『可能性としてのフッサール現象学』より 他者と間主観性の現象学
「他者」論とは何か
そもそも、「他者」とは何なのか。それは、おそらく日常生活のなかであまりよく使う言葉ではない。似た言葉で、ふだんよく使っているのは、「他人」という言葉だろう。しかし、「他者」という語の用法は必ずしも「他人」のそれとは重ならない。例えば、自分の祖父母、両親、兄弟姉妹、妻、子ども、孫といった家族のことをふつう「他人」とは呼ばない。それでも、妻はもともとは「他人」だったし、離婚してしまえば「他人」になる。兄弟は「他人」の始まりと言われ、おじ・おば、姪・甥、いとこ、またいとこ、あるいは義理の両親など、どこまでが「他人」ではないと言えるのか、その境界には曖昧なところがある。それに比べ、妻や子どもという自分のもっとも身近な家族といえども、自分とは違う(身体が分離してぃる)という意味では「他者」と呼ぶことができる。この意味では、「他者」は曖昧なところがなく、「私」以外はすべて「他者」と呼ばれる。
他方、「他者」にはもう少し別の用法もある。自分あるいは自分たちと異なる(異質な)人あるいは人びとを「他者」と呼ぶような用法である。例えば、男にとって女は「他者」であるし、大人にとって子どもは「他者」であるし、若者にとって高齢者は「他者」であるし、日本人にとって外国人は「他者」であり、その逆もすべて同様に「他者」である。例を広げれば、教師にとって学生は「他者」であるし、医師にとって患者は「他者」であるし、ケアする人にとってケアされる人は「他者」であるし、等々その逆も同様、ということになる。この意味では、男同士や女同士は「他者」ではなく、大人同士や子ども同士も「他者」ではなく、という具合に、さきほどのように「私」とそれ以外の「他者」とのあいだで線が引かれるのではなく、さまざまな意味での集まりである「私たち」とそれ以外の人たちの集まりである「他者」とのあいだで線が引かれることになる。
あるいはまた、「他人」という語は、それで呼ばれるのが人間であることを前提しているが、「他者」というのは必ずしも人間でなくてもいいように思われる。人間にとって動物は「他者」と言ってもいいし、動物を主体として考えるなら、例えば野生のクマにとって人間は「他者」かもしれないし、猿にとって犬は「他者」かもしれない。人間とは限らない何かにとって、それと異なる異質な何かは、それにとって「他者」と呼ばれるだろう。
このように「他人」と「他者」とは似ているようでいて必ずしも重ならず、「他人」ではないのに「他者」である場合(例えば、妻)もあれば、「他人」なのに「他者」ではない場合(例えば、幼ななじみ)もある。
さらにもう少し言えば、私たちは日常生活のなかで、多くの「他人」と接しており、ふだん何気なく彼らと挨拶をかわし、仕事や勉強の話をし、一緒にどこかに行ったり、一緒に何かをしたりしているとき、彼らが「他人」だと分かってはいるか、彼らを「他者」とは考えてみたこともないだろう。そこには、おそらく「他者」というような言葉が入り込む余地はない。ところが、あるとき、突然、こうした関係が一転するときがある。親しくしていた(親しぃっもりでぃた)「他人」が、突然、疎遠な、見知らぬ、なじみのない、何を考えているのか分からない「他者」となって現れてくる。まわりの人たちが異邦人になってしまったのか、私が異邦人になってしまったのか、いずれにしても、隣人だった「他人」が突然「他者」となって現れることがある。例えば、うつ状態になったり、若年認知症になったり、がんで余命半年と宣告を受けたりした時のことを想像してみるといい。日常生活のなかでは無縁だった「他者」という言葉が、突如として、日常生活のなかに入り込んできて、そこにくさびを打ち込み、裂け目を作ってしまう。
こうして、日常生活のなかで当たり前の事実としてある「他人」に対して、「他者」は日常生活のなかにはなかった非日常的なものをもちこむ言葉とも言えよう。このように日常的な「他人」から非日常的な「他者」へと広がる現象に関わる問題を、ここでは「他者」論と呼びたい。
振り返ってみると、デカルトの「我思うゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」が開いたヨーロッパ近代哲学は、基本的に、「私」や「主観」を原点に据えようとする哲学であって、そこでは、このような「他者」論が、哲学の問題として考えられてはいなかった。「良識(理性)は生まれつき万人に等しく与えられている」のであり、「思う」ということができる誰にも「我あり」という確実性は適用されるのであって、「我思う」は確実であるが「汝思う」とか「彼/彼女が思う」とかは確実ではなく疑うことができる、などということはデカルトには思いもよらなかったことであろう。「我」について言えることは、そのまま「万人」について言えることとなり、「我と他人」の差異は一挙に飛び越されてしまう。
