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戦間期の外務省 外交と東亜新秩序構想

『ハンドブック 近代日本外交史』より 戦間期の外務省--国際協調主義と現状打破思想の相克

幣原外交

 第一次幣原外交と呼ばれる一九二四年六月から二七年四月までの日本外交は、国際協調主義、対英米協調主義が最も華やいだ時期であった。当該期の外務省は、幣原外相が英米の外交官と個人的な親密関係を築いていたことや、ワシントン会議で成立した九カ国条約を積極的に遵守することで、英米との協調関係をより強固なものへとした。九カ国条約で定められた中国の門戸開放・機会均等は、米国を中心に列国がかねてから主張してきたものであり、幣原外相がその精神を尊重してきたことが協調関係の構築に大きく作用した。

 一九二七年四月に誕生した田中義一内閣では、田中首相が外相を兼任することとなった。田中外交は積極的に中国に干渉するものであったため、よく幣原外交と比較される。しかし田中外相は積極的な大陸権益の保護・拡大を指向しつつも、決して国際協調主義を疎かにはせず、特に英国とは対中政策において歩調を合わせたのである。一九二九年に張作霖爆殺事件の責任をとって辞任した田中首相に変わって誕生した浜口雄幸内閣で、幣原は再び外相に返り咲いた。同年一〇月に世界恐慌が起こり、列国が経済的ナショナリズムに傾倒していく状況下においても、幣原外相は国際協調という外交理念を貫こうとした。その成果が、一九三〇年四月のロンドン海軍軍縮条約の締結である。しかし、一九三一年九月に勃発した満州事変は、幣原外交に大きな打撃を与えた。事変勃発後、すぐさま不拡大方針を決定するも、現地軍の暴走を抑えることができず、同年末に若槻礼次郎内閣は総辞職し、幣原外交は終焉を迎えるのである。

広田外交

 幣原の退陣後、外務省内の主流派となったアジア派外務官僚によって現状打破構想が本格的に追求されるのが、一九三三年九月から三六年四月までの広田弘毅外相、重光外務次官体制下であった。その最初の試みが満州の経済的勢力圏化であった。一九三二年の満州国の建国により、同地域に対して政治的影響力を及ぼす基盤が完成したため、次に経済的優越性を確保すべく、一九三三年九月から満州の経済統制の方針に関する議論が日満産業統制委員会で開始された。翌年三月に「日満経済統制方針要綱」が完成し、満州の重要産業に関する一般的な統制方針が決定されると、日本は順次各種産業の統制に取り掛かったが、その際米国から非難の声が頻繁に上がった。その一例が、石油業の統制過程である。一九三四年二月に「満州石油会社」が設立されると、五ヵ月後の七月に米国から日本に対し、九カ国条約違反を指摘する抗議がなされた。しかし外務省は、統制は満州国の自主的な措置であり、制度上、日本はなんら九カ国条約に抵触していない、という旨の返答を行い、日米間は九カ国条約に関する原則論的対立に終始することとなった。その間に、日本は満州の石油専売制度の実施を断行し、米国系石油会社を満州から撤退を余儀なくさせた。このように、英米との関係を考慮しつつも、半ば強引に経済統制を進めることによって満州を九カ国条約の門戸開放・機会均等主義から引き離すことに成功したのである。

 一方、中国国民党に対しては、広田外相の代名詞ともなった「日中親善外交」を展開し、国民党の親日派との提携を模索していた。一九三三年一〇月の五相会議においても、「日満支三国の提携共助」を実現させることが今後の対中方針として正式に決定していた。一九三五年五月に英米に先駆けて在中公使館を大使館へ昇格させたことは、こうした広田外相の対中親善策の最たる例であろう。しかし、満州問題が足枷となり、日中間の提携は一筋縄には進まなかった。そうした中、満州事変と同様に、現地軍が主導する形で華北分離工作が開始される。広田はこうした軍部の工作を利用し、(1)排日の停止、(2)満州国の承認、(3)共同防共、という所謂「広田三原則」を中国側に要求した。だが、「広田三原則」は日本の要求だけを一方的に中国に押し付けたものであったため、逆に国民党内の親日派の衰退を招くこととなった。また、こうした安易とも言える広田外相の対応は、それまで東アジア秩序及び日米関係の維持のために、日本に譲歩的であった米国務省の対日態度をさらに硬化させる要因ともなった。同年十一月には傀儡政権である翼東防共自治政府が樹立され、日中親善どころかますます両国関係が悪化していく状況の中、一九三六年二月二六日に発生した二・二六事件によって当時の岡田啓介内閣は総辞職し、広田外相、重光次官もそれぞれその任を解かれたのである。

