視し、またゲルマン人が将来災いの種になりかねないと判断したため、アリオウィストゥスと戦い、ゲルマン人をライン右岸へと追い払った。
翌紀元前57年、カエサルは、ガリア北東部ベルギカ地方の部族が結託し、ローマに対して陰謀を企てているとの情報を得て、機先を制し、ベルギカ地方へ遠征し、ベルギカの諸部族を打ち破り、屈服させた。同時に部下に別働隊を指揮させ大西洋沿岸へ派遣し、ガリア西部を平定させた。カエサル勝利の噂が広まるとガリアだけでなく、ゲルマニアからもカエサルに服従を申し出る使者が訪れ、この年の終わりにカエサルは「全ガリアを平定」したと考えた。
ところが、冬になりカエサルがガリアを留守にしていた間にガリア北西部、大西洋沿岸に住む人々が、ウェネティイ族を中心にローマとの対決姿勢を明らかにし、ローマ軍に襲い掛かった。この報せを聞くと、カエサルは急ぎガリアヘ引き返し、海戦でウェネティイ族を打ち破った。さらに部下をガリア南西部アクイタニアヘ派遣し、ガリアの大西洋沿岸を制圧した。この過程で、カエサルはゲルマン人やブリテン島の諸部族がガリアの人々を支援していることに気付き、紀元前55年、まずライン川を渡ってゲルマン人を攻撃し、それからブリテン島にも遠征した。しかし、ブリテン島への遠征は準備不足もあり、十分な戦果があげられなかったので、紀元前54年に再度ブリテン島へ遠征したが、この遠征中にガリア北東部へ残していた部隊が、アルビオリクス率いるエブロネス族によって全滅した。これに勢いづき、エブロネス、アトゥアトゥキ、ネルウィイ、セノネス、トレウェリといったガリア北東部の諸部族がローマに対し蜂起した。カエサルはこれらの部族を各個撃破していったが、反乱の口火を切ったアルビオリクスはライン川を渡り、ゲルマン人のもとへ逃れたため、カエサル率いるローマ軍は、紀元前53年、再びライン川を越え、ゲルマン人を攻撃し、エブロネス族を壊滅させたが、アルビオリクスはカエサルの手を逃れ、行方をくらました。
この北東部で起こった反ローマの動きは他の地域にも広まっていき、紀元前52年、ケナブム(現オルレアン)でのローマ人虐殺を契機に、カルヌテス族、アルウェルニ族が蜂起し、さらにこの動きはガリアほぼ全土に広まり、ガリア諸部族の総決起へと発展していった。そして、ガリア軍はアルウェルニ族の指導者ウェルキングトリクスに総指揮を委ね、口ーマと戦うことを決意した。カエサルは、このようなガリアの動きを聞くと、冬営地の北イタリアから進軍し、すぐにウェラウノドゥヌム、ケナブム、ノウィオドゥヌムを陥落させ、鎮圧に乗り出した。
ウェルキングトリクスは、ローマ軍に連敗したことで、作戦変更の必要性を感じた。そこでローマ軍と正面から戦うのを避け、補給を断ち、ローマ軍をイタリアヘ追い返す策を提案し、各部族にそれぞれの城塞や町を破壊するよう指示した。しかし、ビトゥリゲス族は、自分たちの町アウァリクム(現ブールジュ)の破壊に抵抗し、アウァリクムは川と沼で囲まれた天然の要害となっており、守るに容易であるから例外として認めるよう懇願した。ウェルキングトリクスは反対したが、根負けし、渋々これを許可した。しかし、ガリア軍の必死の防戦にもかかわらず、ローマ軍の攻囲の前にアウァリクムは陥落した。
アウァリクムの陥落は痛手ではあったが、ウェルキングトリクスの作戦の正しさを皆に納得させ、またウェルキングトリクス自身も士気の鼓舞に努めた結果、彼の敗北にめげない姿勢が共感を呼び、かえってガリア側の結束は強まった。
次の戦いの場は、ウェルキングトリクスの出身部族であるアルウェルニ族の主邑ゲルゴウィアであった。カエサルはゲルゴウィアの補給線を絶つために、ここを包囲し、西に囮部隊を派遣して、陽動をかけ、その隙に反対側からゲルゴウィアに攻撃をかけ、これを奪取する作戦を立てた。しかし、戦いの物音を聞きつけてガリア軍が駆けつけ、またローマ軍は援軍を敵と勘違いしたため、作戦は失敗に終わった。