その点では、デカルトが生まれつき万人に備わっているとした「生得観念」を否定し、人間は「白紙(タブラ・ラサ)」の状態で生まれてきて、すべての認識を「経験」から得ることになると考えたロックから始まる英国経験主義において、初めて、「私と他人」の差異が問題にされたと言ってよい。「心のなかにある観念」は「他人」には見えず、「観念の記号」である言語や身体を通じて、「私」は「他人の心」を類推することになる。このような「他人の心」について、ロックを継承しながらも、ヒュームは「共感」を人間の本性に据えようとした。▽几世紀になって、J・S・ミルはそれを「類推」によって説明しようとしたが、ヒューム『人性論』のドイツ語訳者でもあったテオドア・リップスは、ミルの議論を批判しつつ、「感情移入」を美学・倫理学の基礎として展開した。このように、「私は他人の心をどうやって知ることができるのか」という「他人の心」の問題は、ロック以来の英国経験主義の伝統のなかで論じられ、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』から『哲学探求』への展開のなかでの「他人の心」をめぐる議論もその伝統のなかで考えられている。さらに言えば、現代の霊長類研究や児童心理学の自閉症研究などで論じられる「心の理論」(よく「サリーとアンの課題」にょって説明される)も、この延長線上にあると言ってもいい。また、最近ではミラーニューロンの発見によって、俄然、この「感情移入」論が脳科学との関連で議論されるようになっている。これらについては、ここでは示唆するにとどめる。
フッサールの「他者」論
では、フッサールは、どのようにして「他者」の問題に関心を向けるようになったのだろうか。現象学の「突破口となった著作」である『論理学研究』(一九〇〇/○一年)の第二巻第一研究「表現と意味」において、「孤独な心的生における表現」と対比させて「コミュニケーション機能における表現」に言及したときに、フッサールは、初めて「他者」の問題に触れている。彼は、言葉によって伝達ということが可能になるのは、「聴き手が話し手の意図を理解する」ことによってであり、しかもそれは、「聴き手が話し手を、単に音声を生みだしているというだけでなく、自分に話しかけている人だと捉える」ことによるのだと言う。こうして「話すことと聴くこと、つまり、話すことにおける心的体験を知らせることと、聴くことにおける心的体験を受け取ることとは、互いに関係づけられている」と言う。したがって、「コミュニケーション機能における表現」は、「話し手の〝思想〟を表す記号」として機能しており、それを彼は「知らせる(告知する)機能」と呼んでいる。しかも、この「知らせること(告知)を理解することは、概念的な知でも判断でもなく、聴き手が話し手をしかしかのことを表現している人として直感的に捉える(統握または統覚する)ことにある」と記している。そのうえで、フッサールは、「日常的な言い方は、他人の心的体験についても知覚という語を割り当て、私たちは彼(彼女)の怒りや痛みなどを〝見る〟と言う。こういう言い方はまったく正しいのだ」と注意する。
「聴き手は、話し手がある心的体験を表出していることを知覚し、そうである限り、彼はこの(話し手の)体験を知覚している。しかしながら、彼はそれを自ら体験しているわけではなく、〝内的な〟知覚ではなく〝外的な〟知覚をもつのみである」と述べている。さらに、ここには「相互的な理解」が成立していて、それは「知らせることと受け取ることの両側で展開される心的作用の或る相関関係を要求するが、その十全な同等性を要求するわけではない」と述べている。しかし、フッサール自身のそこでの関心は、そのような「交流のなかで伝達されることのないような心的生活においても表現には大きな役割が与えられる」として、「孤独な心的生活における表現」においても表現は何かを意味し、会話においてと同じ意味をもっており、そこでどちらの場面においても働いている意味機能へと向かって行く。こうして、他者の体験を知ることにまつわる問題は、脇においたままで議論は進んで行くことになった。『論理学研究』では、それ以上に、「他者」の問題に踏み込むことはなかった。
