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朝鮮戦争における、共産軍の企図と戦略

『韓国戦争』より、

毛沢東は、中共軍が朝鮮戦争に参戦してから二月攻勢まで、四次にわたる大規模な攻勢によってソウルを占領し、三七度線(平沢~堤川上二防)まで進出したが、国連軍の殲滅と駆逐には失敗した。むしろ、この間に莫大な人的、物的な被害を被り、一九五一年三月末には三八度線北側に駆逐されて防御陣地を編成するようになった。

中共軍は、約二ヵ月にわたる攻勢作戦で、その大半が瓦解した第一梯隊(九コ軍三〇コ師団)を再編成する一方、新たに第二梯隊(九コ軍二七コ師団)を追加派兵して戦力を整備した。さらに、当初の戦略どおりに国連軍を朝鮮半島から駆逐するために、朝鮮戦争中最大規模となる戦力をもって二次にわたる春季攻勢を展開した。

まず、四月下旬にはソウルの占領を目標として中西部戦線において、続いて五月中旬には中東部戦線において韓国軍主力の殲滅を目標として連続した攻勢を展開した。このとき中共軍は、兵力の優勢を最大の武器として国連軍の強力な火力に立ち向かった。しかし、この作戦によって共産軍が得たものは何もなく、八万五〇〇〇名という莫大な人的損失を被る結果となった。

結局、中共軍の人海戦術が国連軍の火海戦術(火力戦術)に屈したということであった。中共軍は、数的に優勢な兵力だけでは国連軍の近代装備を圧倒することができないことを痛感するとともに、中共軍の兵站支援能力では、攻勢作戦を七~一〇日程度しか持続することができないということも認識した。

春季攻勢で惨敗した志願軍司令官彭徳懐は、すべての前線部隊に撤退命令を下達した。この命令文には、「戦線が拡大し過ぎた。輸送手段が不足し、食料、弾薬の補給が混乱している。将兵は疲弊し、これ以上南に進撃することも不可能である」と述べられている。このような理由によって、五月攻勢を予定よりも早く終了し、戦線を四月攻勢の開始地点まで後退させることを決定した。こうして中共軍は、一ヵ月半ないしニカ月の間、部隊を整備するとともに装備を改善し、近代的な作戦遂行能力を向上させて新たな戦闘に備えるという悲壮な決意をしたのであった。

このような戦況に接した中共軍指導部は、五次の戦役において、たとえ勝利したとしても中共軍と国連軍の装備の差によって莫大な損害を被るという状況は変わらないと分析した。こうして中共軍は、長期作戦を準備して米軍を殲滅し朝鮮問題を解決するという方針を決定し、持久作戦に転換し、米国側の休戦提案を受け入れることにした。六月中旬、中共軍指導部は、持久作戦と平和会談を通して戦争を遂行するという新たな戦争指導指針を採択し、軍事作戦面においては持久戦と積極防御の方針を確定した。

すなわち、有利な地形を利用した堅固な防御陣地を構築するとともに、一方では積極的な装備の改善と訓練の強化を継続することによって作戦能力を向上させ、国連軍との相対的な戦闘力を逆転し、最終的に勝利するという方針を決定した。

かくして朝鮮戦争は、開戦一年で双方のこのような政策と戦略により、戦線は膠着し、膠着した戦線における熱戦と話し合いのテーブルにおける舌戦が交差する新たな様相の戦争に変貌していったのである。
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