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無から生じた存在

『無の本』より

なぜ、無ではなく何かがあるのか。そのような疑問に答えることは不可能だという意見もあれば、そんな疑問は無意味だとまで言う人や、答えはこうだと言い張る人もいる。科学は、世界についての真相を見抜くかなり効果的な方法であることがわかっている。なぜなら、科学は主に、「どのように」ものごとが起こるのかという疑問を専門的に扱うものだからだ。科学がもしも「なぜ」という疑問を発するとしたら、ある一連のできごとがどのように起こり、何か何を引き起こし、といったことを詳細にわかっている場合に答えられるようなことがらの側面についての疑問であることがほとんどだ。科学理論を根本まで深く掘り下げると、自然界のもっとも基本的な粒子のふるまいを支配する、自然法則と呼ばれるものの基盤が見えてくる。これらの粒子の正体や、それらにできること、結合される方法などは、その帰結を経験の事実に照らし合わせて検証できる公理のようなものだ。ある意味、ものごとがそのようになっていない状況を想像するのは、とても難しいくらいだろう。自然法則の性質が、法則に支配される同一の素粒子の集まりにある性質と密接な関連をもつようになっているからだ。法則のなかには、特定の属性をもつ粒子にしか作用しないものがある。しかし、他の点では、私たちの宇宙とわずかに異なる宇宙を思い描くことは可能だ。これまでのところ、可能な宇宙はひとつしかないと限定するような理論は見つかっていない。これはつまるところ、宇宙の究極理論における真空の景観の性質についての疑問である。景観に谷がひとつしかなければ、ありうる真窄の状態はひとつだけになり、それを定義づける自然の定数のありうる組み介わせもひとつしかない。もしも谷がたくさんあるなら、真空も多数あり、自然の定数は、ひとつの可能性によってただひとつに定められることはない。自然の定数はさまざまな値をとることができ、しかも第八章でみたように、今、この宇宙のどこかで、そうなっているかもしれない。それだからこそ、「なぜ無ではなく何かがあるのか」という存在論的な大きな疑問を少し控えめにした疑問が出現した。物理学者は、意味ありげにこの疑問を発することができる。彼らの見解では、世界のある種の側面は、生きた観測者をもとうとしている宇宙にある、避けがたい、あるいは必要な特徴なのだ。

この大きな疑問に関連する科学の諸問題に、宇宙論者や物理学者が取り組んでいる。そうした研究から、宇宙が膨張していることが明らかになった。その歴史を数十億年遡ると、密度や温度が無限になるような時点に行き着き、さらに遡ることが不可能になる。このことから、宇宙には、過去の有限の時間において始まりがあったのではないかという重要な可能性が考察されるようになった。これは推定にすぎず、真剣に検討するつもりならいっそうくわしく調べる必要があるが、とりあえず、この点について少しだけここで考えてみよう。もしも膨張に実際に始まりがあったとしたら、さらなる疑問が突きつけられることになる。その「始まり」は、わたしたちが今日見ている宇宙の膨張の始まりだけを指すものなのか。それとも、あらゆる意味においての、物理的な宇宙全体の「始まり」なのか。もしも後者のほうであれば、始まりのときには、宇宙のなかに物質と子不ルギーしかなかったのか。あるいは、時間と空間の織物全体もあったのか。さらに、もしも空間と時間が出現するのなら、自然法則や対称性や定数と呼ばれるものはどうなのか。これらも同じように出現するものなのか。最後に、これらのうちの一部もしくは全部が、歴史における特定できる瞬間に必ず出現するのなら、いったい何から、どのような理由で、どんなふうに発生するのか。

人間には、存在の性質と終わりについて、「なぜ」という重要な疑問を問いかける習慣が古くからある。本書の読者のかなりの人たちは、ユダヤ教やキリスト教の伝統や、その書物や教義を物理的な世界についての初期の知識と調和させるために構築された思想に大きな影響を受けてきた社会に暮らしているだろう。宇宙は無から創造されたとする教義は、ほぼ、キリスト教の伝統にしか見られないものだ。世界中の神話思想を調べても、異国風の登場人物の演じるものとか、幻想的で印象に残るからくりなどはあっても、基本的な宇宙論を語ったものは、驚くほどわずかしか見あたらない。

「創造された」宇宙という概念は、通常、混沌の状態や構造のない空虚から作り直されたものとか、再建されたものとして受け止められることが多い。あるいは、世界は他の状態から「出現」するのかもしれない。その状態には、いろいろな候補がある。原初の子宮から新たに生まれることも、英雄が混沌の啼い水のなかに飛び込んで、引き揚げてくることもある。以前から存在していた卵から孵化したり、世界と世界が合体してそこから出現することもある。他にも、超人的な英雄と暗闇と邪悪の力がぶつかり合い、そこから世界が生まれるという話もある。これらの描写はみな、赤ん坊の誕生や、敵との闘い、動物の生殖、魚を釣って食べるといった営みと密接につながっている。無から何かが出現することには、赤ん坊の誕生のように痛みと労力がともなう。ときおり抵抗に遭うこともあるが、最終的には成功する。これらの例がすべて、わかりやすいものであるとは限らない。時代が下るにつれて、神話はますます複雑になっていく。世界についてのさまざまな事実が次々と明るみに出て、新たな疑問が投げかけられる。神話をさらに潤色することでしか、答えを示せない。そのために、描写がいっそう手の込んだものになる。

宇宙はそもそも始まっておらず、つねにそこにあったのだ、とする伝統も見受けられる。そうした伝統では、時間と歴史が循環する構図が認められることが多い。それは、農耕社会で利用される季節の循環や、人間の生と死の循環に負うところが大きい。したがって、究極的な現実は永遠の過去から永遠の未来まで連続する一方、地上の世界では死んでも必ず生まれ変わり、先祖の灰から不死鳥のように再生する。宇宙論的な筋書きのパターンをいくつか挙げた。
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