フッサールが「他者」の問題に入り込むようになったのは、前述のリップスの「感情移入」論から刺激を受けたのが一つのきっかけになったと思われる。『論理学研究』の刊行は当時あちこちにインパクトを与えたが、その一つが、ミュンヘン大学にいたリップス門下の研究者達のグループで、彼らは揃ってフッサールのいたゲッティングンに足繁く通うようになった(後に、「ミュンヘン現象学派」と呼ばれるょうになる)。おそらくそうした交流のなかで、彼らから紹介されて、リップスの『倫理的根本問題』や「『感情移入』続論」(ともに一九〇五年刊)に関心を寄せたと思われる。また、その頃、初めリップスのもとにいたが、その後、ゲッティングンのフッサールのサークルに合流し、『哲学と現象学研究のための年報』の編集に協力していたマックスーシェーラーが、処女作『共感感情の現象学と理論、ならびに愛と憎しみについて』(一九一三年)を執筆し、そのなかで感情移入論を批判的に取り扱ったのも、当時のフッサールと関心を共有するものと言ってよいだろう。同様に、その頃フッサールの助手を務めていたエディット・シュタインが、その博士論文を『感情移入の問題』(一九一七年)と題して執筆したのも、偶然ではないだろう(これらの著作は、フッサールの蔵書として保管されている)。
しかし、リップスの「感情移入」論は、単純に上記の「他人の心」問題と一緒にするわけにはゆかない。というのも、さきほど後者を、「私は他人の心をどうやって知ることができるのか」と紹介したが、そこでは「知る」という知的レベルで「他人の心」の問題を考えようとしており、ミルの「類推(類比推理)」説も知的レペルに定位していたと言ってよい。それに対する批判から、リップスは「感情移入」を知的レペルではなく感情的あるいは本能的レベルに定位しようとしている。さらに言えば、フッサールは、このようなリップスの「感情移入」論を批判しながら、それを「他人の心」より以前に、「他人の身体」をまさに「身体」として捉えるというレペルで考えようとしている。それは、シェーラーが、「心身の未分化な体験」によってミルやリップスを批判したように、フッサールに心身関係についての再考を迫るものになっただろう。
さて、しかしながら、冒頭で、西洋哲学史上初めて「他者」を哲学の根本問題とみなして取り組んだと述べたが、それはフッサールが、上記のような、哲学の問題のIつかも知れないが、必ずしも根本問題とは言えないような「他人の心」の問題にとどまるのではなく、もっと広い「他者」の問題としてとらえ、それを「現象学の根本問題」に据えたということを意味している。「他者」を哲学の根本問題とみなしたことは、それを「間主観性」の現象学という問題圏のなかに据えたということと別のことではない。フッサールは、「他者」についての考察を早い時期から「間主観性」の問題として論じようとしていたのである。では、「間主観性」とは何だろうか。
「他者」論とは何か
そもそも、「他者」とは何なのか。それは、おそらく日常生活のなかであまりよく使う言葉ではない。似た言葉で、ふだんよく使っているのは、「他人」という言葉だろう。しかし、「他者」という語の用法は必ずしも「他人」のそれとは重ならない。例えば、自分の祖父母、両親、兄弟姉妹、妻、子ども、孫といった家族のことをふつう「他人」とは呼ばない。それでも、妻はもともとは「他人」だったし、離婚してしまえば「他人」になる。兄弟は「他人」の始まりと言われ、おじ・おば、姪・甥、いとこ、またいとこ、あるいは義理の両親など、どこまでが「他人」ではないと言えるのか、その境界には曖昧なところがある。それに比べ、妻や子どもという自分のもっとも身近な家族といえども、自分とは違う(身体が分離してぃる)という意味では「他者」と呼ぶことができる。この意味では、「他者」は曖昧なところがなく、「私」以外はすべて「他者」と呼ばれる。
他方、「他者」にはもう少し別の用法もある。自分あるいは自分たちと異なる(異質な)人あるいは人びとを「他者」と呼ぶような用法である。例えば、男にとって女は「他者」であるし、大人にとって子どもは「他者」であるし、若者にとって高齢者は「他者」であるし、日本人にとって外国人は「他者」であり、その逆もすべて同様に「他者」である。例を広げれば、教師にとって学生は「他者」であるし、医師にとって患者は「他者」であるし、ケアする人にとってケアされる人は「他者」であるし、等々その逆も同様、ということになる。この意味では、男同士や女同士は「他者」ではなく、大人同士や子ども同士も「他者」ではなく、という具合に、さきほどのように「私」とそれ以外の「他者」とのあいだで線が引かれるのではなく、さまざまな意味での集まりである「私たち」とそれ以外の人たちの集まりである「他者」とのあいだで線が引かれることになる。
あるいはまた、「他人」という語は、それで呼ばれるのが人間であることを前提しているが、「他者」というのは必ずしも人間でなくてもいいように思われる。人間にとって動物は「他者」と言ってもいいし、動物を主体として考えるなら、例えば野生のクマにとって人間は「他者」かもしれないし、猿にとって犬は「他者」かもしれない。人間とは限らない何かにとって、それと異なる異質な何かは、それにとって「他者」と呼ばれるだろう。