カエサルはゲルゴウィアから撤退した後、ガリア各地の鎮圧に向かわせていた部隊と合流し、ガリア東部のセクアニ族の方へと進軍した。ウェルキングトリクスは、この動きをローマ軍が撤退準備を始めていると解釈し、幅重隊を襲い追撃を加えようと目論んだ。カエサルは輜重重隊を部隊の内側に入れて守りながら戦い、ガリア軍の撃退に成功した。ウェルキングトリクスは、近くの町アレシアヘ逃げ込み、ここが両者の決戦の地となった。
カエサルはアレシアを包囲し、ウェルキングトリクスは包囲網完成前に援軍を要請していた。ウェルキングトリクスは援軍と呼応してローマ軍を挟撃し、包囲を脱しようとしたが、果たせず、ガリアの援軍は、ローマ軍に背後を取られ、奇襲をうけ、敗走した。ウェルキングトリクスは、予定になかった寵城戦で食糧の蓄えも尽き、敗北の翌日、会議を開き、その結果、ガリア軍は使者をカエサルのもとに送り、武装解除とウェルキングトリクスら指導者の身柄の引き渡しを行った。こうして、ガリアはカエサルに征服され、残されたガリア軍はローマ軍に編入され、カエサルの下、地中海を転戦していくことになるのである。
『ガリア戦記』の記録 ★カエサルが見たケルト人★・
カエサルが著した『ガリア戦記』は、現存するギリシア・ローマの古典文献のなかで、ケルト人に関する最も重要な史料の一つである。『ガリア戦記』は、カエサルが紀元前58年から行ったガリア遠征について書き記したもので、一つの巻に1年分の出来事を記録している。全8巻構成であるが、カエサルが筆を執ったのは7巻までであり、最後の8巻はカエサルの部下であったヒルティウスによるものである。
『ガリア戦記』第6巻ではガリアとゲルマニアの民族誌がまとめられている部分がある。それによると、ケルト人の間ではどこでも党派争いが存在しており、ガリア全体の部族も二つの党派に分かれていた。紀元前1世紀の半ばには(エドゥイ族とセクアニ族がそれぞれの党派の中心であった。
ガリアで重視されていた階級は騎士とドルイドであり、その他の人々はほとんど奴隷と変わらないとされている。カエサルは騎士については戦争に関することを司っていることと、財産が許す限り、庇護民を抱えており、その数がその人の勢力を表していることを述べているにすぎない。それに対し、ドルイドには関心を持っていたようで、役割などを詳しく記している。
カエサルによれば、ドルイドの主な役割は、神々への生贅を司ることと裁判であった。ドルイドは魂の不死を信奉しており、この教えをケルト人の間に広めている。ドルイドは戦闘には加わらず、税金も免除されており、その特権に惹かれて多くのものがドルイドになることを目指して、弟子入りするが、人によっては教えを学ぶのに20年かかることもある。その他に、ドルイドは天体とその運行、世界と大地の大きさ、事物の本質、不死の神々とその権能について、考察し、若者に教える。ドルイドの間にも階級があり、最も勢力のある者が部族を超えて長として君臨していた。長が死ぬと、2番目に勢力の強い者が後継者になるが、候補者が複数いる場合には選挙を行ったり、武力で争うこともある。全ガリアのドルイドが毎年カルヌテス族の領地にある聖域に集まって、集会を行う。争い事の裁判を求める者はこの集会に行き、ドルイドの裁定を待つ。ドルイドの起源はブリテン島であり、本格的にドルイドの教えを極めようとする者はブリテン島へ修業に行く。宗教的な教えは文字に記さないが、他のことの記録にはギリシア文字を用いる。ギリシア文字を用いることに関しては、別の箇所でもカエサルは、ケルト人の人口などがギリシア文字で記された木の板を発見したことを記している。