 その後、広田内閣、林銑十郎内閣という二つの短命内閣を挟み、一九三七年六月四日に第二次近衛文麿内閣が組閣され、広田が再び外相を努めることとなった。自身の在任中に戦争は決して起きない、と演説した広田外相であったが、就任からわずか一ヵ月後の七月七日に盧溝橋事件が発生し、戦火は瞬く間に日中の全面戦争へと拡大した。この頃の広田外相には日中提携のため日中戦争を解決しようとする気概は感じられず、近衛首相や軍部の方針に追従するだけであった。

 日中戦争は日本側の当初の予想を超えて長期化し、近衛首相が「国民政府ヲ対手トセズ」という、所謂「近衛声明」を発する等、泥沼化の様相を見せた。そうした状況を打開すべく、一九三八年五月二六日に広田に変わり、元陸軍大臣である宇垣一成を外相に据えた。宇垣外相は、和平の交渉相手を自ら喪失させた「近衛声明」の撤回を条件に入閣したのであるが、彼は日中戦争を解決するには英米の理解を得る必要があるとも認識しており、七月下旬から始まったクレーギー英駐日大使との会談でも、終始譲歩的姿勢を示した。しかし宇垣外相のこうした態度に軍部は反発した。そこで陸軍は宇垣外相による譲歩的な和平工作を妨害すべく、興亜院の設置に乗り出し、対中外交権を宇垣から奪おうとしたのである。結局、宇垣は興亜院設置問題によって外相を辞職してしまう。

東亜新秩序構想         

 宇垣の辞職後、近衛首相は約一ヵ月間外相を兼任した後に有田に外相就任を要請する。この頃には、日本は軍事作戦による日中戦争の解決は断念して、政治工作による解決方法を模索していた。その一つが汪兆銘工作であった。親日派であった汪兆銘に接近し和平の機会を窺おうとしていたのであるが、そのためには近衛自身が「近衛声明」を撤回しなければならなかった。そこで発表されたのが「国民政府と雖も拒否せざる旨の政府声明」、すなわち「東亜新秩序声明」であった。

 日本、満州、中国の連帯を説いた東亜新秩序構想と十一月一八日の有田外相による九カ国条約の否定は、それまで比較的対日譲歩的であった米国をして、経済制裁として日米通商航海条約の廃棄を考慮させるに至った。日本が米国の経済制裁を回避するには、日中戦争の早期解決と、列国の在華権益が保護されることを示す新たなプログラムを提示する必要があった。しかし、当該期の有田外相及び外務省は、そのどちらに関しても具体的な計画は持ち合わせていなかった。そして、英米の理解を得られぬまま列国の在華権益を侵害する占領地政策が続き、ついに一九三九年七月に米国は日米通商航海条約廃棄通告を行ったのである(失効は半年後)。

 この間、外務省は無為に軍部等に追従していたわけではなかった。その端的な例が日独防共協定強化問題である。一九三六年一一月に結んだ日独防共協定を、英仏をも対象とした日独の軍事同盟に昇格させるか否か、という議論が第一次近衛内閣期から存在していた。協定強化に積極的であったのが陸軍と外務省革新派であった。平沼騏一郎内閣期には数十回にわたり五相会議が開かれ、同問題について協議されたのであるが、有田外相は英・仏を含めた列国との関係改善を模索しており、そうした努力を反故にする協定強化には断固として反対した。結局、同問題に関して決着がつかぬままにドイツが一方的にソ連と不可侵条約を締結したため、日本国内でも協定強化問題は立ち消えとなった。

 しかし、一九四〇年になってドイツが電撃的な攻勢を見せると、日本国内では「バスに乗り遅れるな」というスローガンの下、日独提携強化論が再燃する。そして、一九四〇年七月に成立した第二次近衛内閣期となって松岡洋右外相は日独伊三国同盟を締結するのである。また同内閣期の日本軍の南部仏印進駐は、米国による在米日本資産の凍結、石油の対日全面禁輸措置を招き、日米関係は加速度的に悪化することとなった。むろん、外務省は対米関係改善の道を真珠湾攻撃の直前まで決して諦めたわけではなかった。開戦時の外相であった東郷茂徳は、軍部における開戦派を抑えつつ日米交渉によってなんとか対米戦を回避しようとした。しかし、一九四一年一月二六日に米国から届いた所謂「ハル・ノート」は東郷ら非戦派の希望を打ち砕くこととなり、終に一二月八日を迎えるのである。
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