このように「他人」と「他者」とは似ているようでいて必ずしも重ならず、「他人」ではないのに「他者」である場合(例えば、妻)もあれば、「他人」なのに「他者」ではない場合(例えば、幼ななじみ)もある。
さらにもう少し言えば、私たちは日常生活のなかで、多くの「他人」と接しており、ふだん何気なく彼らと挨拶をかわし、仕事や勉強の話をし、一緒にどこかに行ったり、一緒に何かをしたりしているとき、彼らが「他人」だと分かってはいるか、彼らを「他者」とは考えてみたこともないだろう。そこには、おそらく「他者」というような言葉が入り込む余地はない。ところが、あるとき、突然、こうした関係が一転するときがある。親しくしていた(親しぃっもりでぃた)「他人」が、突然、疎遠な、見知らぬ、なじみのない、何を考えているのか分からない「他者」となって現れてくる。まわりの人たちが異邦人になってしまったのか、私が異邦人になってしまったのか、いずれにしても、隣人だった「他人」が突然「他者」となって現れることがある。例えば、うつ状態になったり、若年認知症になったり、がんで余命半年と宣告を受けたりした時のことを想像してみるといい。日常生活のなかでは無縁だった「他者」という言葉が、突如として、日常生活のなかに入り込んできて、そこにくさびを打ち込み、裂け目を作ってしまう。
こうして、日常生活のなかで当たり前の事実としてある「他人」に対して、「他者」は日常生活のなかにはなかった非日常的なものをもちこむ言葉とも言えよう。このように日常的な「他人」から非日常的な「他者」へと広がる現象に関わる問題を、ここでは「他者」論と呼びたい。
振り返ってみると、デカルトの「我思うゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」が開いたヨーロッパ近代哲学は、基本的に、「私」や「主観」を原点に据えようとする哲学であって、そこでは、このような「他者」論が、哲学の問題として考えられてはいなかった。「良識(理性)は生まれつき万人に等しく与えられている」のであり、「思う」ということができる誰にも「我あり」という確実性は適用されるのであって、「我思う」は確実であるが「汝思う」とか「彼/彼女が思う」とかは確実ではなく疑うことができる、などということはデカルトには思いもよらなかったことであろう。「我」について言えることは、そのまま「万人」について言えることとなり、「我と他人」の差異は一挙に飛び越されてしまう。
その点では、デカルトが生まれつき万人に備わっているとした「生得観念」を否定し、人間は「白紙(タブラ・ラサ)」の状態で生まれてきて、すべての認識を「経験」から得ることになると考えたロックから始まる英国経験主義において、初めて、「私と他人」の差異が問題にされたと言ってよい。「心のなかにある観念」は「他人」には見えず、「観念の記号」である言語や身体を通じて、「私」は「他人の心」を類推することになる。このような「他人の心」について、ロックを継承しながらも、ヒュームは「共感」を人間の本性に据えようとした。▽几世紀になって、J・S・ミルはそれを「類推」によって説明しようとしたが、ヒューム『人性論』のドイツ語訳者でもあったテオドア・リップスは、ミルの議論を批判しつつ、「感情移入」を美学・倫理学の基礎として展開した。このように、「私は他人の心をどうやって知ることができるのか」という「他人の心」の問題は、ロック以来の英国経験主義の伝統のなかで論じられ、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』から『哲学探求』への展開のなかでの「他人の心」をめぐる議論もその伝統のなかで考えられている。さらに言えば、現代の霊長類研究や児童心理学の自閉症研究などで論じられる「心の理論」(よく「サリーとアンの課題」にょって説明される)も、この延長線上にあると言ってもいい。また、最近ではミラーニューロンの発見によって、俄然、この「感情移入」論が脳科学との関連で議論されるようになっている。これらについては、ここでは示唆するにとどめる。
フッサールの「他者」論
では、フッサールは、どのようにして「他者」の問題に関心を向けるようになったのだろうか。現象学の「突破口となった著作」である『論理学研究』(一九〇〇/○一年)の第二巻第一研究「表現と意味」において、「孤独な心的生における表現」と対比させて「コミュニケーション機能における表現」に言及したときに、フッサールは、初めて「他者」の問題に触れている。彼は、言葉によって伝達ということが可能になるのは、「聴き手が話し手の意図を理解する」ことによってであり、しかもそれは、「聴き手が話し手を、単に音声を生みだしているというだけでなく、自分に話しかけている人だと捉える」ことによるのだと言う。こうして「話すことと聴くこと、つまり、話すことにおける心的体験を知らせることと、聴くことにおける心的体験を受け取ることとは、互いに関係づけられている」と言う。