ケルト人は宗教に熱心であり、特に危険に身をさらすものは人間を生贄として神に捧げる。神々のなかではメルクリウス、アポロ、マルス、ユピテル、ミネルウァを信仰している。メルクリウスは全ての技術の発明者であり、道と旅行者を導き、金儲けや交易に対して、最も大きな力を持っており、アポロは病気を追い払い、ミネルウァは工芸や技芸の基礎を伝え、ユピテルは天の支配権を持っており、マルスは戦争を支配していると信じている。また、ケルト人はディス・パテルの子孫と主張しており、ディス・パテルは冥界の神であり夜を司っているので、全ての時間の経過を、日の数ではなく、夜の数で計算する。誕生日や一月や一年のはじめも、昼が夜に続くと考えている。
夫が妻や子どもの生殺与奪の権を持っており、葬儀は火葬で、死者が生前愛していたものも一緒に火にくべた。動物や、かつては奴隷なども一緒に燃やしたという。
6巻以外でも『ガリア戦記』のいたるところで、ケルト人の習慣や制度についての言及がある。例えば、政治制度については、数多の王についての言及があるところから王政がとられていたのであろう。多くの王たちのなかで、カルヌテス族の王タスゲティウスとセノネス族の王モリタスグスについては、祖先も代々その部族の王位を占有していたことが述べられているが、別の個所ではガリアでは人々を集めることができる有力者が王位につくとも記されており、王位は必ずしも世襲制ではなかったらしい。また、全ての部族が王政をとっていたわけでもなく、ハエドゥイ族に関しては、ガリア語で「ウェルゴブレトゥス」と呼ばれる政務官が毎年一人集会で聖職者によって選ばれ、部族を支配していた。この政務官は、一年任期で、任期中は自国の領土から出てはならず、一つの家族から二人が政務官に任命されることも禁止されていた。このようにケルト人は部族ごとに異なる政治制度をとっていたようである。
また、部族民の集会が重要な意味を持っていた。(エドゥイ族で政務官が選ばれるのは集会においてであり、王が部族民に武装して集会に集まるよう命じるのは、ガリア人の習慣では戦争の開始を意味する。また、この集会に最も遅れてきたものは殺されるという。ウェルキングトリクスもアレシアでローマの包囲網突破に失敗した後、自分の身柄をどうするか、会議の決定に委ねている。
ケルト人の性格については、変化と自由を好み、気まぐれで戦争好きであり、体格は大柄で、小柄なローマ人を馬鹿にしている。旅人や商人が来ると、周りを囲んだり、引きとめたりして、話を聞きたがるほど好奇心旺盛であった。その一方で、カエサルのブリテン島遠征の計画が商人によって漏れていたことも述べられており、商人がスパイを兼ねていた、あるいは情報も取り扱っていたのかもしれない。また、ケルト人の船は樫の木と鉄釘を用いて造られており、帆には獣の皮、錨は鉄製の鎖が使われていた。形状は竜骨が平たく、船首と船尾が高いものであったという。このため、浅瀬や干潮など水深の浅い場所でも航行することができ、暴風でも帆が破れず、頑丈で大波にも耐えられる耐久性があった。ただし速力はローマの船に劣っていた。
これらの記述はどのくらい信用できるものなのだろうか。カエサルはケルトの民族誌を記述するにあたって、主にギリシア人の残した記録を参考にしたと推測されるが、それらを孫引きするのではなく、自身の遠征中の見聞をもとに修正を加えて記述していると考えられている。フランス南部を中心に、ケルト人がギリシア文字を使って書き残した碑文が発見されており、そのなかにはウェルゴブレトゥスという官職名が書かれた碑文もあり、カエサルの記録しているウェルゴブレトゥスという役職が確かに存在していたことが確認できる。このことからはカエサルの記述の正しさが窺われる。
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