したがって、「コミュニケーション機能における表現」は、「話し手の〝思想〟を表す記号」として機能しており、それを彼は「知らせる(告知する)機能」と呼んでいる。しかも、この「知らせること(告知)を理解することは、概念的な知でも判断でもなく、聴き手が話し手をしかしかのことを表現している人として直感的に捉える(統握または統覚する)ことにある」と記している。そのうえで、フッサールは、「日常的な言い方は、他人の心的体験についても知覚という語を割り当て、私たちは彼(彼女)の怒りや痛みなどを〝見る〟と言う。こういう言い方はまったく正しいのだ」と注意する。
「聴き手は、話し手がある心的体験を表出していることを知覚し、そうである限り、彼はこの(話し手の)体験を知覚している。しかしながら、彼はそれを自ら体験しているわけではなく、〝内的な〟知覚ではなく〝外的な〟知覚をもつのみである」と述べている。さらに、ここには「相互的な理解」が成立していて、それは「知らせることと受け取ることの両側で展開される心的作用の或る相関関係を要求するが、その十全な同等性を要求するわけではない」と述べている。しかし、フッサール自身のそこでの関心は、そのような「交流のなかで伝達されることのないような心的生活においても表現には大きな役割が与えられる」として、「孤独な心的生活における表現」においても表現は何かを意味し、会話においてと同じ意味をもっており、そこでどちらの場面においても働いている意味機能へと向かって行く。こうして、他者の体験を知ることにまつわる問題は、脇においたままで議論は進んで行くことになった。『論理学研究』では、それ以上に、「他者」の問題に踏み込むことはなかった。
フッサールが「他者」の問題に入り込むようになったのは、前述のリップスの「感情移入」論から刺激を受けたのが一つのきっかけになったと思われる。『論理学研究』の刊行は当時あちこちにインパクトを与えたが、その一つが、ミュンヘン大学にいたリップス門下の研究者達のグループで、彼らは揃ってフッサールのいたゲッティングンに足繁く通うようになった(後に、「ミュンヘン現象学派」と呼ばれるょうになる)。おそらくそうした交流のなかで、彼らから紹介されて、リップスの『倫理的根本問題』や「『感情移入』続論」(ともに一九〇五年刊)に関心を寄せたと思われる。また、その頃、初めリップスのもとにいたが、その後、ゲッティングンのフッサールのサークルに合流し、『哲学と現象学研究のための年報』の編集に協力していたマックスーシェーラーが、処女作『共感感情の現象学と理論、ならびに愛と憎しみについて』(一九一三年)を執筆し、そのなかで感情移入論を批判的に取り扱ったのも、当時のフッサールと関心を共有するものと言ってよいだろう。同様に、その頃フッサールの助手を務めていたエディット・シュタインが、その博士論文を『感情移入の問題』(一九一七年)と題して執筆したのも、偶然ではないだろう(これらの著作は、フッサールの蔵書として保管されている)。
しかし、リップスの「感情移入」論は、単純に上記の「他人の心」問題と一緒にするわけにはゆかない。というのも、さきほど後者を、「私は他人の心をどうやって知ることができるのか」と紹介したが、そこでは「知る」という知的レベルで「他人の心」の問題を考えようとしており、ミルの「類推(類比推理)」説も知的レペルに定位していたと言ってよい。それに対する批判から、リップスは「感情移入」を知的レペルではなく感情的あるいは本能的レベルに定位しようとしている。さらに言えば、フッサールは、このようなリップスの「感情移入」論を批判しながら、それを「他人の心」より以前に、「他人の身体」をまさに「身体」として捉えるというレペルで考えようとしている。それは、シェーラーが、「心身の未分化な体験」によってミルやリップスを批判したように、フッサールに心身関係についての再考を迫るものになっただろう。
さて、しかしながら、冒頭で、西洋哲学史上初めて「他者」を哲学の根本問題とみなして取り組んだと述べたが、それはフッサールが、上記のような、哲学の問題のIつかも知れないが、必ずしも根本問題とは言えないような「他人の心」の問題にとどまるのではなく、もっと広い「他者」の問題としてとらえ、それを「現象学の根本問題」に据えたということを意味している。「他者」を哲学の根本問題とみなしたことは、それを「間主観性」の現象学という問題圏のなかに据えたということと別のことではない。フッサールは、「他者」についての考察を早い時期から「間主観性」の問題として論じようとしていたのである。では、「間主観性」とは何だろうか。
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